会津から新津駅ー地名を知り旅を回想する
(古町があり新町がある)
古津に対する新津で、船着き場として発生、鎌倉時代には豪族新津氏の存在が知られる。近世は新発田(しばた)藩の新津組の大庄屋(おおじょうや)町として六斎市(ろくさいいち)でにぎわった
その名の通り船着き場として発生した新津は江戸時代は新発田藩領の在郷町・大庄屋町として六斎市で賑わい、街道が分岐する交通の要衝の町として発展していた[1][2]。その後明治・大正期に入り、新津油田を中心とした石油の町、新津駅を中心とした鉄道のまちとして栄える
大正中期には羽越本線(うえつほんせん)、磐越西線(ばんえつさいせん)と信越本線の交差する交通の要衝として、機関庫、鉄道工場などが立地し、交通都市として繁栄した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B4%A5%E5%B8%82
新津にて線路交わるここよりし雪の覆いし会津の山見ゆ
電車の旅となると全国を行っている、その記憶をたどる、旅しているときはその地理がわからない、それで記憶をたどり地図を見てふりかえる
会津から磐越西線を来て阿賀野川の船運の港があった津川により新津駅により
そこから会津の雪の山が見えた、その時は冬だった
電車の旅となると全国を行っている、その記憶をたどる、旅しているときはその地理がわからない、それで記憶をたどり地図を見てふりかえる
会津から磐越西線を来て阿賀野川の船運の港があった津川により新津駅により
そこから会津の雪の山が見えた、その時は冬だった
新津駅は
大正中期には羽越本線(うえつほんせん)、磐越西線(ばんえつさいせん)と信越本線の交差する交通の要衝として、機関庫、鉄道工場などが立地し、交通都市として繁栄した
もともとここは最初は川が交通路になり最初は古津があり新津に移動した
必ず古町があり新町ができる、それは意外と狭い地域でも古町と新町がある
繁華な町でも交通が変わると変化するのだ
それは原町が原町機関区として発展した、駅前通りができた、そして浜街道の宿場町が古町ともなり次に自動車時代になり六号線ができて駅の東側に新しい町ができた
そこはもともと原町であり原っぱであり江戸時代までは雲雀が原で野馬追い祭りが行われていた、つまり人家はなかったのである
それが駅ができて駅前通りになったのである、そういうことが日本には多い
新津駅は鉄道の要所となり路線が交わる、ただ海が見えないから新潟市でも広いからなかなか地理がわからない、新潟市というとその名でも新しい潟(かた)のことである
湿地帯だった、日本海側も最初は湿地帯でありそこから日本海を通じて交通があり江戸時代でも北前船があり阿賀野川があり船運があった
津川には川の港があり一時期栄えたのである
津川にそ川の港や雪深くつもり我が踏み帰りけるかな
「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」そのB津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ
https://aganogawa.info/archives/18398
会津がなぜ古代から大きな国だったかというと日本海側からの交通があり吉備とかと交流があった、なぜなら大塚山古墳の三角神獣鏡は吉備のと同はんのものだったからである
日本は最初出雲でも日本海側から発展した
それは韓半島と近いから国引き神話が生まれた、それも交通の便からそうなったのである地理が影響してそうなった、出雲が大きな勢力となり日本海を通じて東北地方に進出したそれで出雲が蝦夷だったというのもわかる
大和朝廷に出雲でも国譲りがありふがて長野県の諏訪とかに逃れて蝦夷地へ逃れたのである、それでとにかく諏訪神社が多いのである
地理と歴史は一体であり地歴となる、そして地理を知る時、地名も一体のものとして知るべきだとなる、なぜなら新旧を知るには古津があり古町があり古田とかあるからだ
それで新旧を知ることになる、まず地域でも新旧を知ることが大事たというのはそのためである
『新潟古町 隠れ家居酒屋【月ひかり】
「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」そのB津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ
https://aganogawa.info/archives/18398
会津がなぜ古代から大きな国だったかというと日本海側からの交通があり吉備とかと交流があった、なぜなら大塚山古墳の三角神獣鏡は吉備のと同はんのものだったからである
日本は最初出雲でも日本海側から発展した
それは韓半島と近いから国引き神話が生まれた、それも交通の便からそうなったのである地理が影響してそうなった、出雲が大きな勢力となり日本海を通じて東北地方に進出したそれで出雲が蝦夷だったというのもわかる
大和朝廷に出雲でも国譲りがありふがて長野県の諏訪とかに逃れて蝦夷地へ逃れたのである、それでとにかく諏訪神社が多いのである
地理と歴史は一体であり地歴となる、そして地理を知る時、地名も一体のものとして知るべきだとなる、なぜなら新旧を知るには古津があり古町があり古田とかあるからだ
それで新旧を知ることになる、まず地域でも新旧を知ることが大事たというのはそのためである
『新潟古町 隠れ家居酒屋【月ひかり】

こういう地名もありそこに居酒屋の月ひかりがあるのは名前からして詩的だともなる
古町ー隠れ家ー月ひかりが詩的にもなる
だからこの命名が良かったとなる
それは相馬市の田町通りの居酒屋でもそうだった、何か詩的なイメージになる
そこではなじみの客がいて集まる人は年配の人なのかともなる
ただそれはあくまでもイメージであり現実は違っている
場末のごちゃごちゃした飲み屋とかともなる
とにかく旅をしても地理は本当にわかりにくい、例えば阿賀野川でも実際にその川を会津若松まで船で来れば地理が実感できるのである、それが電車だとわかりにくくなる
川で下ったり上ったりして知る地理と電車で知る地理は違っているからだ
日本が山が多くて地理がわりにくいのである、大陸だと長大な河がありその河かち地理をしるからわかたやすいともなる、一本の長大な川を中心にして地理をしる
そこが文明の発祥地だというのもわかりやすいのである
ナイル河とかガンジス川とか揚子江とか黄河とかなる
とにかくガンジス河でも上流でもその幅が広いことに驚くのである
それでインドではガンジス河中心の神話が生まれたことも理解できるのである
新潟県から会津へ阿賀野川を通じて交通があった、それで北前船が交通があったとき
江戸時代末期にコレラも伝染したのである、つまり交通があれば必ずウィルスは伝染するのである、これはもう避けられないのである
伝染しなかったのは交通がなかった秘境の桧枝岐(ひのえまた)だったとなるからだ
歴史は地歴であり空間軸と時間軸から成り立つ、空間軸は地理である
その地理がわかりにくいのである、時間軸でもこれも過去のことだから想像力が地理より必要になるから理解するのがさらにむずかしくなる
地理だと古代でもその前の古生代からも地理は変わらない、でも空間軸でもと広いし複雑だからわかりにくいのである
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