2021年01月09日

何でも代替えできる社会の脆弱性 (自粛とステイホームがもはや「正義」ではないこれだけの理由)


何でも代替えできる社会の脆弱性

(自粛とステイホームがもはや「正義」ではないこれだけの理由)

「この店で」食事をしたい、お酒を飲みたい、家族や友人と笑いあいたいと思える場所を持っている人なら、流行が収束してもそれらの場所がなくなっていては意味がないので、多少なりとも問題意識をもつだろう。そして、世論に流されたり、政府や専門家を盲信したりするのではなく、自分で情報を集めて考えようとするだろう。

 逆に、暮らしの中で意味なんか求めない、目の前に「存在するもの」ならひとしなみに等価で、その範囲からランダムに選ぶだけだという投げやりな姿勢で生きていれば、どうせすべてが代替可能なのだから、どうなってもいいものに見えてくる

この見方は参考になる、原発事故でもこのことを私は指摘した
故郷となればその場所の重みはこれとはまるで違って重いものである
それが確かに放射線が怖いというのはわかるしそんな所に住めないというのもわかる
その恐怖もわかるから外から批判しにくい、でも故郷となればそこに江戸時代から家を継いで住んでいる人がいる、それで野馬追い祭りにもでる
そういうふうにその場所には何か金では替えられないものがある、価値がある

でも現代ではそうしてある場所の価値を意識しない、どこでも変わりないとなる
故郷でも便利な場所に一億円もらったら移りたいとか若い人が事故前にも言っていた
都会になると家は買う必要がない、一時的に滞在するものであり消費するものにそんな金を使う必要がないとなる、その人は土地とか家のもっている価値がわからないのである
都会ではそうなりやすい、一つの土地に縛られると商売は成功しないというのもそうである、それが地方と田舎の相違だともなる

この世に代替えできないものがある

家族とかでもは代替えできない、故郷とか土地とかでも代替え可能なのかとなる
人間の一生は短い、一生の経験は限られている、そんなに簡単に家族を変えたり住む場所を替えたりできないのである
何代にもわたってその土地に住みそこがアイディンティティの場所になっている
それを簡単に替えられるだろうか?
ただ便利さを追求すれば便利に住めさえすればいいとなれば替えられる
そうなると一億円もらったら便利な都会に住めばいいとなる

ただ正直現代社会はヒト、モノが自由に世界的にグローバルに往き来する
そういう社会になっているとき、ある一か所に住むということは時代に合わないともなるヒトすら外国人労働者のように金を求めて移動する
ただその人たちは一時的に金のために移動しているのである
移民とは違う、移民となればずっと一生その国に住むのだから違ってくる
ただ一時的に金のために来て帰ってゆくとなるとその国と深くかかわることはない
ある程度稼いだら故国に帰るとなる
つまりそこが生き死にの場所になっていないのである

現代社会は何かただ部品のように継ぎ合わせしている社会である
何でも代替えできるとなる、故郷自体が代替えできるともなる、別な場所に移ればいいとかなる、地方でも田舎でも人と人のつながりも消失している
そもそも広域化とかグロ−バル化ということはモノでも自由に入ってくる、木材でも外国から入ってくるとかなると地域の経済自体がグロ−バル化の中に組みこまれているからだということは地域で生きているという感覚も消失する
地域にあるものは大事に思えないのである
米が不作だとなっても他からいくらでも入ってくるとか外国から入ってくるとかなる
国自体でもそうなってしまう、でも昔だっから近くで米がとれていとか物が不足したら飢饉になっていた、外から入ってこないからである
すると地域のつながりも強固なものになる、外部に頼れないからである
限られた小さな地域でまかなうほかないからである

別に広域化でもグロ−バル化でもいい方面にも作用するから否定はできない
でもそれが日常になり当たり前になったとき何かを失っていたのである

暮らしの中で意味なんか求めない、目の前に「存在するもの」ならひとしなみに等価で、その範囲からランダムに選ぶだけだという投げやりな姿勢で生きていれば、どうせすべてが代替可能なのだから、どうなってもいいものに見えてくる  

暮らしの中で意味なんか求めない

まさにこれである、意味より金だとなっている、便利さだとなっている
そこにあるものは代替え可能でありあってもなくてもいいものである
それだけの価値しかない、故郷さえそうなのである
だから突然故郷でも消失してゴーストタウンになった、それは事情がまた違うにしろそういうことで共通した面があることを考察した

そんな簡単に町や村が壊れて消失するのか?

この驚きだったのである、津波でそうなったのはしょうがないとなるが原発事故でそうなったことの驚きである、何代にもわたって歴史的に築かれた街や村が消失する
そんなことがありうるのかということだった
そして確かに補償金で他に家を建てて住んだから被害もなかったともなる
でも何かそこで失われたものを意識する、それは金に替えられない代替えできないものである、その価値は日常的には意識できないものである
金に替えられないものだからである、家族と暮らした思い出とか人とのつながりとかその土地で生きた記憶とかである、だから老人は残って住み続けている                
そこで生きたということが人生にもなっているからである
ただ若い人だと故郷にこだわらない、かえって便利な場所に移りたいということがあり出で行ったのである、そして瀬う帰ってこないのである
そこに世代の分断が生まれたのである

つまりその場所がかけがいの無い場所として意識することがない、そういう場所がない
だからどこにでも移り住めばいいとなる
その飲食店でもなくなっても何も感じない、そもそもそこなくてはならないものがないのである、常に代替えできるものとしてあるとしたらそうなる
一種のモノのようになっている、モノは代替えできる、でも人間はそもそも代替えできない、家族が代替えできないように人間そのものは代替えできない
でも今の社会は常に労働者でも代替えできるものとして時給いくらとか雇われてまた首にして部品のように人間を使っていたのである

何かコロナウィルスがそういうこと今まで見えなかったことを考えるようになったというのも不思議である、何か今までの便利な暮らしでも見直すようになった
それは何かヒト、モノが自由に行き来することに疑問をもたせたのである
コロナウィルスで自由に行き来するのを止められたからである
するとそれに対応する社会が求められる、それは今までは違った社会である
何でも代替え可能となる、人間の商品化とか部品化とかではない、何か精神的なつながりもある社会である

ただそれが江戸時代とか昔に戻るということではないしできない、ただ何かあまりにもグロ−バル化でも行き過ぎた結果として社会の紐帯も失われたとなる
もちろんそれらをすべて悪いものとして否定はできない
それが行きすぎた結果としてなったのだともみる
ともかく世界がグロ−バルに交わるということはすべていいものとして働かなかったのである、戦争で何千万人も死んだのもそうである
経済のグロ−バル化は経済の対立を必ず生み経済封鎖が行われる
そこで戦争になるからだ、日本の戦争もそうだったのである

商業とか貿易はいいものであっても必ず利益を得るための争そいとなりそれが戦争にもなってきたのが人間社会だったのである
イギリスが七つの海を支配したという時、その起こりは海賊だったというのもそうである軍事と商業は結びつくのである、自国の利益が優先されるから戦争にもなる
それで老子の小国寡民の思想が生まれたのである
広く人が交わるといい面があったとしても必ず争いになるからである
それで江戸時代は別に朝鮮とか中国と友好的であり争いもなかったのである
日本がの戦争でも実際はグロ−バル化して必然的に起きたことである
第二次世界大戦がまさにそうである、世界が広くグロ−バルに交わるとそこに衝突して戦争が起きたからである 

いづれにしろこのコロナウィルスはいろいろと社会まで見直すことになったという不思議がある、だからこれは天からの神からの戒めとして起きてきたのかともみる
そもそも入ってはならない、聖域にもづかづか開発して入っていった結果としてウィルスが防衛反応として攻撃してきたのかともみるからである



何かインタ−ネットとは対話的メデアである、それが今までのメデアとは違う
それは誰でも答えることができるからだとなる
新聞とかテレビとかで誰かが一方的に意見をいいそれを聞いているだけだったからであるでもインタ−ネットだと誰かの意見でもそれに答えることができる
対話的メデアなのである、だからただ読んでいるのではなく答える作業をするとより深く記事を読めるのである、そういう作業が必要なのである






posted by 老鶯 at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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