権利と責任
(権利を得るものには責任が課せられる)
権利というとき利を得るものとしての権利である、でも明治時代に翻訳したとき権理となっていたのである、なんらかのリーズンがあって権利を得るとなっていた
これの方が正しい訳だったともなる、権利はrightでもある、正しさである
でも現実はただ権利となった、利を得るためのものでありその利を得て独占するための権利となる
民主主義でも権利を主張するのは正しいことであり推奨された
とにかくあらゆる人が団体が組織が権利を社会に向かって主張する
それが庶民でもそうなのである、生活保護者でも執拗に権利を主張する、生活保護者でも権利者だからである、もちろんそれを全部は否定できない、でも何か権利ばかりを主張する社会になったのである
原発事故でもそうだった、船主のことを再三追求して来たがこれがわかりやすいからそうなった、漁業権といんう権利を漁師は漁業組合は持っていた
それが権利であり主張できる、それで事故前でも東電から多額の補償金をもらっていたのである、、漁業権を東電に売ったともなるからである
でも漁業権の権利は魚の資源保護とかが目的であり理由なのである
それならもともと原発は海を汚染することがあるから慎重になるべきだったということがある、でも権利となり利が優先されて東電に漁業権を売りわたして金を得ることになったその補償金は事故前でも大きなものだったのである、それで原発御殿が建ったとか周りからうらやましがられていたのである
ところが原発事故で責められることになった、なんで東電などに漁業権を売ったのだ許可したのだとなる、その責任はどうするのだとなった
ただそのことをあからさまに言う人はいない、地元でもいない
ただここでは確かに権利の利を得るためにそうなった、でも今になってその責任が追及された、つまり権利には責任がつきまとっていた
もし権理となっていたらその利を得るにしてもそこに理由があるとなる
その理由は魚とか海産物資源の保護だったのである
もしそうなら簡単に金になる利になるからと漁業権を売りわたすとか許可することはなかったとなる
ただその責任をまねがれるには漁業権でも漁師とかだけのものではない、自治体全体のものとして協議していればそうはならなかった、責任が分散されたのである
でもそうなるとどうしても漁師だけの権利ではなくなり利益を得られなくなるからそうしなかったのである
ただこれこはあくまでも一例でありこういうことは本当に多いのである
どんな人でもとにかく利益を得ればいいとなる、その理由を必ずしも考えない
そんな例はこの世でいくらでもある、利を得るためには不正をしているのが普通だからである
ただ何かの権利を得ることは必ず責任が課せられることになる
この責任の部分が権利からぬけおちているのである、民主主義だととにかく組織でも団体でも権利を主張する、また自由社会だととにかく自由だとなり権利を主張する
だから極端になれば暴力団でも権利があるとして団体で主張したりする
それが今の社会であり漁業権とかはその一つの例なのである
例えば自分の一身上のことだが親戚の人が母の実家の墓を300万円もらって墓を守ってくれとその家系の長男が遺言して死んだ
そうなるとどうなるのか?確かに3百万円もらったからいいと普通なら考える
だからこそ3百万もらったのである
その親戚はもう人間でもなくなっていた、情もなにもない非情な人間になっていた
だから育ての親が病気のときも放っておきその母親は「ひどい娘だわ」と私に電話をして死んだのである、私の家とは疎遠であり付き合いもなかったが自分に余程悔しかったのか電話して死んだのである
そういう人がどうして墓を守ることができるのか?
恨んで死んだ人の墓参りとかでもできるだろうか?
確かに権利として金を得た、でもそこには大きな責任があった
墓など墓参りしなくてもいいということはある、何もしなくてもいいとはなる
でも何か墓参りして供養しないと気味悪いということもある
別に墓を捨ててもいい、現実にそうなる、でも金を得たとしてもそこには責任がつきまとう、それはあらゆることでそうなのである
金を得ることはすべて無条件でいいともならないのである
金には責任が課せられているのだ、それずドラマで金をもらったからと殺人に加担したとなる、その理由は金をもらったからだとしている
金は具体的な責任なのである、だから金さえもらえればいいとはならないのである
でも現実社会では金をもらえばいい、そのためには権利を主張しろというのが民主主義になったのである
こういう例など山ほどあり日常茶判事である、弁護士すらそうだった
交通事故のことで相談に行ったら何もしないのに相談だけで百万払いとなった
それを自分の家で親戚に頼んだ、その人が弁護士を知っているから頼んだとなる
でも相談料だけで百万とることはありえない、でもその人は世間のことがわからず
私の家で払うことになったのである、でもそれは交通事故の賠償金から払ったとなる
そこに自分の家の手落ちもあったとなる
ただ相談するだけで百万をとることはありえないのである
まずそんな権利がありえない、弁護士ならそういうことがわかっていても金を得るためにそうしたのである、たから弁護士自体が利のみで動いているともなる
それがこの世だと言えばそうなる
とにかく権利を主張するのはいい、でもそこには責任が課せられている、でもその責任は無視するのである、それで後で痛い目にあうことになる
それは戦争でもいい、国民がみんな賛成して戦争するのもいい、でもその責任は国民に課せられる、実際に三百万人が死に地獄の苦しみを受けて死んだからだ
戦争するならただ勝つだけを言う、でも負けたら悲惨な結果になる、その責任は甚大なものになった、それで天皇まで責任をとれとなった、広島に行ったらそのことを追及されたのである
地位が高いということはまた責任も重大になる、東電でも事故になったらその責任を追及されたからである、でも実際は原発事故では責任を誰もとっていないのである
「安全神話」を作り安全だというのはいい、でもその責任をとれるのか?
責任問題がここにもあった、人間は必ず責任を課せられている、責任から逃れられないのが人間なのである、それで赤ん坊が泣いて生まれてくるのはその生れたことで責任が課せられているからだというのもわかる
責任がないような人でも何もしなくても責任が問われる、存在していること自体責任が問われる、原発事故ではそこの住民も責任を問われた
その責任は現実に故郷に住めなくなったことなのである、これは大きな責任を押し付けられたとなる、ただその前に原発を誘致した責任が住民にもあったからだ
それを拒否することもできたが誰一人としてしなかった、ただ利にあればいいとしていたからである
小高の大工さんが小高に原発ができると景気良くなるとしか言わなかった
その人は何か大工の腕が良くても利しか考えない人だった、金になるなら何でもする人だった、それはみんな同じである、そこに大きな責任があることは考えないのである
でも必ず責任をとらされるのである
誰かが責任をとらされる、戦争だと国民が三百万人死ぬことで責任をとらされたのである原発事故では故郷にすめなくなるということで責任をとらされた
その責任は飯館村などは関係なかったがやはりその責任は波及してそうなった
これほど広範囲に放射線の影響があると思わなかったからである
とにかく権利を主張するのはいい、でもその権利には責任が課せられている、権利を得ることによって責任が課せられる、その責任は重いものになる
もしその責任のことを権利を得る時自覚していたら簡単に権利を主張することもないとなる、でもそれが意識できない、権利を得て利権を得て得をすることしか考えないのであるつまり日本では民主主義とは各自が権利を追及してまた組織団体が権利を主張して利権を得ることなのである、そこに責任があるのだがそれを意識しないのである
ただその結果として必ず責任を課せられる、その責任から逃れられないのである
だからもしその責任を自覚するなら権利を主張するのもいいのである
でもそういうことがなくただ権利だけを主張するとあとで重い責任を課せられて責任をとらされる
戦争だ、アメリカをうちのめせ、その時誰も三百万人が死ぬことをイメージした人は一人もいなかった、原発事故でも故郷に住めなくなるということをイメージした人は一人もいなかった、でも必ず権利を主張しても責任を誰かがとらされる
東電の幹部は責任をとっていないが住民はと故郷に住めなくなる責任をとらされたのである、何かここに民主主義がただ権利を主張するものであり責任と表裏一体なことを意識していないのである
高い地位につくことはそれだけ大きな責任が課せられる、だからその責任をとれないから辞退する人もいるだろう、そんな重い責任を引き受けることができないともなる
権利を主張するのはいい、でも責任から逃れられない
権利と責任は一体なのである、権利だけを得ることはできない、必ず責任が問われる
そして現実に責任を誰かがとらされるのがこの世である
だから何を主張してもいい、また集団で何を主張していもいい、でも責任は確実にとらされる、集団でも個々人でもとらされる、ただ集団はみんなで赤信号渡ればいいとかなり無責任になる、集団は責任を自覚しにくい、みんながしているから正しいとなるからだ
でもその集団でもその中の人間でも確実に責任をとらされる
オウムがそうだった、死刑にされたことでもわかる、その時後悔したが時すでに遅しとなっていたのである
そういうことは他のカルト教団にもある、いづれは責任を問われる、そもそもこの世自体が罪の世でありその罪が暴かれて責任が問われる、罰せられるともなる
最後の審判があるというのもそのためである
ただそれを自覚している人はいないのである、でも確実に責任はとらされる、それが罰せられるともなる、そういうことが原発事故でもあったしこの社会全体が必ず罰せられるとなる、つまり行為がカルマでありその行為についての責任をとらされるのが人間なのである、そのカルマから責任から逃れることができないのである
だから赤ん坊が泣いて生まれるのはそのためだとなる、この世に生まれたこと自体すでに責任を課せられ責任をとらされるからそうなる
何もしなくても存在するだけで責任を課せられとらされるのが人間だとなるからだ
「俺には責任がない」こう言ってもなんらか必ず責任があり責任をとらされるのが人間なのである
マスコミは報道ということで大きな責任がある、なぜなら政権の行方でも左右することがあるからだ、世論を作るのはマスコミだとしているからだ
それで最近NHKが批判される、その影響が余りにも大きいからである
NHK様の言うことなら正しいとまでなっているからだ、そして報道する権利というのはマスコミにしかなかったからだ、テレビなら六局した放送する権利かなかったからだ
それで権利を得たのだがそこには重い責任が課せられていたのである
つまり国家の運命さえ握っていたともなるからだ、報道によって国家の運命を左右するとなればその責任は余りにも重すぎだのである、それで戦前は朝日新聞は一番戦争をあおったのである、その頃テレビがないから新聞が大きな力をもち国民を戦争にあおったのである
つまり報道をすることはそれだけの重い責任があったとなる
それだけの影響力があったからそうなった、でもインタ−ネットが生れてそうした六局支配のマスコミとかに反抗できるyoutubeが現れたとなる
それは個人でも放送局になっているからだ、プログだってほとんど無料でできる
写真をも出せるから意外とこんなメデアでも表現できる幅が大きいということに感心したのである、ただ読む人が少ないからその影響力はわずかだとなる
でも有名な人だとそれなりに影響力を持つようになったのである
ただすでに何でもいい発言することには今度は責任が課せられる、誹謗中傷するのもいいネットではしやすい、でも今度はネットの発言でもセキニンか課せられる
その発言でも責任をもち責任がとらされる時代になる
何であれ責任から逃れられないのが人間なのである
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