2021年04月17日

郷土史の問題―岩松氏の悲劇 (郷土の悪いことが語れない、田舎では何代も悪行した子孫が生きている)


郷土史の問題―岩松氏の悲劇

(郷土の悪いことが語れない、田舎では何代も悪行した子孫が生きている)

田舎だと二代三代くらいでも死んだ親とか祖父母とかのことが身近に語られる
あの人はあそこの家の子どもでどうだとか語られる
いい面としてはその親に世話になったとかつづきその子が見られることである
悪い面は一旦悪いことをしたりするとその子孫がやはり同じ場所に生きているから
その子供がその家の人を恨むとなる
恨みがその子孫に残されて継続されるのである

私自身の家がそうだった、わずかな土地だが奪われた、それほど問題でもないとなるが
私の家族はそのことをひどく恨みに思っていていつも言っていたのである
その人は同じ組でもある、その家は今でも評判が悪いのである
だから私自身もそのことがありその家を良く思っていない、でももう当事者は死んだのだからそんなのにこだわるのはどうかとなるがやはり身近にその子孫がいれば恨みが継続される、そういうことで田舎では悪いことをしにくいということがある
村のような狭い場所でみんなが知り合いのような場所とかまるで村自体が同じ姓であり親戚になっているような村もある
そういう村では悪いことはしにくいのである
日本人が比較的悪いことをしない、治安がいいというのはそういう村で生活して来たからだと思う

例えば外国で大陸となるととんでもない広い地域で生活していて領土でも奪い合い、戦争が多い、そこでどうしても戦争に勝った者が支配者になる、階級制が生まれる
奴隷が普通にいるのは異民族同士の戦いで負けた者が奴隷になるからである
そういう社会では厳格な階級制が生まれる、それは歴史として今でも継続されている
本当に民族皆殺しのようなことが行われるのが異民族同士の戦争だった
だから奴隷として活かされるのは人道的な進歩だったというのは意外なのである
なぜなら戦争に負ければみな殺しにされたからである
日本のように戦争でも敵味方塚とか両方を供養することなどありえないのである
それで中国人は敵の墓を暴いてもまで死人まで罰している、刑罰を与える

日本人のアイディンティティというのは500人くらいの村で形成されたのである
だから話せばわかるとか腹でわかるとか複雑な法律などなくても仲裁して平和を保ち生活していた、つまり狭い村とかなるとみんな親戚のようになり争いはできない
親がそうして悪いことをするとその子孫も恨む、その家系が残っているとそうなる
大陸では移動が激しいからその土地から別な土地に移るから忘れられるとなる
そういうことはアメリカとかでもあれだけ広い土地だと移動すればいいとなる
今でもアメリカ人は一定の土地にいつまでも住み続けることがなく移動する
つまり遊牧民的な生活形態になる

具体的な例としてこの辺で有名なの岩松氏の悲劇である、一族がその家臣によってみな殺しにされた、稚児まで殺された、それは余りにも残虐なので歴史に残った
語られつづけた、外部の人たちもそのことをひどいとして知られたのである

ところが鎌倉時代の500年前に起きたことでもその子孫が生きている

その姓を見ればわかる、ある人の家臣の姓は何か祟りがあるとかで変えたのである
それは明確に歴史に残っている、文書として残っている
だからその子孫が生きているということはその残虐に主君を殺したということが今でもわかる、その四人の家臣の子孫はこの土地に生き続けているからだ
ところが相馬地域全体でも岩松という姓はたたれない、つまりそれが歴史の事実を証明しているのだ、その子孫はみな殺された途絶えたからである
だから実際はその子孫がいないのだからここで恨むということはないが歴史的にあまりに人いということで伝説ともなり文書にも記され継続されている
その菩提も墓も寺にある

500年も田舎で生々しいものとしてそうした事実が残るということである
それで田舎では何か歴史の真実が語りににくいとなる、なぜならその子孫が現に生きているとなるとそういうことはなかったことにしてもらいたいとその子孫は500年も過ぎたら思うからである、でもその歴史の現実を消すことはできないのである
ただ津波でこの辺で400人溺死したいうことは相馬藩政記に二行だけ記されていたがそれが知られたのは津波の被害があってからだった
岩松氏の悲劇はその百年前でもあった、その悲劇も伝えられるべきだったが二行しか記されず忘れられていたのである
だからこの事実がいかに重いものとして語られたかわかる

何かこういうことで狭い村とか田舎では田舎の悪いことは語りにくい、郷土史がつまらないのは悪人がいないからだという人もいた
郷土史ではそういう事実があってもいいことしか語られない、田舎の人はみんないい人であり悪い面は語りにくい、それで現実が反映されないものとなりただ田舎はいい人しかいない、悪い人もいるのに語られないのである
それで郷土史というのはただきれいごとであり人間の現実の生々しことが語られないのでつまらないという指摘している人がいた

確かに自分の経験でもそうである、郷土史はきれいごとで終わり生々しい現実が反映されない、また今回の地元の悪いことを自分は書いてきた
でもこれでも地元の人たちにとってはいい感じはしないのである
たいがい地元の悪いことを書いたのは外部の人たちだったからである
補償金のこととか漁業組合だけが原発前も事故後も多額の補償金をもらっていたのであるそれからいかに補償金をもらうためだけで団結するかしかなくあとはその補償金でギャンブルとかで遊んでいたことなどを書かない、書いていたのは外部の人だった
内部の人は書きにくいのである、私はあえて書いたのである
それは自分は30キロ圏外でありそれほど補償金をもらっていないから書けたとなる
でも30キロ内になると三倍もらっているから黙認したともなる

何か人間は悪に興味をもっている、みんな善人ですよとなると物語としてつまらないとなることも確かである、悪人がいて善人がいるから面白いとなる
それでテレビドラマの必殺仕事人はその悪人が征伐することで快感を覚えるのである
郷土史には何かそういう生々しい悪は語りにくい、でも人間だから田舎でもそういう悪人でもいた、でも語りにくいのである
だからきれいごとで終わり真実がないから郷土史はつまらないというのもわかるのである

岩松氏の悲劇の伝説(姓の意味するもの)

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