2020年12月12日

俘囚とされた蝦夷(エソ)が大量に全国に移住 (真野郷の製鉄にかかわる栗太郡にも移住していた)


俘囚とされた蝦夷(エソ)が大量に全国に移住

(真野郷の製鉄にかかわる栗太郡にも移住していた)

●近江に移住させられていた蝦夷(エソ)の資料発見

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滋賀県栗東市は、律令期の近江国栗太郡(粟田)にあたり、かねてから武井・金沢製鉄遺跡群の技術体系の故地とされる官営製鉄所=瀬田丘陵生産遺跡群を抱えたところ

『六国史』(『類聚国史』の補分を含む)には吉弥侯部や吉弥侯(君子部、君子)を氏とする人物の記述が時折見られる。『続日本紀』では公民や官人としての君子氏や君子部氏、吉弥侯部氏、吉弥侯氏が記載されているが、類聚国史の「俘囚」の項には多くの吉弥侯部氏や吉弥侯氏が俘囚として記録されており、『続日本後紀』以降では俘囚以外にも賊首や賊主としての吉弥侯部氏、吉弥侯氏の記録がある。これら六国史の実際の記載としては「陸奥国俘囚」「陸奥国賊首」「出羽国俘囚」「常陸国俘囚」「甲斐国俘囚」「甲斐国賊主」「越中国俘囚」「摂津国俘囚」「播磨国俘囚」「伊予国俘囚」「安芸国俘囚長」「因幡国俘囚」「出雲国俘囚」「豊前国俘囚」「豊後国俘囚」とされているが、その殆どは何らかの功を挙げ位階を賜った記事となっている。これらの人物の中には、尾張国、駿河国、阿波国へ移配された者もあった

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており[5]、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある


蝦夷とは何かとなればそもそも大和王権が成立する前の日本は先住民がいて蝦夷だったのである、縄文人が先住民でありその後出雲王国があり出雲は蝦夷だったとされる
蝦夷というとき伽耶国とかからその王子のツノガノアラシトが鉄生産技術をもって蝦夷の国に入り先住民化していたのである、だから大和王権が戦った蝦夷とは手こわいものだった、渡来人がもたらした技術をもっていたからである
鉄生産もしていたからである、だからここに書かれている俘囚にしても全国に移住させられた、それで俘囚の反乱もあった
そもそも防人などに兵士として徴集されるのを嫌い反乱したというのもわかる
第一その時代に国という意識がない、狭い範囲しか認識できない、それが突然大和王権の配下になり戦地にでも送られるとしたら抵抗があった
これだけ全国に俘囚がいるとしたらそもそも大和朝廷として全国を治めたとしても不安定になる、それだけ蝦夷制定には苦労したとなる

みちのくの真野の草原(かやはら) 遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

この歌はここまでが大和王権に朝廷に服属した地として知られたものとしての歌だったのである、ここから奥はまだ大和朝廷に服属した地ではなかったのである

吉弥侯部(きみこべ)というとき毛野氏と同族関係にあり浮田国造(うきこくにのみやっこ)は南相馬市の鹿島区にあった、毛野国の支配下にあったともなる

そして

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近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり (直接鉄生産の工人が行き来していた)

ここで考察したように永治二年(1142)の造立で玉桂寺の阿弥陀仏より70年前の資料である、そのように古くからエソが蝦夷がここに移住していたとなる
蝦夷の問題はそれだけ古いし終わることなく鎌倉時代までもつづき江戸時代になると征夷大将軍というのは夷を制するものとして残されたのである
それは鎌倉時代までそういうことが知られていて資料が残ったとなる
実際に真野郷と工人が直接行き来していたのでありそこに定着した人もいるともなる
その継続として今度は蝦夷が俘囚として全国各地に移住させられて管理されていたともなる、つまり歴史の継続が鎌倉時代までつづいていたのである

●阿波の忌部の祭祀集団が千葉県に移住

古語拾遺』(大同2年(807年)成立)[原 11]や『先代旧事本紀』[原 12]の説話によれば、忌部氏遠祖の天富命(天太玉命の孫)は各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えたという[5][6]。

同書では続けて、天富命が植えた麻が良く育ったのでその地を「総国(ふさのくに)」というようになり、また穀の木が育った地を「結城郡」というようになったとし(分注に、麻は「総(ふさ)」の古語とし、また上総国・下総国の2国がこれにあたるとする)、阿波斎部が移住した地は「安房郡」と名付けられたとする(分注に、これが安房国の国名になったとする)。また、同地には「太玉命社」を建てられ、これが「安房社」(現在の安房神社(千葉県館山市)に比定)にあたり、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとも伝えている[5][6]

                                                           
阿波忌部ー織物の技術集団

さたみつとかあるのは忌部氏と関係している、阿波に織物の技術者集団がいてそれは千葉県に移住した、千葉県はもともと総国(ふさのくに)であり下総と上総があったからである、つまり移住するというとき何かしら技術をもった人たちがいると技術が伝えられるとなる、何か越中などの移民が紙漉きの技術を相馬地方に伝えたというのもそうである
さたみつという貞光町がありそこに行ったことがある
そこはうだつの屋並で有名である、ただ屋根に苔むしたり草が生えたりして相当に古くなっていた、その後は煙草の産地として大阪とかに煙草を売ることで栄えたのである
さたみつというのはそれだけ古い由来がある名前だとなる

初燕うだつの屋並貞光町

こんな所まで旅していたのが自分だった、地名でも阿波は安房とかなり移動しているし真野郷とあるときこれも近江に真野があり移動したとなる


 あとがき

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毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)がその伴造だったと考えられており、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている


浮田国造は毛野氏一族の吉弥侯部氏である、毛野系統の支配下にあった
そして賜姓では毛野になっているのはその証拠である
ただ行方郡とかは大伴氏になっているのは注意が必要である
大伴氏が毛野の支配下に入ってきてそうなった
それは大和朝廷の進出を物語っている、そしてそれが真野の草原の歌とも関係している
大伴氏を慕ったのが笠女郎であるからだ
行方郡の真野郷は大和朝廷の支配下に入ったということを示している

毛野氏一族の吉弥侯部氏(君子、浮田国造)はその前のに支配していたのであり大伴氏は後から大和朝廷の進出とともに勢力を伸ばしてきた氏族なのである


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