2021年01月04日

隣の嫁様が双葉の人だった (世間は広いようで狭いー原発事故から十年)


隣の嫁様が双葉の人だった

(世間は広いようで狭いー原発事故から十年)

私自身は引きこもりてあり交際がほとんどない、でも一人になってはじめて隣の嫁様と話しした
その人は双葉出身だったのである、「ええ、双葉なの」と思った
それで自分の父親が双葉の新山の酒屋で働き暖簾分けしてここに来たことを言った
そのことは前に書いた、葛尾村(かつろう)村から双葉の新山の酒屋に来て丁稚奉公したのである

今でも新山に富沢酒造店がある、それは大きく煉瓦作りの煙突がある
その隣辺りに父親の酒店があった、それも倒産した
何か長塚に銀行があったとか家族が語っていた
当時銀行はめずらしいものだったのである
双葉町はもともと双葉ではない、駅でも長塚駅となっていた
長塚村と新山村があり双葉というのはなかった
そして江戸時代は宿場となっていた、それも長塚村と新山村が交代で参勤交代の接待をしたのである、それは労力でも費用がかかるから分担したのである

それで双葉町が十年過ぎて立ち入りできるようになったので自分も行った
何かそこに出会い橋とかあり石の橋があり富沢酒店もあり不思議だった
ここで父親が働いていたのだなと感慨深いものがあった
父親もこの道を歩いて酒を売った代金をとりに回っていた、その手帳が残っている

その女性と話ししたのははじめてだった、すでに二十年以上とかそれ以上過ぎているのに一度も話ししたことがない、ただ隣の人を子供から知っている
その夫の妻が突然死んだのでそのことでお悔みしたりした
でもその嫁様とは語ったこともなかった
だからはじめて語って双葉の人だということに親近感を覚えたともなる
世間は広いようで狭いというのも確かである

最近向かいの家の人が私が子供の時遊んでいた人が亘理に住んでいるんですよというときも不思議だった、亘理と言えば近いからである
東京に住んでいるとばかり思っていたからである、別にその人とは一度も合っていない、でも亘理に住んでいるとなると電車で仙台に行くとときいつも通るからそこは近いのである、そして最近近くに嫁に来た人は亘理の人だったのである
だから本当にこうしてつながりがあり世間は広いようで狭いというのがわかる

何か不思議なのは私の墓には新地の女性が入っている、その女性は私の父親の前の妻なのである、その写真も遺影も家の奥の方から残っていてでてきたとき不思議だった
ただもうその女性であれ知る人はいないのである
ゆかりの人もいないのである、人間はとにかく死んだ時点で忘れられる、それが早いのである、そして新しい人が次々にでてくる、老人は過去の人となる、死んだ人はたちまち
忘れられる、そして人の縁もはかない、たいがい今なら金の切れ目が縁の切れ目で全部切れたとなる
人間の繋がりでもたちまち切れる、だから無常だとなる
常にあらゆるものが変化して常なきものとなる、この辺は津波や原発事故で余計にそうなったのである
でも昔から人間の世界は無常なのである、変化が激しいのである

ともかく隣の双葉の人の実家でもないという、双葉はもう回復不可能にも見える
また浪江とかでもそうである、みんな他に家を建てて住んで帰ってこないし帰れない
家を建ててそこで生活するとなるともう帰らないのである
もう津波と原発事故から十年過ぎたのである
これは大きな区切りである、30キロ圏内は高速とか医療が今でも無料だけでそれもなくなる、30キロからはずれた地域は半年くらいで補償も打ち切られたのである
その差も大きかったなと思った
でも今度は南相馬市でも国からの援助が十年でなくなる、すると財政的に苦しくなる
復興住宅に住んでいる浪江の人は電気を節約して夜でもつけていないとか言っていた
補償金でももらえる人ともらえない人の差が大きいためだと思う

ともかく津浪原発事故からの十年は区切りである、ただ復興はしていない
避難区域になった所でみんなが住めば復興したとなるがそれが不可能だからである
だから小高などは避難させるべきではなかったとみる
町自体が崩壊したようになったからである、それも復興できなくさせたともなるからだ
これからではこの辺はどうするのか?
それも見えないのである、小高の人や浪江の人や双葉の人でも帰ることをあきらめている人が多いからだ

そしてどうも知っている人は息子夫婦とか妻が仙台に移り仕事をはじめている
それで残された60代の夫が一人でいるらしい
でも実際は女の人がいて世話しているらしい、そこで妻は息子のいる仙台に行ったらしいその辺のことは深くわからないがどうもそうらしい
他でも夫を残して妻が東京の息子夫婦の所に行っているとかも聞いたからである
その人は原町の復興住宅に住んでいる
何かそういう人が多いのである

またフィリンピン人の女性に貢いで補償金を使ってなくなったという人もいた
要するに補償金をもらっても別に町全体の復興に使われたということもないのである
ただ個々人で自由に使ったとなる
だから特徴的なことは家族がばらばらにしたのが原発事故だったともなる
家族が一緒に住めなくなった人たちが多いということである
それが原発事故のカルマであり後遺症だともなる 
ただそれが全部東電のせいだともならない、やはり地元の人にもそうして自堕落になった責任はある、だから他者ばかり責めるのおかしいと言ってきた
それを言うと地元の人たちに嫌われるともなった

もう元の状態にもどることは不可能に見える、それで双葉町に新しく建った原子力災害伝承館というのには被害者の立場で何も陳列するものがないし語るものがないのである
そこには生々しい被害者の声がないのである
だからつまらないなと見てきた
それなら自分が書いてきた追求して来た原発事故のことの方が資料としても自分で言うのもなんだが有益である、それは地元の立場でもいい面と悪い面でも追及して来たからである
それでどうして事故になったのかを地元の立場でも公正に追求して来た
それは今でも追及している、今になり何か見えて来るものもある
それだけこれだけの大事故だと本当に理解するまでに時間がかかるということである
ただ感情的にではなく合理的に解明できる時間が過ぎたことは確かである
冷静に判断できる、それは後世のためになる 

でも原子力伝承館は後世に残すものが希薄なのである
つまり本当の歴史が伝えられていないのである
またマスコミでも伝えない、だからインタ−ネットで個人でも発信できることで私はしてきた、それは歴史的にも真実を伝えるものである
それは地元の人の悪い点も言っている、そこで反発されたとしても真実を追求してきたのである
つまり何が原因だったのかという真実を追及して来たから後世のためになる
推理小説でも真実を知りたいから追及するというのが理由になる
原発事故は世界的にも影響があり真実を伝えるべきなのである
それは世界の問題にもなったからである   

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磐城国新山となっている、磐城とつくのが葛尾村のバス停にもあった、磐城落合とあった磐城太田駅でもそうである、ここは古代には磐城国だったからそうなっている
相馬になったのは戦国時代から相馬氏が千葉の方からきて支配するようになったからである

posted by 天華 at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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