万葉ふれあいセンター
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みちのくや桜満開霞むかな
みちのくの山の霞みて籠もるかな
春霞山のかなたに隠さる村
我が町やたずぬ人あれ霞むかな
我が町のなべかんむり山霞むかな
東風吹いて山は霞みぬ浜通り
蕗の薹あまたや街見ゆ丘の上
タンポポの隙間いで咲く力かな
家の主春ゆうたりと一人かな
人は逢い人は別れぬ霞かな
我が町の丘を染めにし桜かな山の霞て遠く連なる
今年はや満開の桜映えにしも散るも早しも霞けるかな
月満ちて桜満開早きかな散れる花びらここに見ゆかな
人の世の時の過ぎゆく早しかな花の咲きしも霞てはや散る
面影の霞て消ゆや時すぎぬ人ははかなく逝きて帰らじ
今年は桜が咲くのが早かった、すでに満開であり夜見たら花びらが散っていた
桜が満開になったらもう散るを予感する
それが桜なのである、だから今年は桜が散るのが早い、だいたい普通はみちのくだと10日頃に咲いていた、10日も早いと相当早く感じる
その速さがまた時間が早くすぎて老人だと何かさらに時間が過ぎてゆくのが早いと感じてしまうのである
桜の咲く季節でも毎年違った天候になる、今年は霞む、まさに春の季節で水蒸気が多くなり霞む、桜の時期はこれまで私はほとんど旅していたのである
だから桜前線を稚内まで旅していた、そこでは6月でも桜が咲いていたのである
それは北限の地だった、また桜の季節は青春18切符で瀬戸内海まで行き韓国の慶州にも渡って桜を見たのである、韓国の古都の慶州には桜が咲いていたのである
そういう旅をしてきたのが自分だった、でも遂に介護になり十年間は旅していない
旅ができなくなった、今でもしていない、旅もいつか終わるということである
でもこれだけ旅したら満足だとなる、それでもヒマラヤとかをもっと見たいと思ったができなくなった、だから見るべきものを見てないなと損である
ヒマラヤに十回も昇った人を知っているからだ、それだけ魅力がある場所だったのである
今年の桜は霞のなかでみる桜である、家族もみんな死んで何か家族すら遠い存在となってゆく、霞んでゆくとなる、それだけ人が逢うとか一緒に60年暮らしても死んでしまえばその面影も思い出も定かでなくなる
つまり霞んでゆくのである、それだけ人間も年以上一緒にいても忘れやすいとうことである、人間ほど忘れやすいものはいない、時間が忘れるためにあるとも思う
津波の被害が生々しくてもそれすら時間の経過の中で夢の様な出来事として忘れられてゆくのである、ただ原発事故だと放射線の被害がありそれが残っているから忘れられないとなる
ただ人間は霞むとき何か醜いものが隠される、飯館村などは山脈のかなたにあるとか隠されていたとき美しい村だったとなる
何か人間は必ず醜いものがある、でも霞の中に隠されるとそれが見えないからいいのである、要するに人間は醜いから隠されるべきだとなる
第一大都会など東京など見るのも嫌だとなる、隠されて見えない方がいいとなる
浜通りは海から春になると東風(こち)が吹く、そして阿武隈山脈は霞んでいる
この東風が飯館村から福島市に吹いて放射線の被害を大きくしたのである
もし時期がはせずれていたら北風が吹いて海に放射性物質は流れてそれほどの被害にならなかったかもしれない、これも不運だったのである
この町のなべかんむりやまは本当に鍋の形をしている
この名前にしても不思議なのである、これは古代からつけられた名前なのか?
なぜなら近江の方になべかんむり祭りとかあるからだ、これも不思議なのである
鉄生産とかかわって近江から実際に工人がきて往き来していたことがあるからそこから名付けられたのとなる、そんな古い由来があるのかというもの謎である
あの山はこの辺を象徴する山である
ただ山としてはこの辺は高い山がないのでものたりないのである
いづれにしろ今年の桜は早い、そして早く散る、たちまち桜の時期は終わることになる
若菜つむ 野邊の霞ぞ あはれなる 昔を遠く 隔つと思へば 西行
若菜つむとは春が来て新しく出てきた若菜をつむ、しかし野辺は霞んでいる
それは時が移り若菜とは何かすでに新しい生活が始まっている
死んだ人も遠くなり新しい人との生活が始まっている
すると死んだ人は遠くなり忘れられてゆく、それが人生である、人の世である
これに通じているのが
草の戸も住みかはる代ぞ雛 (ひな) の家 芭蕉
となる、何か老人になると若い人とか少年とかみると不思議になる
そんな若い人がいるのかとなる、孫でもそうなる、人の世とは常にこうして変転してゆく常なきものなのである、無常の世なのである
変わらないものはないのだ、日々変わっているし年々変わっている
それが世の中である、とにかくこの辺は津波と原発事故で本当にがらりと変わってしまった、風景まで喪失して変わってしまったのである
だから逆に石とか木とか山とか変わらないものを求めるということがある
変わらないことで心の安定を得るのである
桜もまたすぐに散るから不安定だからである、静心なく花の散るらむ・・となるからだ
ヒマラヤに十回も昇った人を知っているからだ、それだけ魅力がある場所だったのである
今年の桜は霞のなかでみる桜である、家族もみんな死んで何か家族すら遠い存在となってゆく、霞んでゆくとなる、それだけ人が逢うとか一緒に60年暮らしても死んでしまえばその面影も思い出も定かでなくなる
つまり霞んでゆくのである、それだけ人間も年以上一緒にいても忘れやすいとうことである、人間ほど忘れやすいものはいない、時間が忘れるためにあるとも思う
津波の被害が生々しくてもそれすら時間の経過の中で夢の様な出来事として忘れられてゆくのである、ただ原発事故だと放射線の被害がありそれが残っているから忘れられないとなる
ただ人間は霞むとき何か醜いものが隠される、飯館村などは山脈のかなたにあるとか隠されていたとき美しい村だったとなる
何か人間は必ず醜いものがある、でも霞の中に隠されるとそれが見えないからいいのである、要するに人間は醜いから隠されるべきだとなる
第一大都会など東京など見るのも嫌だとなる、隠されて見えない方がいいとなる
浜通りは海から春になると東風(こち)が吹く、そして阿武隈山脈は霞んでいる
この東風が飯館村から福島市に吹いて放射線の被害を大きくしたのである
もし時期がはせずれていたら北風が吹いて海に放射性物質は流れてそれほどの被害にならなかったかもしれない、これも不運だったのである
この町のなべかんむりやまは本当に鍋の形をしている
この名前にしても不思議なのである、これは古代からつけられた名前なのか?
なぜなら近江の方になべかんむり祭りとかあるからだ、これも不思議なのである
鉄生産とかかわって近江から実際に工人がきて往き来していたことがあるからそこから名付けられたのとなる、そんな古い由来があるのかというもの謎である
あの山はこの辺を象徴する山である
ただ山としてはこの辺は高い山がないのでものたりないのである
いづれにしろ今年の桜は早い、そして早く散る、たちまち桜の時期は終わることになる
若菜つむ 野邊の霞ぞ あはれなる 昔を遠く 隔つと思へば 西行
若菜つむとは春が来て新しく出てきた若菜をつむ、しかし野辺は霞んでいる
それは時が移り若菜とは何かすでに新しい生活が始まっている
死んだ人も遠くなり新しい人との生活が始まっている
すると死んだ人は遠くなり忘れられてゆく、それが人生である、人の世である
これに通じているのが
草の戸も住みかはる代ぞ雛 (ひな) の家 芭蕉
となる、何か老人になると若い人とか少年とかみると不思議になる
そんな若い人がいるのかとなる、孫でもそうなる、人の世とは常にこうして変転してゆく常なきものなのである、無常の世なのである
変わらないものはないのだ、日々変わっているし年々変わっている
それが世の中である、とにかくこの辺は津波と原発事故で本当にがらりと変わってしまった、風景まで喪失して変わってしまったのである
だから逆に石とか木とか山とか変わらないものを求めるということがある
変わらないことで心の安定を得るのである
桜もまたすぐに散るから不安定だからである、静心なく花の散るらむ・・となるからだ
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