塩の道から歴史を考える
(千国街道ー相馬藩(飯館村)への塩の道)
人間は時代が変わるとその時代を生きることが実感できない、するとそこに相当な誤解が生まれる
それで冷蔵庫とか洗濯機がテレビがない時代をイメージすることがむずかしくなる
団塊の世代などは戦後十年くらいは水道もない、洗濯機も冷蔵庫もなかった
洗濯は裏の堀でしていたがそれも今になるとイメージもできなる
堀もなくなっているからである
そこで一番生活を変えたのが冷蔵庫だったということをyoutubeで聞いた
その理由は冷蔵庫がないと新鮮な食料を貯蔵できないからその日に買ったものを食べる
それはかなりの手間になる、そのために近くに店が必要だったとなる
近くの店でないといちいち貯蔵できないからそうなる
街自体もそのために小さな店が並んでいたのである
農家になると納豆とかすら自前で作っていた、自家生産していた
そして常に新鮮なものを食べていた、冷蔵庫がないから今とったものを食べていたのである
この貯蔵するということが文明を作ったともなる、魚で塩漬けで保存するといつでも食べられるとなる、だから塩漬けの技術は人間の生活を変えたのである
他にもなんらか保存するということは人間にとって文明を作る基礎技術だったともなる
例えば米は蔵にある年数保存できる、すると保存できるから貨幣の役割りにもなる
保存食となり米をもっている人は権力をもつことにもなる
災害などがあったら米があれば高く売ることもできるからだ
保存する貯蔵する、貯えるということは権力を持つことであり神殿は食料の貯蔵庫としても機能したというのはそのためだともなる
食料があればそれを配ることができるから力をもつことになる
その人に従うとなるからだ
塩というのは塩自体の効能も大きいが塩漬けで食糧を保存するということで貴重なものとなった、塩の道があり塩は山の村に運ばれた、塩は塩自体を利用して料理するが塩漬けにして保存できる、貯蔵できることで価値があった
塩なしでは人間は生活を維持できなかった、だから世界中で塩が貴重だったのである
死海などの塩湖があった地域では古代オリエント文明が栄え、ヨーロッパ文明の礎になったともいわれています。
サラリーマンの語源はラテン語のsal(塩)といわれています。 古代ローマ時代、兵士の給料は塩(sal)だったそうで、英語のsalary(サラリー:給与)はここから由来しています。
金属は交換貨幣として使われる唯一の材料ではなかった。塩もしばしば基本的に個人的な重要性を持つ話題として特別に重要な日用品として述べられた。個人の収入またはローマ兵士の‘サラリー’はしばしば塩(サラリウム)で一部支払われ、そのことからサラリーと言う言葉が生まれた。
アフリカではサハラで岩塩が産出し、イスラーム商人(ムスリム商人)の手でアフリカ内陸に運ばれ、サハラ南方のガーナ王国で産出する金と盛んに交易されていた。ニジェール川上流域の都市トンブクトゥは塩と金の交換などの交易で繁栄し、イスラーム教のモスクやマドラサが建てられた。
中国では、前漢時代より塩の専売が行われており、2000年にわたる皇帝支配の財政的基盤となった。『塩鉄論』のように、塩の専売制度を巡る議論は前漢から行われている。一方で、王朝による高額な専売塩より安く塩を密売して、巨額の利益を上げる者(塩賊)もおり、その中でも唐を崩壊させる黄巣の乱を起こした黄巣は有名である。
塩と黄金が対価で交換されるほど塩は貴重だったのである、それほど塩は貴重だった
黄金はあくまでも装飾として価値があったが塩は日常生活に欠かせないものとしてあっただから人間の生活にとって黄金より塩が価値があり貴重だった
塩の専売という権利は大きな権利だった、近くで塩を売る専売権をもった家があった
それで自分の家でも店を出していたので争ったことがあった
煙草も専売なのである、その専売権を得ることは大きな利権だったとなる
ともかく塩の道は相馬藩でも松川浦で塩田を作りその塩が鹿島区の栃窪を通って運ばれた栃窪の山の中を通る塩の道があったがそこは馬が通るには細い道であり危険なのである
ちょっとずれると谷底に落ちるような杣道なのである
そこでそき山中を通る時,助の観音堂がある、ここに茶屋があり泊めた
丁度この辺が相馬市の松川浦から来ると一日かかって来れる場所だったとなる
塩だけではない、魚でもは海産物が運ばれた、それは山では貴重なものだった
塩の道を行く-殿様道(歴史春秋出版)
飯樋では60人も塩の番屋で働いていた、相馬藩は塩をとることでそれが財政を助けた
また飯館村は木材資源がありそれで伊達藩との関係があり争った歴史がある
塩と木材は当時では最も大事なものだった、なぜなら木材でもそれを燃料として炭として利用していたからである
助の小屋というのがありそこで一夜を過ごしたということある
一日で運べないからそういう小屋が必要になった
とにかく塩の道は世界でもそうだが各地にある、塩がなくては生きていけないからである有名なのは長野県の塩の道である、松本城から日本海の千国街道は有名である
そこは牛で運んだのである、山道を運ぶには牛の方が適していた
途中に牛宿がありそこで牛を休ませて人も泊まったとなる
そこで山中に牛繋ぎ石とか松本市内にもある、塩の道を回想するにはその塩の道がいい
そして上杉謙信が武田信玄に塩を贈ったというのは日本海側では塩がとれたからである
それで敵に塩を送るという諺が生まれたいてある
それだけ塩が貴重だから塩にまつわる話が伝説でも多いのである
千国街道
黒々と牛繋ぎ石落葉踏む
秋深む山中踏み入り塩の道
馬ととも塩を運びし苦労かなゆえにともにし家族ともなる
曲がり屋でも馬小屋でも家の中にあった、つまり馬は家族の一員のようになっていた
それで馬と娘が結婚したとかの伝説が残る、それは家族の一員になっていて馬に親しんでいたからである、現代はこうしして動物との交流もなくなる、でも今は猫とか犬がペットとして家族の一員になっている
相馬地域は野馬追いがある、でもその馬は軍馬だったのである、ただ耕作にも使っていた馬と人間の関係は深いものがあった、でもそれも自動車社会になると喪失した
そこでも失われたものがある、馬とか牛と接していると情が養われで情深い人間になるいうこともある、相手は動物でも機械ではないからである
その情が動物に通じるからである、それで名前で呼ぶ、飯館村では牛を飼う村だったが
原発事故で避難して十頭の牛に名前をつけていた、それをみんな覚えていたのである
何かこうして人間の生活が変わると時代が変わると失われるものがある
それは人間の心にも影響してくる、何か現代人がかえって便利な生活しても殺伐としている、それは情を失ったからである、この情は機械にはないからである
何でも機械化ロボット化コンピュター化すると情がなくなるのである
駅でも無人化するとそこに情がないものとなる
だから時代が変わると人間の心に影響する、そこに失われたものがある
つまり機械化とかコンピュター化でもそこに必ず失われたものが生まれて来るのである
子供の家から機械ばかりに接していると子供からも情が失われる、それが大人になったとき情のない人間になる、何か戦前とかは貧乏でも情が深い人がいた
それはそういう環境にあったからだとなる、だからその時代がわからなくなる
ただ不便なものとして遅れた社会としてみる
でも時代が変わり失ったものがあることを知るべきである、それは人間にとって最も大事なものだったともなる、機械に囲まれて病院に治療するがそこに情が欠けているのである人間も物体のように扱われる、確かに医療は進歩しても殺伐としているともなる
人間はそこで死んでゆくにしても物体のように扱われるとなるから家で死にたいとなるのである
私も病気で二回入院したりした、でも病院は嫌なのである、そこに情が欠けているということがあるからだ、これは今やどこでも全般的にそうである
情がなくなった世界では便利でも効率的でも科学技術の恩恵を受けても何か情がないからどこでも殺伐として社会になっているのである
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