寒木、蝋梅ー写生俳句のこと(死んだ母を想う不思議―万葉集の歌)
ふるさとに根付きて老いぬ冬芒
我が母の百才生きし冬芒
風うなり墓地を囲みて寒椿
蝋梅や我が家に余生くつろぎぬ
石垣を離れず松や冬の暮
玄関に枯木の影や籠るかな
十本の樹に寒さのしみいりぬ
百才を生きにし母や蝋梅の咲きてその後我の住むかな
母のことを語るのは不思議である、母は脇役であり目立たなかったからだ
私自身も母を注目していなかった、嫌いの所があり母を良く思っていなかった
ただ人間は何か死ぬと生きているときき別な見方をするようになる
それが不思議だとなる、死んでからその人を深く想うということがある
だから万葉集の歌が恋愛ばかりだと見るのは間違っている
そうしたら何か浅薄になるからだ
恋は乞うであり死者を想っているのだというときそうなるとその想いは深くなる
もはや肉体として存在しないからこそその想いは深くなるからだ
ただ自分の場合生きている時母を想うこともなかった、むしろ嫌なものにも思っていたのであく、それが不思議なのである
獻舎人皇子歌二首
たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼め過ぎむや
現(うつつ)には言は絶えたり夢にだに続(つ)ぎて見えこそ
直(ただ)に逢ふまで 二九五九
母に許されれば結婚できましょうという意味である、でもこれも別な解釈があるかもしれない
母が言い残した言葉なればその言葉は重要でありその言葉に頼む、年の緒長くその言葉を伝える重んじるという意味ともとれる
状況からは違うにしろそういう解釈もありうる
それで母が死ぬ間際に一か月前に認知症だったけど正気にもどり言った言葉が忘れられない、それは孫に言い残した言葉だけど孫にはその言葉は伝わらなかった
それも一緒に生活したこともないから疎遠になり伝わらなかった
ただ自分自身は正気になって大声で言い残したことに驚いたのである
最後の言葉はやはり人間にとって誰であれ重みがある
その母の言葉を年の緒長く頼む、守るということにもなる
次の歌も言は絶えたりというとき死んだともとれる、でも夢に見えるとなる
これも必ずしも恋愛の歌ではなく死んだ人を想っていることともとれる
そもそも万葉集の歌が何を意味しているのかわからないのがあり研究が続けられている
それは古代の人の心が今と違っていて理解できなくなったからである
つまり自然の中での原初的心性というべきものが近代人からは喪失したからである
芒というときこれは意外と深く根を張るものなのである、だから簡単に引きぬけないのである、一見芒は木と違うから根を深く張ると見えないのである
実際は深く根を張っている、そうみると違って見える
百才生きた母にはふさわしいものともなる、ただ百才も生きると幽霊のようにもなって生きるともなる、まず百才まで生きるとどんな感じになるかイメージできないのである
蝋梅も咲いたし、梅も咲きはじめた、実は今日はあたたかい、昨日は真冬だった
ようやく春になるらしい、このくらいだと楽である
俳句はやはり写生である、十本の樹に寒さのしみいりぬ・・・というときまさに写生である、十本というところに意味がある、「鶏頭の十四五本もありぬべし」子規・・・これに写生が集約して表現されている、つまらないとなればつまらないがそれが写生俳句の本質を表現したものだから論争にもなったのである
だから十本の樹というのがまさにこれと同じなのである
これは街中の公園にある、ちょうど十本くらいある、十本の樹があり寒さがしみいりここに耐えて建っているとかみる、その解釈はしないのが写生俳句である
寒木
風うなり木に寒さしみいる
椿の赤く真の心に安らぐ
人はめいめいの場に
分かち合いともに生きる
人と人は場に結ばれぬ
信頼で深く結ばれ一つになる
かくて離れざるかな
寒さしみいるともあたたかき
人の心のかくあれば・・・・
(十本の樹に寒さのしみいりぬ)
説明すればこうなる、説明をはぶけば写生俳句になる
とにかく蝋梅というとき母を想い出す、何か百才を生きた母にふさわしいとなるからだ
ともかく死んでから母を想っているというのは不思議である
死んでから存在感を示しているのが不思議なのである
どうしても依然として母が家にいるという感覚になるのだ
これはおそらく夫婦でもどちらかが死んでも依然とてしう家にいるという感覚になっている人がいる、それは家で暮らした歳月が長かったからそうなっているのだ
だからもし息子でも娘でも一緒に暮らさないとそういう想いが起きないかもしれない
70年も一緒に暮らしたことでそうなったからである
ただ正直母のことは私は嫌うところがあり死んでからこうして思うことが不思議なのである
十本の樹に寒さのしみいりぬ
百才を生きにし母や蝋梅の咲きてその後我の住むかな
母のことを語るのは不思議である、母は脇役であり目立たなかったからだ
私自身も母を注目していなかった、嫌いの所があり母を良く思っていなかった
ただ人間は何か死ぬと生きているときき別な見方をするようになる
それが不思議だとなる、死んでからその人を深く想うということがある
だから万葉集の歌が恋愛ばかりだと見るのは間違っている
そうしたら何か浅薄になるからだ
恋は乞うであり死者を想っているのだというときそうなるとその想いは深くなる
もはや肉体として存在しないからこそその想いは深くなるからだ
ただ自分の場合生きている時母を想うこともなかった、むしろ嫌なものにも思っていたのであく、それが不思議なのである
獻舎人皇子歌二首
たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼め過ぎむや
現(うつつ)には言は絶えたり夢にだに続(つ)ぎて見えこそ
直(ただ)に逢ふまで 二九五九
母に許されれば結婚できましょうという意味である、でもこれも別な解釈があるかもしれない
母が言い残した言葉なればその言葉は重要でありその言葉に頼む、年の緒長くその言葉を伝える重んじるという意味ともとれる
状況からは違うにしろそういう解釈もありうる
それで母が死ぬ間際に一か月前に認知症だったけど正気にもどり言った言葉が忘れられない、それは孫に言い残した言葉だけど孫にはその言葉は伝わらなかった
それも一緒に生活したこともないから疎遠になり伝わらなかった
ただ自分自身は正気になって大声で言い残したことに驚いたのである
最後の言葉はやはり人間にとって誰であれ重みがある
その母の言葉を年の緒長く頼む、守るということにもなる
次の歌も言は絶えたりというとき死んだともとれる、でも夢に見えるとなる
これも必ずしも恋愛の歌ではなく死んだ人を想っていることともとれる
そもそも万葉集の歌が何を意味しているのかわからないのがあり研究が続けられている
それは古代の人の心が今と違っていて理解できなくなったからである
つまり自然の中での原初的心性というべきものが近代人からは喪失したからである
芒というときこれは意外と深く根を張るものなのである、だから簡単に引きぬけないのである、一見芒は木と違うから根を深く張ると見えないのである
実際は深く根を張っている、そうみると違って見える
百才生きた母にはふさわしいものともなる、ただ百才も生きると幽霊のようにもなって生きるともなる、まず百才まで生きるとどんな感じになるかイメージできないのである
蝋梅も咲いたし、梅も咲きはじめた、実は今日はあたたかい、昨日は真冬だった
ようやく春になるらしい、このくらいだと楽である
俳句はやはり写生である、十本の樹に寒さのしみいりぬ・・・というときまさに写生である、十本というところに意味がある、「鶏頭の十四五本もありぬべし」子規・・・これに写生が集約して表現されている、つまらないとなればつまらないがそれが写生俳句の本質を表現したものだから論争にもなったのである
だから十本の樹というのがまさにこれと同じなのである
これは街中の公園にある、ちょうど十本くらいある、十本の樹があり寒さがしみいりここに耐えて建っているとかみる、その解釈はしないのが写生俳句である
寒木
風うなり木に寒さしみいる
椿の赤く真の心に安らぐ
人はめいめいの場に
分かち合いともに生きる
人と人は場に結ばれぬ
信頼で深く結ばれ一つになる
かくて離れざるかな
寒さしみいるともあたたかき
人の心のかくあれば・・・・
(十本の樹に寒さのしみいりぬ)
説明すればこうなる、説明をはぶけば写生俳句になる
とにかく蝋梅というとき母を想い出す、何か百才を生きた母にふさわしいとなるからだ
ともかく死んでから母を想っているというのは不思議である
死んでから存在感を示しているのが不思議なのである
どうしても依然として母が家にいるという感覚になるのだ
これはおそらく夫婦でもどちらかが死んでも依然とてしう家にいるという感覚になっている人がいる、それは家で暮らした歳月が長かったからそうなっているのだ
だからもし息子でも娘でも一緒に暮らさないとそういう想いが起きないかもしれない
70年も一緒に暮らしたことでそうなったからである
ただ正直母のことは私は嫌うところがあり死んでからこうして思うことが不思議なのである
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