親鸞の千人殺せの意味
(凶悪犯罪者でも罪の意識がないー受刑者のリアル)
刑務所で無期懲役とかなった人を取材していた、それで意外だったのは残酷な犯罪でも
その本人は罪の意識がない、たまたま運が悪かったとその場に居合わせたのが悪かったとか言っている、そして30年の刑務所に入っていても出所することを願っている
それだけの犯罪を犯したのだから何か罪の意識をもち反省しているのかと思うとしていない
でも犯罪者でもみんな罪の意識をもっていない、自分が悪いと思っていない
むしろ相手が他者が悪いと思っている
つかまったのが失敗だった!
それが余りにも残酷な犯罪を犯してもそうだったのかと意外だったのである
人間は人を殺しても罪の意識を持たない、罪の意識を持てないのである
ほとんどの人もみんな善人だと思っている、何か自分等もそうである
悪人と思っている人はほとんどいないのである
それが残酷な犯罪を犯していた人でもそうだったとすると軽犯罪になると全然罪の意識はない、盗みでも強盗犯罪でも罪の意識がないことに驚いたからである
そしたら軽犯罪で罪の意識を持っている人はいない、たまたま捕まったのが運が悪かったと思うだけである
ただそれにしても30年も刑務所に入っていたら反省するのかとみるがしない、それが理不尽だとも思っている、だから人間は必ずしも刑罰を与えても罪の意識を持たない
だから宗教で不思議なのは全然罪も犯していないのに私は罪の頭だとかいう宗教者であるパウロなどがそうだし優れた宗教者はそうである
親鸞が千人殺せ!
こういったのは人間はそれほど残酷な犯罪を犯しても罪の意識をもたないからだとなる
なぜなら一人殺してももたない、ては千人殺してみろということでとはないか?
そうすればその残酷さで罪の意識を持つともなるからそう言ったとなる
ただ人間は最後に俺は悪いことしてないと言って死ぬ人が多い
何かそういうのは後ろめたいことが誰でもあるから最後に罪の意識がでてきてまた何か悔いてそういうとなる
継母で子供を残酷にいじめた人が最後に「悪かったな」とその子供に言って死んだ
それはもうずいぶん年になってからである、でもそうなったのは眼が悪くなったりひどい状態になり助けもなくてそう言ったともなる
でもなにか人間は最後に悪いことをしたことを恐れるということはある
でも終身刑になるような人が罪の意識をもたない、むしろ運が悪かったとかなり自分の責任にしていないのである
こういうのを見ると人間で自分が悪人だと自覚している人はすでに罪の意識があり優れた人だとなる、自分が善人だとしている人は実は悪人だとなってしまう
でもほとんどの人は善人だと思っている
でも世の中で地位をもっていたり金持ちだったりする人は何か悪人であるかもしれない
でもそれだって悪人だと思わない、弁護士も意外ともめごとにかかわっているから
法外な金を得たりする、相談しただけで百万もとった弁護士がいた
これも悪人なのだけど責められない本人も罪の意識もないのである
だからなんであれ罪の意識をもっている人は人間として優れているともなる
俺は善人だとか言う人は実は悪人でありそういう人がほとんどなのである
それは自分にも言える、とにかく罪の意識をもつ人はまれなのである
だからそれだけでその人は救われているともなる
それで親鸞が千人殺せといったともなる
ただこれを理解することはむずかしい、それだけ人間は罪の意識だとか自分は悪人だと思わないのである
人間は何か苦しむ時なぜ苦しむのだろうと考える、でも苦しまないと全然考えない
何か苦しむ時、罰だとか何に原因があるのかと考える
それはカルマだと認識する、苦しむ時カルマを意識する
それは自分自身が家族の介護の苦しみで意識したからである
家には必ずなにかしらのカルマをどこの家でも背負っている、それが苦しみとなって現れると思ったのである、なぜこんな苦しみにあうのかとなる家でもカルマがありそのために苦しみを背負わされたとなる
ただ刑務所に入っている人が終身刑の人でもそうした罪の意識がない、カルマを感じないというのもわからないのである
刑務所の生活は不自由でもそんなに苦しみを感じないからなのかともみる
ただ30年刑務所に入っていてもいつか出たいというのが希望なのである
でも別に罪の意識はもっていないとなる
人間の逆説として(俺は悪人なんだ)と思っている人は実際は善人だということになる
ボランティアなどでも何か経験してみると俺は善人なんだ、だからほめられるべきだとなる、そういう意識が前面に出やすいのである,ボランティアしているから善人として認めろということである
でも人間がもし悪人だとすると俺は悪いやつなんだ、だからいいことは何もできない
ただ罪を悔いるだけだとなる
でもたいがい人間は俺は善人なんだとしかないのである
何か団体で行動するにしてもそうである、カルト教団で何か俺は悪人なんだなどと懺悔する人なと一人もいない、ただ御利益御利益しかないのである
それで何か苦しいこと損することがあると罰当たるとかしかないのである
その教祖も大善人であり悪人だなとと思いもしないのである
だからこの世の大善人は実際は大悪人であり悪人と思っている人は実は善人だという逆説になるのである
【宗教 哲学 思想 人生論 国家論の最新記事】
- 青春時代は出発点であり人生の方向を決める..
- 正直者は馬鹿を見るは本当なのか (..
- 人間の失敗の原因 (自然は成さずし..
- 人間は生まれつきですべて決まらない
- 天皇とは何なのか? (神権政治..
- カルマの法則 (他者を苦しめた..
- 死とは何なのかー生物的死と社会的死 ..
- 利から金から離れられない人間 (逆..
- 人間の矛盾−宗教が偽善になるのはなぜか?..
- 最後に人間は自らに問う (自分の人..
- この世に生きることの無常 (老人に..
- 時間が一番の謎-永続するものを求めよ ..
- 人間を作るの体験、老人の価値は何を経験し..
- 常にあらゆる人でも物でも価値判断している..
- カルマは苦しまなければ解消しない ..
- ケチな人とは付き合いたくない (人..
- 何の価値を追及しているのか?宗教が一番わ..
- 老舗の菓子屋を守るために犯罪者となったド..
- ケチな人の問題-人間はみんな偏っている ..
- 君子危うきに近かよらずー小人閑居して不善..