2021年02月08日

最後は記憶が人生になる (場所と一体化して記憶されるー家と一体化して記憶されいる死んだ母ー墓の意義)


最後は記憶が人生になる

(場所と一体化して記憶されるー家と一体化して記憶されいる死んだ母ー墓の意義)

memoplace.jpg

goldcard.jpg

memobed1.jpg

the fixed place for memory




仙台市に行ってヨドバシカメラのカードを忘れた、でも実際は財布に入っていたのである

これが忘れた原因は何であったのか?

カードが多すぎてわからなくなったこともある、それよりヨドバシカメラのカードをいつも部屋の手の届く所に置いていたことが記憶となっていたのである
ヨドバシカメラのカードはその場所にあると記憶していた
それをいつも見ていたからである
でも実際は財布に入れていたのである

つまり記憶は場所と関係している、カード単体で記憶しているのではなくその場所が関係している、場所と一体化して記憶している
人間は何か単体では記憶しにくい、何かと関連して記憶している
ABCとあるときAだけ単体として記憶しにくい、原子でも結合して一つの物になる
人間の記憶のメカニズムは機械と違う、一つの場面でも単体では記憶しない
家を記憶するにもその周辺の情景から記憶する
田んぼの中に家があるとか線路の脇に家があるとか坂の上に家があるとビルがあって家があるとかその家の隣の家があって同時に記憶する
家一つを単体では記憶していないのである
何か記憶して思い出す時でも単体では思い出せない、その周辺の情景があってつないで思い出すのである

例えば緑がありその中に赤がある、緑として単体で記憶されないのである
赤、緑、青とかあって赤が記憶される
それは極めて人間の記憶のメカニズムとしてある
人間の特徴としてとにかく忘れやすいのである、そのためになんでも記録しておけというとき忘れるからである、そして忘れるということは何なのか?
それがあっても存在しないことになる、認知症になると子供の名前すら忘れる
すると自分の子どもなのに「あなたは誰ですか」というときその自分の子供さえ存在しないことになる、記憶されないことは存在の否定なのである

それは人間に認知症でなくても常に起きている、とにかく人間は忘れる
人間は死んだ時点でその人は肉体も消えるから忘れてしまうのである
そんな人いたのとまでなってしまう、肉体を実在しないのだからその存在さえないものとされる、忘れられるのである
それでいかに記憶することがまた歴史では記録することが大事なのかを知る
それで文字が発明された過去に起きたことを記録したことが文明を作ったともなる
その文字が神聖なのはヒエログリフとなったのはまさに記録したものが神聖だとなるからだ、もし文字で記録されていなかったら過去の文明も謎になる
エジプト文明は文字で記録されていたからなんとか解明できるとなる
マヤ文明とかは文字がないので謎になりジャングルに埋もれたとなる

そしていかに記録が大事なのかを知ったのはこの辺の津浪だった
相馬藩政記に生波で溺死者700名あったと記録されていたのである、生波(いくなみ)とは津波のことだった、その時津波という言葉はなかったのである
これはたった二行だったがこの記録ほど貴重なものはなかった
なぜならそれを知ったのは津波の後だったからである、誰も知らなかったのである
そして400年前に津波があったということを知らないからこの辺では津波が来ないとしていたのである、もしこのことを知っていたら警戒していたとなる
だからこそ天災は忘れた頃にやってくるとなる
それだけ人間は忘れやすいのである
自分自身膨大なものをプログに書いたけどその自分で書いたものを忘れているのである
そして読み返して自分自身が感心しているのも奇妙なのである

いづれにしろどうしたら記憶するかということが意外とあらゆることで旅ですらそうだった、どんなに旅しても記憶しているかいなかが大事になる、何が記憶されるか大事になるもし記憶されないならそこに行ったということなかったとまでなる
実際に行ったとしてもそうである、団体旅行した人はどこに行ったかわからないと言っていた、その場所に行ったことすら覚えていないのである

ともかく人間の記憶が単一ではなく場と結びついて記憶される
それで寝る時、広い八畳間で寝ている、そこに本を置いてある、するとき寝る時毎日その本をがそこにあり見ているからその本の内容も記憶していることに気づいた
場と一体となり記憶が定着している、でも本がいくらあってもみんな記憶できない
本がありすぎるとまたどこに何が書いてあったかもわからなくなる
それだインタ−ネットだとキーワードで検索できるから便利なのである
蔵書でもそれができれば便利になる、なぜなら前に読んだ本もたとえ赤線でも引いても忘れていたのである、本を読んでもは忘れてしまうのである

人生をあとでふりかえるときとにかく記憶したものを語る
でも旅でも記憶していなかったら存在しないと同じになる
そこに旅したともならないのである、でもいくら旅しても人間は忘れる
そうなるとせっかく旅したのにその経験も無駄だったともなる
記録と記憶は違う、記録は何かあったことでも機械的に記録することである
でも記憶はその場から全体から思い出すのが記憶なのである
ただ記録したことから記憶が蘇ることがあるから今ならデジカメでもいいから印象的な場面を記録する、フィルム時代と違うからそれは後で思い出すのに効果的だとはなる
でもそれは他人にとっては一場面であり部分であり全体ではないから記憶とはならない
だから何かテレビの旅番組を見ても旅したとはならない
それは一部分を切りとったものだからである
そこに行くまでの行程も旅でありそれが省かれているから旅を経験できないのである

人間はとにかく親しい人でも死んだりしたらただ忘却があるのみだとなる
それで死んだ人でも場所と結びついて記憶している
百才で死んだ母のことを書いてきた、その母がいた場所がありその場所に自分が座っていると不思議になる、そこに母は70年とか座っていたからである
するとそこに母がいるような感覚になる、いつまでもそこにいる感覚になる
その場所から離れずいる感覚になる、形は無いが確かにいるとなる
結局それだけ長くいたからその場と一体化したのである
それで嫁とは女と家のなのである、家と一体化して記憶されている

そして墓とは何かと言えば記憶を物体化したものである
墓に来て死んだ人を思い出す装置なのである、それは人間は死んだ人を忘れるからであるそれでいつも母の実家の墓参りしたときそこに肺病で27歳くらいで死んだ人を思い出すのである、この人はかわいそうだったなとみる
でも今は墓参りもしていない、その墓を継いだ女性が異常人格者だから怖くて行けなくなったのである、母の実家はもともと分裂不和の家だったからその後にのこされた人も分裂不和になったのである
そうなると自分自身からもその実家のことは忘れる、墓参りのときは思い出すがそれなくなったからである、とにかく墓参りとは死んだ人を記録する場であり思い出す場所だということである、場所と結びついて思い出すのである
だから墓がないとさらに死んだ人は忘れられる、全く存在しなかったともなる
そういう人も多いのである、墓の効用は記録して死んだ人を思い出すということにあったからである

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/188383531
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック