国(くに)とは何なのか?
(古代から国造(くにのみやっこ)から考察)
くに‐の‐みやつこ【国▽造】 の解説
《国の御奴 (みやつこ) の意》大化の改新以前における世襲制の地方官。地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。大化の改新以後は廃止されたが、多くは郡司となってその国の神事もつかさどった。くにつこ。こくぞう。
東の毛野(けぬ)、西の筑紫・豊・肥の君姓国造などさまざまであり、一律に行われた編成ではないことが分かる。
国造はそれぞれの国造の祖神たる神祇の祭祀を司り、部民や屯倉の管理なども行った。国造族の子女を舎人や釆女として朝廷に出仕させており、紀国造や上毛野国造などのように外交に従事したりもした。また、筑紫の国造(筑紫国造)のように北九州を勢力下に入れ朝廷に反抗する者や、闘鶏国造のように解体された国造も存在する。
国(くに)を考察するときそこが最小の国からの行政単位としてあった
だから国造(くにのみやっこ)が中央から派遣された
ただもともとそこに何らか国が形成されていないとそれもできない、その地域に国が形成されていて国造が中央から派遣された、第一荒野のような所だったら派遣しようがないだろう
浜通りでは石城(いわき)、染羽(しめは)、浮田が国造りが置かれた地域である
染羽(しめは)は浪江辺りであり浮田は南相馬市の鹿島区である
だから古代になるとこの三つの地域はすでに一つの国が形成されていたとなる
そこに何らか国となる人口があり人々がそれなりに住んでいたとなる
一番古い国があったとなる 、これは毛野系統なのである
ただクニというとき県(あがた)がありムラがありマチがありミヤコがある、クニというのがどれくらいの範囲なのか明確ではない、国造りのクニは狭い範囲なのである、浮田などになるとそこは相当に狭い、一つの村くらいなのである
だからクニという今の感覚では狭すぎるとなる
会津嶺の国をさ遠み逢わなはば偲びにせもと紐結ばさね
万葉集にのっている国では会津が一番古いとなる、でも会津というとき広いのである
それだけの広い所が国として意識されていたとなる
だから国造(くにのみやっこ)が置かれた国とも違って大きいとなる
そもそも国意識がどうして生まれたのか?
それは何か風土と密接に関係している、どちらかとうと四方山に囲まれた地域が国として意識されやすい、だから会津が国として古代から意識されていた
そして日本は地形的に山が多く山に囲まれている、そこに小国(おぐに)という地名が多い、阿武隈山中にも小国がありそういう場所なのである
山超えて小国とあれや春の日やバスにおりたち一時ありぬ
福島市に行くのだがここでバスで降りた記憶があるからだ
それから小国町もありそこは遠かった、さらに青森県の黒石市から温湯(ぬるゆ)温泉へ雪が積もっている時バスで行った、トンネルをぬけるとそこにも小国とあった
こんな奥に小国があるのかと不思議だった、そこは十和田湖に近い場所でもあった
つまりこのように日本に小国という地名が多くそこを一つの国として意識していたのである、だからもともと国はそうして小さい隔絶した山に囲まれた辺鄙な所だった
そこで自給自足して暮らしていたとなる
それにしてもそこまで行くのはバスしかないのだから難儀する、車があれば別だがバスは不便だからである
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クニというとき村とも違う、村は群れるからきているから人の匂いがする
クニは区切られたとか一つの区切られた地域であり自然をイメージする
でも国というときその範囲が拡大して来た、すでに会津嶺の国でもそうである
だから日本全体が国となったのもそうである、でももともと国造りが派遣された場所でありそこは何か狭い場所なのである
今の意識とは相当に違ったものと感じる
柳田は〈ヲグニ〉の特徴として「生活品は塩さえも土地に産することがあり、武陵桃源の隠れ里のごとく、彼らが自得自讃の根拠あることを感ぜしめる」と記しました
日本は山が多いからそういう隔絶した場所にも住んだ、だからそこで小国という意識が生まれた、そこで自給自足して生活していたからである
飯館村などがそういう地理にあり海側からすると峠を越えるのが容易ではない、地理的に隔絶されている、そこは貧しい地域だったともなる、ただ森が多いから炭焼きなどで豊かになった人もいる、木材が豊富だからそれで伊達との争いもあった
いづれろにしろ私は国にこだわるのはその土地と一体化してアイディンティティ化するのが国だからである、ただ故郷ととなると古い里なのだから狭すぎるのである
国というときもっと大きな自然がありそこでアイディンティティ化する場なのである
だからこそ日本国となるのもそれだけクニが広い範囲として国土として意識されたからそうなった、ただ行政的単位ではない、クニとはだから福島県だったら会津とは一体化できない、浜通りと会津とは全く違った風土と地域だからである
だからそれを国として意識することは無理なのである、ただ一応福島県内にあるから親密感はあるとはなる、でも地理的には相馬地域なら宮城県と仙台方面と一体感が海を通じてあったのだ、それは津波で意識された、だから宮城県の津浪の歴史を地理的一体のものとしてもっと郷土史で探求していればよかったとなる
ただ一時私はスマトラ津波の時相馬市に松川浦から津波が来て奥まで砂がボーリングで発見されたとありそのことを書いた、それは貞観津浪のものであった
慶長津波のことは何ら記録されていなかったのである、相馬藩政史に二行700人生波(いくなみ)で溺死としるされていただけなのである
それも津波の以後に発見されたのである、だからここは津浪の記録の空白地帯になっていたのである
ともかく地理と歴史は不可分に結びついている、だから地歴なのである
それで日本国内なら隈なく私は旅行しているから地理はわかるのである
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