2020年12月16日

「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴木啓」を読む (一揆があったことも津波の被害も記録されなかった訳)


「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴木啓」を読む

(一揆があったことも津波の被害も記録されなかった訳)

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新地の碑
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これらの碑は検地の記念碑である
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1574天正
1592文禄
1596慶長
1603慶長徳川家康
1624寛永

1655承応4年/明暦元年
1656明暦2年
1657明暦3年
1658明暦4年
    万治元年
1659万治2年
1660万治3年
1661万治4年/寛文元年
1662寛文2年
1663寛文3年
1664寛文4年
1665寛文5年
1666寛文6年
1667寛文7年
1668寛文8年


「鈴木啓氏の福島の歴史と考古」を読んで私自身が相馬郷土史を調べていてなるほどと納得するものがあった
相馬藩にはなぜか一揆がなかった、でも一揆があった
ただ資料がないので明確にはわからない、それはこの時の藩主が名君とされたからでありそうした負の部分が資料として残されなかったからである
こういうことは歴史には良くある、為政者の都合の悪いことは資料にも残さない
相馬藩政期は一貫して相馬氏が治めたので他の人でも調べにきている
他では藩主が代わったりして一貫性がなく資料として参考にならないということがあった
このことを感じたのは津波のことである、相馬藩政記になぜ津波のことがその被害が記されなかったのか?これが大きな謎だった
ただ二行だけ生波(いくなみ)で700人溺死と記されたのを津波の後に発見されたのである
その被害の状況は全く不明なのである、それは相馬藩を支配した侍が記録しなかったからだとなる
その時相馬氏の支配はまだ行き渡らず戦国時代だったからである
それで戦争のことは事細かく記録されたのである

そのことが後々の人々には重大な過失となったのである、庶民は記録する財力もないし文字を書ける人もいないということがあった
つまり庶民は非力であり何か記録するにも財力が権力がないとできないのである
もし津波の被害状況が記されていればそれは貴重な記録となりここにもこんな被害を与えた津波があったとのだとして津波を警戒することになったからである
それがこの辺では400年も津波が来ないのだから津浪と来ないとして警戒しなかったのである、そして忘れ去られていたのである、津波の後にこの二行の記録が発見されたのである、つまり誰もこの記録に注目する人もいなかったのである

相馬藩でなぜ一揆が行われていなかったか、それは善政があったからではない
郷士が農民より多いような状態になっていたのである
それが相馬藩の特徴なのである、それだけ郷士が多いということは農民を監視することにもなるから反抗はできないのである
それは北朝鮮とにている、北朝鮮も貧乏なのに兵士が多いのである
その兵士が監視しているからあれだけ悲惨なのに反抗もできないとなる
一党独裁となり反抗できないようにしている

野馬追いを見ると相馬藩では六万石であり小藩なのになぜあれだけの馬が出て行列ができるのが不思議になる、伊達藩では60万であり会津でも30万石とかなっている
相馬藩は小藩なのである、でも野馬追の行列をもみると他ではそうした行列が成されない不思議がある、相馬藩だけになぜあれだけの野馬追い行列が残っているかとなる
それは村ごとと郷士が多くその人たちが村から出るからだとなる

封建制支配は土地に基づいてその土地から税をとる支配体制である
それで太閤検地が重要な支配体制を作ったのである、それは明歴に行われたのである
そして葛尾村の落合という辺鄙な所まで検地が行われた
その記念碑が明歴と元禄と記された碑なのである、それが葛尾村(かつろう)の落合にあった、高瀬川をさかのぼった所である、そんな所まで相馬藩では検地をして税を治めさせたとなる、その記録が残っていたというのも貴重である
なぜならこの辺で必ず墓地を見ているが元禄はあっても明歴を見たことがないからであるでも明歴に検地があったことは確かなのである
伊達藩では文禄に検地があったから相馬藩より前にあったとなる
その碑が新地に残っている、それは検地の記念なのである
それだけ伊達藩は古いとなる   

いづれにしろ明歴から検地が行われ新田開発が行われた、それで郷士が増加して土着の農民が秣(まぐさ)がたりなくなって困ったとか新たに入ってきた郷士に奪われて困ったともなったのである
郷士は馬を持つ、野馬追いに出るのにも馬を飼っておかねばならない、それで今でも相馬地方では馬を飼っている家がある、野馬追いに出るための馬を飼っているのである 

ともかく相馬藩に一揆がなかったのは善政のためではない、郷士が多く監視役になり一揆ができなかったのである、だから寛文時代という戦国時代が終わった書記には検地が行われて米で納税することが厳しくなり一揆が起きたということは納得する
その後は郷士の監視下にあり一揆は起こせないとなったとみる

とにかく記録というのは為政者の都合のいいものだけを記して残すのは今でも同じである政府の都合の悪い資料は出さない、知らせない、黒塗りだらけの資料があったというのもそのためである、それで民主主義は情報公開が基本にあるけどそれも成されていないのである、権力者の都合のいいように情報も支配されるのである
マスコミもそれに加担する、それは原発事故でもそうだった
「安全神話」などありえないのに権力によって作られたからである
津浪でも記録されなかったのは為政者にとって津浪の被害は都合の悪いものであり無視された結果なのである 

それが今になり問題視されるようになった、でも資料がないから明らかにすることはできなくなったいたのである
江戸時代は見ざる言わざる聞かざるの社会であり今とは全く違って表現の自由もない世界だった、そこで最も重要なことが記録されなかったのである
要するに権力によって都合の悪いものは抹殺されるのである
それは今でも行われている、権力でもって悪い情報は知らせない、隠される
原発事故がまさにその象徴となったのである、内部告発があってもそれも権力で握りつぶされていたしただ安全だけが言われた、それに加担していたのがマスコミだったのである地元のマスコミでも新聞でもテレビでも報道しないからである
権力をもつものから利益を得るから忖度してすりよりだけだとなっていたのである


注意

引用に問題があるかもしれない、長い文そのものを引用はできない、これはまるごと引用しているからだ
ただ内容を知るためには長い文を読まないと理解できない
そのためには本を買うほかないとなるが一部だけに興味とか調べる人がいる
それで本一冊買うに躊躇する人はいる、こうした専門の本は高いからである



posted by 老鶯 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代
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