丸森の春の金山城ー人間と山が一体化する山城の魅力
茶室が城にはある
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引地氏の墓か
パノラマ写真
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金山城上り来たりて侍の茶を飲み絆強めにしかも
我が上る金山城へと上る道延齢草とカタクリの咲ぬ
金山城絆の強く守りかな岩に根を張る木のごとしかも
金山城すみれあまたに巌かなここの守りの堅くもあるかな
人と人ここに面して金山城契りを交わして戦いいどむ
夕風に花は散りにき藪椿赤くも映えて金山城かな
重々し蔵王迫りて威厳かな金山城にそ春に望みぬ
藪椿蔵王に向きて赤々と咲きて暮るるや金山城かな
伊達の領望む山々広々と平野拓けぬ春に望めり
侍の厳つき面や金山城ここを守るとその構えかな
金山城刀に兜武具そろえ侍の意地ここに残りぬ
もののふの城は命や石垣の残りて堅く桜散るかな
夕日さし桜映えにき金山城我は去りゆく相馬の方へ
鶯の警戒音のみひびきつつ山深く入り他に聞こえじ
伊達政宗が初陣を飾った城として知られ、江戸時代には伊達21要害の一つとなった城。
戦国時代、陸奥伊具郡は伊達氏と相馬氏との激しい争奪戦の舞台となり、陸奥金山城は相馬氏の境目の城として永禄9年(1566年)頃に相馬家臣・井戸川将監と藤橋紀伊によって築かれたとされる。
天正9年(1581年)からの伊達輝宗による侵攻の際には伊達政宗が陸奥金山城攻めで初陣を飾り、輝宗は天正11年(1583年)に丸森城を攻略、その翌年に陸奥金山城を落として伊具郡は伊達氏の領有となった。
輝宗は陸奥金山城攻めで功のあった中島宗求を2,000石で城主に任じ、以後陸奥金山城は代々中島氏が城主を務めることとなる。
中島宗求
https://michinoku-ja.blogspot.com/2014/08/blog-post_14.html
最初に城を築いたのは相馬氏でありその後伊達市が城主となった
ここで城をめぐってせめぎあいがあり後で和睦した
ただとういう戦いがここで成されたのかわからないがここで確かに戦闘があった
山城の魅力は山自体が一つの城となっていたことである
私は何か自然と一体化することで詩で追求してきた
山でもそうである、樹とか石でもそうである、人間の精神と一体化するアイディンティティ化することである
それが山城に惹かれる所以である、ただ山城はなかなか見れない、隠されてあるし目立たないからである、山城を実際に見ても当時のことをイメージしにくい、というのは本当は全体としても防御の体制が山全体に及んでいた、でも見るのは一部だけになる
何か歴史という時、本当は全体を見なければわからないのに部分化して見るからその全容がつかめない、歴史的に残された遺物もそれも一部分のものでありそれからでもわからない、つまり時代が変わると過去の歴史とか遺物でも部分化して断片化するのである
だから山城があったというときそれはその時代の全体の中にあり庶民が暮らした人々とも深く関係している、だからその周りに住んでいた人たちもその山城に安全を求めて逃れたとかある、ヨ−ロッパの中世の都市とかなると城壁で囲まれていて市民と一体化していた日本のように城と庶民の住居が分離していることはなかったのである
そもそも侍の国の日本がという時、一体どうして侍が日本で生まれたのか?
どうして武士道と侍スピリットが作られたのか、これが今になると謎となる
それは歴史とは常に時代を反映して作られるからその時代全体が一時代が過ぎるとわからなくなるからである
ヨ−ロッパでも建築とか絵画と音楽がバッハのオルガンの教会音楽がある
それは実は一体化したものであり分離していない、でも現代だと絵画は絵画でみる
音楽も分離して聞いている、中世ではすべて教会があり祈りとしてささげられていたのである
戦国時代でもどうして強固な侍の強い絆が主従関係まれたのか、...その絆は戦乱の中で命がけで戦う中で醸成されたのである、命をかけて共に戦ったということで一体化したのである山城となるとその地形とか山とも一体化したのである
日本はもともと山の国であり大和(やまと)となったのだから山城が歴史の中で作られてきたことは自然の理に従ってそうなったとなる
そういう厳しい歴史的実践経験の中から武士道が生まれた、そういう時代背景があり生まれたのである
ただ日本は山が多いから当然山と一体化することが実際の生活でもそうだし精神形成でもそうなる
でも福島県でも浜通りには山城はないので欠けている、むしろ相馬胤は瀬戸内海辺りの海と直結した城を見て歩きそれを参考にしたというから山城という視点はなかったのである
山の精神とは安定と防御である、defence and stabilityになる
海は安定しない、だから津波の様な恐ろしいことが起きる、そういうことは山にはない
山が確かに山崩れとかあっても全体が壊れるなどありえないからである
山は安定であり持続なのである、それは木でも石でもそうなのである
海とか水は流動であり変化の象徴なのである
ただ山については浜通りになると高い山がないのでそういう精神性が備わられないのである
会津辺りだったら2000メートル級の山がひしめいているから山と自ずとアイディンティティ化されてくる
金山城は何かこんな小さい城とかに見える、でも山城であり本丸に行くのには結構きつい坂を上るのである、つまり登山にもなるである、それでその細い旧坂の道の脇にカタクリと延齢草が咲いていたのはまさに山城にふさわしいとなる、延齢草は山の中に咲くからだそしてここの金山城がいいのは眺望が最高なのである
蔵王が見えて連峰が見えて広々と春の野が開けて阿武隈川がくねりゆうゆうと流れているここは最高のビューポイントなのである
丸森はもう一つの絶景をみれる場がある、そこからは海が見えるし平野も山も一望できるのである、ただ問題はそこがソーラーパネルが敷き詰められているということで景観が乱されてはいる
丸森はあのように広大な平野が開けまた筆甫のような山に閉ざされた奥深い地域があり
地形的に魅力がある
飯館村にはこうした地形の変化はないからだ、それで魅了されるのである
ただそういう場所でどいう人物が生きていたのか人物の物語がわからない
それは自分は作家ではないから小説家ではないからイメージできないともなる
地形とか景観とか自然と一体化してものとして山城を見るがそこに生きた人物像が浮かばないのである
ただ当時の人間となるとface to faceの濃密な人間関係があり主従関係がありそれがどうして築かれたのか?それはやはり山とか自然とも関係していた、山とは信頼を象徴している
不動であり不変であり信義に篤いとかなる、それは石や木でもそうなのである
山と山が向き合う、石と石が向き合う、木は大地に深く根を張り動かない、そういうことが人間の生活にも反映してくる、またそういう人間の濃密な関係があり精神が形成されたそれが侍スピリットであっり武士道ともなった
そういうことはその時代を生きてみないかぎりわからないと思う
何か常に歴史だと今の感覚で見るから誤解しているのである
第一その当時のような濃密な人間関係を作れることは今からみるとありえないからである現代はただすべて金の切れ目が縁の切れ目でありただ人間は商品化しているからである
そこで一番大事なのは金だけになってしまったからである
そこに当時のような主従関係などありえないし理解できないのである
原発事故で多額の補償金もらったら故郷でもすぐに捨てて便利な所に移住した
人間の絆を言われたがそれは外部から言われたのであり内部では絆は消失していたのである
平氏が何故に源氏に先んじて政権を得たかということは平氏が源氏よりも公卿に近かった平氏は武士的な主従関係を形成する点において源氏より劣っていた
しかし庄園の経営と富の蓄積には優っていたらしい
その原因は源氏が東国より富裕な武士団体、特に海上に威をふるう武士団体と結合したことである
なぜ平氏が源氏に倒されたのか?強固な主従関係の方が勝ったのである
平氏はその時に全国に家人をもったがその主従関係は源氏ほど緊密ではなかった
東国においての武士団体と艱難をともにしつつ作ったのであるが
平氏の武将にはそういう機会は少なくむしろ公卿たちと同様な仕方で家人を支配する場合が多かった(日本倫理思想史ー和辻哲郎)
なにこれが侍とは何であったのか?侍とは西と東では関東武者とではこのように違っていたのだ、このことはかなり示唆的なことである
平氏は瀬戸内海を通じて中国の宋と貿易していたことでもわかる、その時大量の宋銭が日本に入ってきたのである、つまり平氏は商人的性格を帯びた武士だったということであるこの相違は興味深い、なぜなら現代社会はグロ−バル化してみんな商人国家になっているし人間も商人化している、そこに介在するのは金しかないからだ
主君のために親をかえりみず命を捨てるなどありえない、常に金の計算をして得になるか損になるかしか考えない社会だからである
それはグロ−バル化して日本でもアメリカでも中国でも同じなのである
ただここで注意しなければならないのは主従関係が強い方が勝ったということである
日本人は古来人の和を重んじてきた、戦争でも一億総火の玉とかなる国である
ただそれも太平洋戦争では実際は上官と下士官は対立して対立していた
でもアメリカの方が上官と下士官は一致して協力していたとされているのである
日本の上官は質が悪くアメリカの方が優れていたのである
つまり指揮官はアメリカの方が優れていた、日本は上下関係が厳しく下士官は上官を恨んでいたのである、つまり実際は日本の方に人の和がなかったのである
そこで一番大事なのは金だけになってしまったからである
そこに当時のような主従関係などありえないし理解できないのである
原発事故で多額の補償金もらったら故郷でもすぐに捨てて便利な所に移住した
人間の絆を言われたがそれは外部から言われたのであり内部では絆は消失していたのである
平氏が何故に源氏に先んじて政権を得たかということは平氏が源氏よりも公卿に近かった平氏は武士的な主従関係を形成する点において源氏より劣っていた
しかし庄園の経営と富の蓄積には優っていたらしい
その原因は源氏が東国より富裕な武士団体、特に海上に威をふるう武士団体と結合したことである
なぜ平氏が源氏に倒されたのか?強固な主従関係の方が勝ったのである
平氏はその時に全国に家人をもったがその主従関係は源氏ほど緊密ではなかった
東国においての武士団体と艱難をともにしつつ作ったのであるが
平氏の武将にはそういう機会は少なくむしろ公卿たちと同様な仕方で家人を支配する場合が多かった(日本倫理思想史ー和辻哲郎)
なにこれが侍とは何であったのか?侍とは西と東では関東武者とではこのように違っていたのだ、このことはかなり示唆的なことである
平氏は瀬戸内海を通じて中国の宋と貿易していたことでもわかる、その時大量の宋銭が日本に入ってきたのである、つまり平氏は商人的性格を帯びた武士だったということであるこの相違は興味深い、なぜなら現代社会はグロ−バル化してみんな商人国家になっているし人間も商人化している、そこに介在するのは金しかないからだ
主君のために親をかえりみず命を捨てるなどありえない、常に金の計算をして得になるか損になるかしか考えない社会だからである
それはグロ−バル化して日本でもアメリカでも中国でも同じなのである
ただここで注意しなければならないのは主従関係が強い方が勝ったということである
日本人は古来人の和を重んじてきた、戦争でも一億総火の玉とかなる国である
ただそれも太平洋戦争では実際は上官と下士官は対立して対立していた
でもアメリカの方が上官と下士官は一致して協力していたとされているのである
日本の上官は質が悪くアメリカの方が優れていたのである
つまり指揮官はアメリカの方が優れていた、日本は上下関係が厳しく下士官は上官を恨んでいたのである、つまり実際は日本の方に人の和がなかったのである
すると日本が負けたのは必ずしも武器がないとか経済力がていとかでもなかったかもしれない、日本が和の国というけど別に武士道などなくなっていたし侍などいなくなっていたのである、侍とは何かわからなくなっていたのである
それはどうして侍が形成されたかわからなくなったからである
ただ現代はどこの国でも経済優先であり商人国家になっている
だからそれは日本だけに言えることではない、でも戦争でも必ずしも武器の優位とかだけでは計れないものがある
秀吉が家康に負けたのはも西軍が負けたのも東軍には家康の徳川の主従関係の強固さがあったからかもしれないとなる
ともかく山城から見えてくるものはこうした信頼を象徴する山と人間が一体化して形成されたのかともなる、武田信玄だとそうである、ただ信長でも家康の城でも東海側にあり海側にあったのだ、山国の武田信玄は海側に出てきて敗れたともなる
ただその時まだ海を自由に往き来する船がそれほど発達していない、だから山側の山城を根城にした武士が力をもったともいえる
山城というとき二本松城はそういう山城としての古い形態を残した城なので興味がある
やはり大と一体化しているからだ、井戸も多く山の城で籠城できるともなる
確かに山城は多いのだが規模が小さいし何かそういう場所に行くこと自体わかりにくいのである
それでも山城には平地の城より魅力を感じるのは自然と一体化しているからである
その自然と一体化して人間の精神も形成されたということがある
平城となるとあまり魅力を感じない、会津の城はあれだけ歴史があっても何か新しくして博物館のように見えるのである、歴史をあまり感じないのである
ただもし会津が山が多いのだから山城があれば魅力を感じるのである
そこでその山城の物語として次のようなものが津川に残っている
その昔、津川城主が病になった時、治療のために、山の麓にある温泉をくんで、城内で湯治をすることとなった。
この温泉の運搬を命じられたのは蔦丸という小姓だった。
蔦丸は毎日、城主のために麓から城まで、湯を運んだ。そのおかげか、城主の身体はよくなっていった。
ある日蔦丸が湯をくんでいると、同じように湯をくむ美しい娘がいることに気づいた。 娘の名前はお鶴。母の病気を直すために、毎日お湯をくみにくるのだった。
二人は、毎日顔を合わせ話しているうちに恋仲となった。それが理由で蔦丸の帰りが遅れがちになった。
このことが城内に知られ、起こった城主は蔦丸を、頂上近くの石牢に監禁した。
それを知らぬお鶴は、湯をくみにきては蔦丸を待っていたが、蔦丸の姿は見えない。湯をくみに城からやってきた武士に、そのことを聞くと、蔦丸が石牢に監禁されているということを知った。
それを知らぬお鶴は、湯をくみにきては蔦丸を待っていたが、蔦丸の姿は見えない。湯をくみに城からやってきた武士に、そのことを聞くと、蔦丸が石牢に監禁されているということを知った。
その悲しみに不幸はさらに重なり、お鶴の母親が看病の甲斐なく亡くなった。
お鶴は母を失い、恋人が監禁されていることを悲しんでいたが、ある日、蔦丸を助けようと、断崖をよじ登り、蔦丸のいる石牢を目指した。
しかし、願いは叶わず、落石とともに転落して命を落とした。
石牢で、この悲鳴をきいた蔦丸は、絶望し、お鶴の後を追って死んだ。
この二人の死に、神様も悲しんだのか、大洪水が起こった。
このため、常浪川の流れが変わり、わずかに川底が沼になって残った。人々は、その沼を「お鶴ヶ沼」と呼ぶようになり、今に残っている。
湯を運ぶというとき山城だから坂をのぼる、食料でも運ぶのに上る
それが苦しい労働にもなる、温泉の湯は薬ともなるからわざわざ運んだとなる
これは伝説でも事実があり語られた、何かしら事実があって伝説がある
これは山城だから起きた伝説だともなる、平城だったら起きないだろう
侍同士の主従関係の絆はあったがこうしてその下々の者を手荒く扱うの一面としてあっただから会津では明治維新で会津の城が燃えていても関与せずかえってこれまでの不満が爆発してヤーヤー一揆が起きた
ただ山城でも城に積極的に食糧を運んで庶民でも危険な時城に逃げたとかあり一様ではない
この金山城は戦国時代が終わっても一国一城になっても残っていて住んでいた侍がいた
それで庶民と侍はここで一体化して協力していたからだという人もいる
何か人間的つながりがありそうなったとみている
金山城には何かこうした伝説でも残っているのか?その辺がものたりないとなるが相馬氏が最初に作った城であり次に伊達藩の城となった、それが境の城だからそうなったのである
それはどうして侍が形成されたかわからなくなったからである
ただ現代はどこの国でも経済優先であり商人国家になっている
だからそれは日本だけに言えることではない、でも戦争でも必ずしも武器の優位とかだけでは計れないものがある
秀吉が家康に負けたのはも西軍が負けたのも東軍には家康の徳川の主従関係の強固さがあったからかもしれないとなる
ともかく山城から見えてくるものはこうした信頼を象徴する山と人間が一体化して形成されたのかともなる、武田信玄だとそうである、ただ信長でも家康の城でも東海側にあり海側にあったのだ、山国の武田信玄は海側に出てきて敗れたともなる
ただその時まだ海を自由に往き来する船がそれほど発達していない、だから山側の山城を根城にした武士が力をもったともいえる
山城というとき二本松城はそういう山城としての古い形態を残した城なので興味がある
やはり大と一体化しているからだ、井戸も多く山の城で籠城できるともなる
確かに山城は多いのだが規模が小さいし何かそういう場所に行くこと自体わかりにくいのである
それでも山城には平地の城より魅力を感じるのは自然と一体化しているからである
その自然と一体化して人間の精神も形成されたということがある
平城となるとあまり魅力を感じない、会津の城はあれだけ歴史があっても何か新しくして博物館のように見えるのである、歴史をあまり感じないのである
ただもし会津が山が多いのだから山城があれば魅力を感じるのである
そこでその山城の物語として次のようなものが津川に残っている
その昔、津川城主が病になった時、治療のために、山の麓にある温泉をくんで、城内で湯治をすることとなった。
この温泉の運搬を命じられたのは蔦丸という小姓だった。
蔦丸は毎日、城主のために麓から城まで、湯を運んだ。そのおかげか、城主の身体はよくなっていった。
ある日蔦丸が湯をくんでいると、同じように湯をくむ美しい娘がいることに気づいた。 娘の名前はお鶴。母の病気を直すために、毎日お湯をくみにくるのだった。
二人は、毎日顔を合わせ話しているうちに恋仲となった。それが理由で蔦丸の帰りが遅れがちになった。
このことが城内に知られ、起こった城主は蔦丸を、頂上近くの石牢に監禁した。
それを知らぬお鶴は、湯をくみにきては蔦丸を待っていたが、蔦丸の姿は見えない。湯をくみに城からやってきた武士に、そのことを聞くと、蔦丸が石牢に監禁されているということを知った。
それを知らぬお鶴は、湯をくみにきては蔦丸を待っていたが、蔦丸の姿は見えない。湯をくみに城からやってきた武士に、そのことを聞くと、蔦丸が石牢に監禁されているということを知った。
その悲しみに不幸はさらに重なり、お鶴の母親が看病の甲斐なく亡くなった。
お鶴は母を失い、恋人が監禁されていることを悲しんでいたが、ある日、蔦丸を助けようと、断崖をよじ登り、蔦丸のいる石牢を目指した。
しかし、願いは叶わず、落石とともに転落して命を落とした。
石牢で、この悲鳴をきいた蔦丸は、絶望し、お鶴の後を追って死んだ。
この二人の死に、神様も悲しんだのか、大洪水が起こった。
このため、常浪川の流れが変わり、わずかに川底が沼になって残った。人々は、その沼を「お鶴ヶ沼」と呼ぶようになり、今に残っている。
湯を運ぶというとき山城だから坂をのぼる、食料でも運ぶのに上る
それが苦しい労働にもなる、温泉の湯は薬ともなるからわざわざ運んだとなる
これは伝説でも事実があり語られた、何かしら事実があって伝説がある
これは山城だから起きた伝説だともなる、平城だったら起きないだろう
侍同士の主従関係の絆はあったがこうしてその下々の者を手荒く扱うの一面としてあっただから会津では明治維新で会津の城が燃えていても関与せずかえってこれまでの不満が爆発してヤーヤー一揆が起きた
ただ山城でも城に積極的に食糧を運んで庶民でも危険な時城に逃げたとかあり一様ではない
この金山城は戦国時代が終わっても一国一城になっても残っていて住んでいた侍がいた
それで庶民と侍はここで一体化して協力していたからだという人もいる
何か人間的つながりがありそうなったとみている
金山城には何かこうした伝説でも残っているのか?その辺がものたりないとなるが相馬氏が最初に作った城であり次に伊達藩の城となった、それが境の城だからそうなったのである
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