冬紅葉忌(母の命日)
(人間は死んでも以前として何かが残りつづける)
冬紅葉の一枚一枚が違っている
我が家や曇りガラスに冬紅葉
師走かな母の命日また忘る
冬紅葉散りてあわれや雨にぬれ墓地の道行く母の命日
我が母の座れる所我が座りその長き歳月偲びけるかも
母の命日をまた忘れていた、十二日だった、何か母が座っていた場所に今座っている
炬燵がありそこに座っている、その母もここに40年くらい座っていた
その前は古い家であり20年とか座っていた
考えて見れば長い、それで今日曇りガラスに冬紅葉が写っていた
その冬紅葉が母を象徴していた、それで死んだ日を冬紅葉忌としたのである
まさに冬紅葉のようにな一生だったからである
そして師走に死ぬのにふさわしかった、なぜなら一生働き詰めだったからである
大正生まれであり貧乏であり働かざるを得なかった
そして我が家に嫁いでも働き詰めだった、店をしていたからどうしても食事中でも立たざるを得なかった、それが嫌だった
ところが今度は母のしていたことが自分もせざるを得なくなった
食事中に必ず立っている、それが何かたりないものがあったりかたずけたりするものがあり立たざるを得ないのである
意外とだから一人というのはゆっくり食事ができない、これまでは食事は何もしなくても与えられていたからである
何か母は不運だった、実家が事業で失敗して一家離散のようになったとかありその後後妻がきて継母にいじめられたとか不運であり不遇だったのである
自分の家にきても女中のように使われるだけだったのである
ただ母は何か世間にうとく一人で生きられる人間ではなかった
その母の性質を自分は受け継いでいる
だから曇りガラスに冬紅葉が写っているのがなんとも似合わっている
それぞれの家のことはわかりにくい、でも家はやはり物ではない、箱でもない
何かが物としてではなく人間が生きたという何かが残っている
そこに家の重みがある、単なる物ではないのである
60年とかいればそうなる、そこを離れずに何かが残っている
そして自分にそれが受け継がれたのである
自分の性質は母に似ているからそうなったのである
これは墓には感じないのである、ただ家もいつかなくなる、墓は残るという相違はある
ただ依然として母が座って所に母がいるという感覚になる
そこに自分が座っていて感じたのである
俳句は写生である、写生には深い意味がある、ただその意味をくみとることがむずかしいたからこうしてその意味を説明しているのである
俳句は鑑賞する方が相当にその意味をくみ取らないと鑑賞できない芸術なのである
なんか平凡なものに感じてしまうからである
それにしても人間は死んでもすぐ全く何にも残らなくなるとはならない
何かが残っている、特に家には長くいるから何かが残る
ともかくまた母の命日を忘れたのは自分自身が家事に追われているからである
今日も命日だからと花を買ってきたり墓参りしたりした
そして食事の用意をすることが手間なのである、その合間にプログを書く、これは結構忙しいのである、そのために命日を忘れていたのである
ただ師走に母が死んだのはふさわしいとなる、暇なく働いていたからである
それは94才くらいまで働いていたのである
それで花にも興味がなく趣味もなく人間としては無味乾燥にもなったのである
それも時代でありそういう一生を強いられたととなる
ただその母がなお依然としてここにあると感じるのはその歳月が長かったからなのである
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