2021年03月18日

梅香る(梅の漢詩と田舎のことなど)


梅香る(梅の漢詩と田舎のことなど)


梅の香の広間に満ちて遺影あり

梅林に入りて匂うや一人かな

里めぐり梅のあまたや匂い充つ

虚しくも梅の匂うも空家かな

春日さし我が家に居つく猫一匹 


田舎というのは悪い面も相当にある、今はどこでも人間が素朴などとないのである
それは社会が金中心になったためである
何か共同性とかもない、津波とか原発事故で絆を盛んに言われたがそれもなくなっていた絆がかえって外部とあった、内部にはなかった 

ただこうしてマイナスの面も大きいのだけど梅の季節になると何とも梅の香りがそちこち流れて来る、すぐ近くに梅林もある、だから梅の季節は気持ちいいとなる
こういうことは都会にはないからだ
こういうのが田舎のいい点だとはなる


梅林鶯聲を聽く<宮崎東明> 

春天風暖かにして 塵寰を出ず
最も喜ぶ吟行 一日の閑
歩歩蜿蜿 平野の路
登登曲曲 鬱林の間
忽ち梅樹を看る 東西の谷
時に鶯聲を聽く 前後の山
杖を松根に停めて 酒を斟む處
詩篇未だ作らず 已に酔う顔

ばいりんおうせいをきく<みやざきとうめい>

しゅんてんかぜあたたかにして じんかんをいず
もっともよろこぶぎんこう いちじつのかん
ほほえんえん へいやのみち
とうとうきょくきょく うつりんのあいだ
たちまちばいじゅをみる とうざいのたに
ときにおうせいをきく ぜんごのやま
つえをしょうこんにとどめて さけをくむところ

塵 寰塵の世 俗世間
蜿 蜿うねりくねるさま
鬱 林こんもり茂る林
忽ふと
聽聞こうとして聞く
早顔酒に酔った顔

意解
 春日和で風も暖かくなって俗世間から出ることにした。詩を作りながら一日のどかに出歩くのはこの上もない喜びである。
 平野の道を一歩一歩うねりくねりしながら進み、こんもり茂った林の中を折れ曲がりながらぼつぼつ登りつづけていった。
 ふと、東西の谷間に梅林が目に入り、折しも前後の山々から鶯の声がして耳を傾けた。
 私は杖を松の根もとに置いて休み、酒を酌んでいると、思う詩がまだできていないうちにもう酔ってしまった。


この漢詩は日本人のものだった、でも何か自分が感じたものと一致していた
梅の香りに酔うということで一致していた

梅堯臣(1002-1060)

適興野情

千山高復低
好峰随處改
幽経独行迷
霜落熊升樹
林空鹿飲渓
人家在何許
雲外一声鶏 

適(まさ)しく 野情にかない
千山高く また低し
好峰 随處に改たまり
幽経 独り行きて迷う
霜落ちて熊は樹に升(のぼ)り
林空しく鹿は渓(たに)に飲む
人家 何許(いずこ)にか在る
雲外 一声の鶏

これもまさに常に自分が田舎を自転車でめぐっている状態と同じである
ただここに熊がでてきて鹿が水を飲むというのは違っている
1000年前の人だから当然そういう場所が中国でも多い
中国に三回行っても結局深い所がわからなかった、まず中国を知ることは不可能である
広すぎるからである

田舎だと細い道がありそこが幽経なのである、そういう道は一日でも一人くらいしか通らない、一人も通らない時もある、ただ田舎でもそういう道はまれになる
たいがい舗装されたりしていて車が通るからだ、そこは確かに車が通っても乗用車は通らない、だからそこは隠された道なのである

ともかく梅の季節であり梅の香りは野に流れて香りが満ちている、その時確かに平和である、つまり田舎でも人と必ずしも接しないでその香りに接していればいいとなる
その時田園に暮らす喜びが自ずと充たされるのである

雲外一声鶏

今はこれが感じない、鶏は卵を産む機械として機械のようにされている
それが不自然なのである、でも田舎では今でも話し飼いの鶏がいてそれを見た時ほっとしたのである、田舎でも機械化人工化しているから何か殺伐としてくるのである
本来の田舎はなくなっている、そしてこの辺はその工業文明により原発事故で荒廃してしまったのである
ただ別に避難区域にならなかったところは変わりなくなったのである
飯館村とか小高区とか浪江とか双葉とか大熊が元の状態にもどらない
だから梅が咲いてその匂いも流れても何か空家の梅のように虚しいとなる

人間はやはり自然に平和を見出すべきなのである、自分はその平和を樹と石とか山に見出してきた、それを詩にしてきた
平和とは平和と叫ぶことではない、平和運動ではない、平和な状態なのである
そういうとき東京という場所にはそもそも平和はないのである
あれだけ建物と人が密集して自然がなければ平和はない、平和を感じることは不可能である
平和とは戦争のないこととかでもあっても実際は日々の日常に平和を感じる場所なのである、それが都会にはないのである
ただ正直田舎は理想的な場所ではない、それを原発事故のことでもずっと指摘してきた
田舎の人間も醜いのである、ただその暮らしが隠されていたとき飯館村のような平和があったとなる、それが原発事故でずたずたに破壊されてしまったのである
それが最大の原発事故の罪深さだったのである
ただ東京の人はそういうことに痛みを感じない、そういう場所に住んでいないし遠い場所で関係ないとなっていたからである

野の梅を手折り遺影の飾る広間にさす、すると香りが部屋一杯に満ちる
家はやはり広い方がいいのである、日本は狭すぎるのである
テレワークになったとき狭いアパートとかで誰ともしゃべらずパソコンに向かって仕事しているのも確かに味気ないとなる
でも広い家で庭があり田舎だったら散歩しりして英気を養うことができる
都会で一日狭い部屋にいたらうつ病になる

この家は親が建てたものである、ただ一人では広すぎるとなる
でも近くでも本当に広い家に一人で住んでいる女性でも多い、子供は別になっていないのである、だから家に関しては田舎は贅沢である
それで住宅に住む人は見劣りすることになる、そこに格差が現れる
でもその人でも二階もあり三部屋とかあり一人で住んでいるのである
これからは空家がますます増えてただ提供される時代が来るとなる
家にあまり金をかけない時代が来る、そこで悠々と暮らすのが本当の豊かさだとはなる
茶室があるとしてもそれは広い家があり部屋があって利用する特別の間である
普通に暮らすには広い家の方がいいのである
とにかくこの広間に梅の香りに充たされる、それは親が残したものであり私は恩恵を受けているだけなのである、だから人間は親に恵まれないと損だということは確かである





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