陸奥の真野の草原が地質的にも境目だった
(鶴岡から相馬地域は共通した地質を形成)
歴史に見る東北の方位(東北学文庫1)
陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを ...
笠女郎(かさのいらつめ)の大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)に贈れる歌三首
陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを
ここは確かに地形的にも地質学でも鶴岡から相馬地域で区切られた場所である
その自然の境界がまた歴史的境界ともなっていた
南限の地としてマルハシャリンバイ自生の知とされるのもそうである
ここは照葉樹林帯の南限の地だともなるからだ
こうして真野の草原は自然の境界でもある、気候とか地質でも境界になっている
だから石巻説になると遠すぎるのである
不思議なのはここでも地図を見るとなぜぴったりと相馬地域まで明確に地形や地質の差があり境界になっていることなのである
ここは気候でもそうだうし地形でも地質でも境界になっていてそれでこの場所が西から来た人々に意識されるようになった
境界というのは意識されやすいのである
大陸では大きな川である、ライン河をローマ帝国をはばんだ、そこは異民族のゲルマンの地だったからである、ライン河を境にして風土も文化も歴史も違っていたからである
ここでは河ではないが地質的にも気候的にも境となっていて真野の草原として知られるようになったのである、草原(かやはら)は地名なのである
もし草原(かやはら)だったら別に萱などはどこにでも日本では茂っている
もし植物相でも変わったものになっていたら別である
草原が萱は南でも西でも東でも関係なく日本ならどこでも茂っているからそれが何か特別の目印にはならないからである
ただこれは本当にまぎらわしいものとなっていたのである
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