2021年04月21日

エコノミーの原点は家政 (人間は家を中心にして世界をみる)


エコノミーの原点は家政

(人間は家を中心にして世界をみる)

オイコノミアは「オイコス」(Oikos)と「ノモイ」(Nemu)という2つの言葉が一つになった言葉です。オイコスは家庭、ノモイは法律やルール、規則といった意味があります。そこから、オイコノミアは家の管理や家政を指すようになりました。後年にはエコノミーに、国家を意味する「ポリティカル」(Political)という言葉を加えたポリティカルエコノミーという言葉が登場します。

経済の語源がエコノミーが家政だった、いかに家をきりもりするかが経済の原点だった
人間の生活はいろいろあるが基本的に家とか家族とかから波及したものとしてある
人間の原点は家にあり家族にありだからエコノミーでも家政だとなる

とにかく家を切り盛りすることが一仕事でありそれを上手にこなすことは相当なスキルも必要になる
自分のそれを具体的に感じたのは家族を介護するようになってからである
全部家のことをやることを強いられたからである
これまで家族が三人だったが二人は女性で自分の世話をしてくれたし家事もしないし家のこともしていない、だから楽だったのである
それが全部一手に一人でやるようになり家事にはいろいろあるし労力もかかると思った
それは介護を終わってもそうなのである

家があり庭がある、それが家庭だとなるが庭でも花を見たりして水をやるだけでも手間になる、花というのは庭に植えたりすると水をやったり肥料をやったりそのままに放っておけないのである、ただ牡丹だけは放っておいても何十年も同じ場所に咲いているのは不思議である
こうなっていると楽である、一旦今までの花は枯れて切った
でも同じ場所に種が落ちてまた咲いたのである、こんなに継続して咲く理由がわからない他の花は咲かなくなっているのが多いからである
ただ地中に深く根をはったものはやはり咲いている、それは木の花なのである

家を維持するには常に家でも庭でも目配りしている必要がある
あそこに一つの花が咲きまた他にも花が咲いている、それに肥料などやらなくても目配りしている、そこに花が咲いてることを確認することが必要である
だからそうして何もしないで花を見ているだけでも時間をとられるのである
家全体でも特に地震で傷んだ場所がありそれもまだ直していない、十年前の震災のまま壊れたままなのである、その修理を頼んだ今はそういう大工さんはいないから困る
金にならないからやめたとも言っているからである
それで今度は自分自身で日曜大工のようにやれることをしなければならない、これも手間なのである、ただこれは電器製品のように全く何もできないとはならない
それなりに自分自身でもできるものなのである

いづれにしろ家を一人で切り盛りすることは手間だと思った
家が大きいこともある、すると掃除も大変になり汚れたままになっている
そして家はこうしてなにかかにかすることがあり目配りしていなければならない
だからなんか家に使われている感じにもなる
アパートのようだと狭いから一時的な仮住まいのようになるが大きな家は住んでいい面もあるが負担にもなる
ただ人間と家は一体化する、家を活かすのは人間であり人間が住まない家は荒廃してゆくそして空家は幽霊屋敷のようになる、そういう家が増えている、全国で800万軒も空家となる時代である

家は常に目配りして活きてくる、そして人間が目配りできるのは家と庭くらいでその外になるとなかなか目配りできない、内と外があり家が内であり外になると目配りもできない何か人間というのは本質的にそういう生き物なのかもしれない
自分の家だったら目配りして気を使うが家の外になると無関心になってしまう
人間の関心がもてる範囲は狭い、隣すら目配りしない、関心をもつのは狭い家の中だけだとなる、人間はそういう利己的な存在だからエコノミーが実は家政だったとなる

それでグロ−バル化した広域化した経済というのは人間から離れたものとなる
家の外すら目配りできないのに世界となればもう自分自身の関心事とはならない
ただ何か外国と問題が起きたとき関心をもつ、また物でも何か物が入らなくなったら関心をもつ、バナナが入らなくなって困ったとかなる
それ意外は日常的には関心をもてないのである
それは全く自分の手の及ばない世界だとなってしまう、だからグロ−バル経済というのは家の範囲くらいしかじかに目配りできないのだからもうどうなっているのか理解できないのである、株でも何でももう理解できない、だから株でもギャンブルになる
それは機関投資家でもそうなのである、ただ当たりはずれがありそれはギャンブルになっているのだ
もしエコノミーが家政からはじまったときそんなことありえないからである

目配りできる範囲が家と庭くらいである、そこで自分自身が直接目配りできる範囲であり直接愛情をそそぐことができる世界である
それだけ人間の目配りできる直接関与できる範囲が狭いとなる
その他は何か抽象的なものになる、out of sightになってしまうのである
家にしても自分が住んでいる家だからこそ愛着があり所有する意味がある
でも他人の家となると何か無関係になる
そういうふうに人間は本来利己的であり目配りできる愛情をそそぐにしても狭い範囲でしかできないのである
だからグロ−バル経済とはエコノミーからすると全く想像も絶する経済規模でありもうそこには人間の心を通わせることは不可能なのである
そもそも自分の家と庭くらいしか目配りして愛情をそそぐ範囲だからである
その他は抽象的なになってしまうのである
だからこそ人間は家族単位が基本にある、そこで愛情でも培われる
広い範囲だとまた多人数だと愛情をはぐくむことができないからである

経済とはエコノミーのはじまりは家であり家計だったのである
家族単位のものでありそこが経済の原点だったのである
本当に家をやりくりすることは金銭的にもあるし家を維持するためにすることがいろいろあるからそうなる
それで自分自身が家族の介護からそのあとでも家政に追われているのである  

夫である里長は行政上の役割を負って郡衙に出向くことが多く、それに対して妻である里刀自は家を支配する主婦の尊称であったと同様に、里を統率する里長の妻は里刀自と尊称された」とみる
女性が農業労働力として大きな比重を占めたこと、農業経営・管理に従事していたことを認めながらも、 

家は人間関係としての家族、 「ヤケ」は経営拠点を意味する日本語である。 「イヘ」という語で表された古代の家族
吉田孝氏が解明したように、古代日本語の「イヘ」と「ヤケ」の双方を表記する文字として採用された。 

「刀自」からみた日本古代社会のジェンダー
――村と宮廷における婚姻・経営・政治的地位――
義江明子

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家刀自と里刀自かあり刀自とはとりしまるとか戸主とかからきている、とじるというときとりしきるが語源かもしれない、この刀自は単なる一家の妻ではなく共同経営者でもあり自立的女性の経営者とも考察している
そもそも日本の天皇の基が天照大神であり女性なのである
日本では女性が大きな力をもっていた、それは経済的にも夫に従属する社会と違っていたからである
だから刀自というのは何か家から発したとしても里刀自とかなり里をとりしきる役目となる、村の中で人を統率する大きな力をもった女性だったとなる

真木柱(まけはしら)頌めて造れる殿のごといませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず(坂田部首麻呂)

家と母か一体化した歌である、家というのはそれだけ人間と一体化するのである
だから前にも書いたが死者は家にいるともなる
母刀自こそが真木柱のように家を支えていたとなる
人間と家は一体化してアイディンティティ化してそうなる、嫁が女+家なのである
それで嫁とならない女性に何か存在感がないのである
アパートとかに住んでいると何か存在感がないのである

ともかく人間の目配りできるは狭い範囲である、その基本となるのが家なのである、その延長として公ュオやけょとなったり拡大してゆく、だから家刀自と里刀自となる、里と言ってもそれは家の延長した拡大したものてある
公(おおやけ)とは大きな家のことからである、一つの家が拡大したものが公となったことでもわかる
その範囲は目配りできる範囲なのである、それがグロ−バル経済とかなる目配りどころではない
それは全く視界の外になり抽象的なものとなりそこではもう人間の心は通じない世界になっているのである
物と心が完全に分離した世界である、ものというときモノが憑くとかにり心と一体化したもが物だったがそれが全く心と分離した物となることが問題のである、そこで異常化した経済となる、世界市場とかなるともう誰もそれを知ることはできない
そこで突然の経済破綻が起きたりする、もう統制できない、目配りもできないあまりにも広い範囲になったからである


posted by 老鶯 at 21:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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