2021年01月16日

私の母の実家の近くは相馬農業学校がある (そこは空襲で爆撃された)


私の母の実家の近くは相馬農業学校がある

(そこは空襲で爆撃された)

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1908年 - 相馬郡立相馬農業学校に校名改称。
1921年 - 福島県立相馬農蚕学校に校名改称。

なぜ農業学校から養蚕学校に変わったのか?
おそらくそれだけ養蚕が盛んであり養蚕を学ぶために名称を変えた
そしてこの養蚕学校の夜の森公園の近くに私の母親の実家があった
今は何もない、墓は残っている、母もまた原町紡績で糸取りとして働いていた
原町紡績もそうだがアメリカに絹織物を絹を輸出するために日本全国で養蚕が盛んだったのである、そのために今でも養蚕するために兜作りの家をみかける
それでどれだけ養蚕が盛んだった今でもわかる

私の母は大正生まれであり百歳まで生きて死んだ
その労働はきついものでも女性が働く場ができて現金収入になったからかえっていいものだったのである、それまで女性の働く場所は少なかったからだ
その後は東京に出て女中になった、女中が当時の働き場所だったことが多かった
なぜなら電器製品がないのだから洗濯でも手で洗っていたからその手間が大変だったのである
それで普通の中産階級の家でも二人の女中を雇っていた、それだけ家事が大変だったのである,今だって家事は大変である、でも一人暮らしでも電器製品があるから家事ができる

その相馬相馬農蚕学校が戦争でアメリカ軍に爆撃された、それで燃えた
私の母は防空壕に逃げた、でも飛行機がすれすれに飛んできて蓋がもち上がって怖かったという、原町には飛行場もありねらわれた、また駅もかなりり爆撃された
大きな建物が爆撃された、相馬農蚕学校は大きな建物だから爆撃された
また仙台市も爆撃されてここからも空が赤くなるのが見えたという
それだけ燃えたともなる
無線塔にも飛行機から銃で撃たれた、その痕が残っていた

もう今になると戦争のことは忘れられてゆく、第一もう戦争を体験した人が死んでゆきわからなくなってゆく、私の世代はまだ戦争体験した親がいてそのことを聞いている
私の姉は従軍看護婦でありシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で四年間地獄の苦しみを受けて働いた
でもみんな死んでしまった、でも直接体験したことを聞いている、次の世代になると戦争のことは余計にわからなくなる
戦争のことはわかりにくい、それは日常からイメージしにくいからだ
人間は実際に経験しないと理解できないことが多いからである
第一戦場で人を殺すということは日常生活からイメージできないからだ
でも何か18歳で志願兵になった人は人を殺したらしい、そのことを言えなかったと見た口をつぐんだからである  

昭和15年以降、国民服として一般の成年男子にも戦闘帽様式の帽子の着用が推奨された。国民服は生徒の通学服としても指定されたため、帽体正面に校章を取り付けて学校制帽としても使用された。戦中から戦後間もなくを舞台にした映像作品の多くで、民間人や復員兵などが着用している姿を多く目にすることができる。

また、戦時中当時のプロ野球においても、試合用ユニフォームとして従来の野球帽に代わり戦闘帽が採用されていた時期がある。

この戦闘帽をかぶり子供の時戦争ごっこしていた記憶がある、その頃戦争は生々しいものとしてあったためである  

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夜森公園の名称は双葉辺りの夜森公園と同じてある、ということは夜(よ)は余であり
余の森であり相馬の殿様の森だとなる、双葉大熊辺りは森でありそこが相馬藩と磐城との境目になり余の森ということで名付けられた
小良ヶ浜(おらがはま)というのも俺らの浜ということになり相馬藩の領域の浜として名付けられたのかとなる

ともかく私的なこととしては母の実家は不和分裂の家だったのである
それが尾をひいたのか私にもそのカルマが及び苦しんだとなる
親戚関係でも不和分裂したともなる



posted by 老鶯 at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降
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