2020年10月30日

文明と文字(文字のある所に文明がある)

文明と文字(文字のある所に文明がある)

文明という時いろいろな見方がある、何が文明なのか?civilizationのcivilは市民のことである、すると市民がいて文明があるとなる
その市民とは何かとなると城壁内に囲まれた戦士の団体だったともなる
そこにヨ−ロッパの歴史がありそれが文明だとなる

でも文明の見方として文字が大きな役割を果たしていた、文字のないところに文明はないともなる、ただマヤ文明でもインカ文明でもアステカ文明でも文字がない
マヤ文明には文字があったとしてもそれは文字とも言えないだろう
文字として通用していない、エジプトのヒエログリフは神聖文字でありそれは明らかに文字であり体系化されていて解読された、だから一つの文明を形成していた

最も古い文字は粘土に刻まれた楔形文字である、メソポタミア周辺に生まれた一番古い文字である、その文字には法律のことを目には目をとか復讐を認める法文が刻まれていた
ともかく文字があるところに文明があり、文字がないと文明がないとも区別できる
日本文明は言葉はあった、言葉は別に原始的な部落でもある

でも文字はないのである、言葉は縄文時代にもあった、でも文字はなかったから縄文時代は日本文明とは言えないともなる、ただ文字があったのだということを言う人はいる
でもそれは外国からも考察して認められているのかというとない
奈良時代に中国から漢字を取り入れた時、日本に文字が生まれた
すると奈良時代に日本は文明化したとなる、文明とは文のことであり文字のことでもあったからだ
中国文明が黄河文明とかあるのはそこから漢字が生まれたからだともなる  

漢字は抽象的表現とか造語にもたけている、新しい概念でも漢字で造語できる
絶えず漢字は変化している、でもかなは変化しない文字なのである
それで日本がヨ−ロッパから入ってきた思想とか概念を漢字にした
その数も多いのである、その日本で漢字化されたものが中国に取り入れられているのである、
漢字は何かエジプトのヒエログリフのようにも見えるが柔軟性があり造語にたけている
象形文字で共通だからである、それでヨ−ロッパの文明を漢字にして取り入れたのである
例えば文字というとき今のアルファベットの基はフェニキア人が使っていた文字にある
それは交易のために生まれた、つまり海の商人から生まれた、商業には文字が必要である何かを売った買ったとか領収書のようなものが必ず必要である
すると文字が必要でありそれでアルファベットの基になるものが作られた
文字とか数字は商業に不可欠なのである

聖書でも最初に言葉があった、ロゴスがあったというとき人間は言葉を通じて世界を表現する、また文字によって後世に歴史を伝える
文字がなかった時代は語り伝えるほかないのである、それはどうしても何代にわたると忘れやすいし変化が大きくなる
すると文字にしていれば千年でも変わらずそのままだとなり伝えられることになる
もしエジプト文明でもヒエログリフがなかったら皆目わからないことが謎として残っていた
文字は何か神秘的なものでありそれは神によって与えられたともなる

相馬藩政期で生波で溺死、700人と記録されていた、それもたった二行だった
でもこれがどれほど貴重な記録だったか津波が来てわかったのである
この辺では津波は来ないということを信じていた、でも400年前の記録に生波(いくなみ)で400人溺死したと記録されていた、生波(いくなみ)は慶長津波の時であり津波という言葉はなかった、慶長津波の後に仙台に来て津波を知った三河藩の人たちが津浪という言葉を発明したのである

言葉というときなぜヨ−ロッパとかアメリカとか他でもアルファベットが基本なのか?
ヨ−ロッパではいろいろな国があっても文字はアルファベットなのである
なぜそうしてコンピュターのプログラミングの言葉は文字は英語でありアルファベットである、つまりこのアルファベットであることがインタ−ネットを生んだのかともなる
英語ではない漢字だったらインタ−ネットのITの社会は生まれなかったともなる
漢字でプログラミングできないからである
アルファベットにはそういう融通性があったともなる
漢字はヒエログリフとにていてそれでIT化になじまず遅れたのかとなる

それだけ文字というのは人間社会に影響していたのである、だから文明は文であり中国では文の国であり漢字の国である、文字で記されていることに重きを置く、歴史に重き置く社会である,正史に記されることが重要になる
日本でも奈良時代になると木簡に漢字で記されることが多くなりそれから歴史が解明される、文字がないと語り伝えるだけでありそこにも重要なものがあってもどこまで信頼していいかわからないが文字として残っていれば信頼できるとなる

また文字に残すことは証拠にもなる、証明にもなる、証文があるとそれが信用される
それを悪用するものがいても他に信用を得るのはむずかしい、だから口約束が破られ安い文書として残さないと遺産とか遺言書でも保証できないとなる
だから文字の効能はそれだけ大きいのである
そして文字を読めたのは書けた人はエリートとなり支配者ともなる
それでエジプトでは書記が高い地位についたのである
文字を書けて読める人はエリートとなり官僚となり支配者になれたのである
知識人ともなり支配する立場に立てたともなる

明治になっても文字を読めない人がいた、それで人に頼むからあわれだった
手紙でもハガキでも書けないからだ、それは江戸時代でも代筆とかする人がいた
明治でもみんな読み書きできたわけではないのである
つまり読み書きできることが文明度を計ることができるともなる
アメリカでは新聞を読めない人が多いかとか言う、日本だとみんな新聞を読んでいるとして驚いたというのもそれだけ日本は読み書きができていたからヨ−ロッパ文明に追いついたともなる

ともかく文字を読むこと文を書くことは人間にとってかなり高度な知的なことなのであるだから本を読むことは苦労である、文を書くことも苦労である
普通は庶民は本を読まないということもわかる、それだけ苦労だからである
テレビを見ているのが楽だからそれで一億総白痴化されるのである
映像の時代にしろどうしても映像だけでは現せないものがある
映像の時代はかえってフェクニュースを作るものとなる
作られた映像でも映像の方が信じやすいのである、そこに映像の問題がある
つまり現代は映像に左右されやすい、映像の影響が大きすぎるのである
絶えず映像の洪水にさらされていて文字の役割りが縮小する
そこに実際はなんらか問題が生まれている、映像だとあまり考えるということがない
イスラム教でテレビとか否定したのは映像に左右される偶像崇拝になりやすいからそうなった、それだけ映像のインパクトは強すぎるからである

いづれにしろインタ−ネット上で文字だけでやりとりする、会話するというのはありえないことだった、会話とはまさに向き合って話すことである
それをインタ−ネット上で文字で文章で話す対話することはありえないことだった
でもそれも普通になったのが現代である
ただこの文だけで会話する対話するのは今までありえないことだから問題が生じる
自分はそれが苦手でありなじめいなので今のところは対話していない
答えてもいない、それは何か相手のことがまずどういう人かわからない
会話する対話する前提として相手がどういう人なのかある程度知らないと対話できないと思う、また何を対話するのかも問題になる
だから相手が大人と思ったら中学生だったとか男だと思ったら女だったとか普通にある
これが実際に逢って話していたらありえなことである
そこにインタ−ネット上で犯罪だとか問題が起きたのである
ただふざけたような人が多すぎるからだ、からかい楽しんでいるとかそんな人が多い
だからインタ−ネット上で真面目なことを追及するのはむずかしいともなる
                                                                    
ただ別に文章は必ずしも面と向き合うということではない、文書を遠くまで運び届ける
それには何か商業なら証書ともなるようなものにもなる
だから面と向き合わなくても文書を通じて人間同士がコミケーションする対話するということある、電話とか通信がない世界ではそうして遠くへ送られた手紙とかハガキでも貴重になる
でも何かもう一つ会話とか対話するというときインタ−ネット上ですることがなじめいない、それで自分の場合は一方的に書いているだけだとなる

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