2021年04月29日

阿武隈川船運の論文を読む (石巻の寒風沢から船を代えて江戸に運ぶ)


阿武隈川船運の論文を読む

(石巻の寒風沢から船を代えて江戸に運ぶ)

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それによると'阿武隈川水系には亘理( 現宮城県亘理郡( 7 艘)
丸森町) 、川張( 同)( =高野壱岐守分)に五艘、ある程度利用されていたことが確かめられるのである。
慶長五年の時点で既に仙台藩領内の藩米輸送に阿武隈川舟運があった
慶長五年の時点で既に仙台藩領内の藩米輸送に阿武隈川舟運が開始されていた

天和二( 一 六八二)年八月'江戸の商人で福島に店を持つ 商人上総屋
荒浜の武者宗三とが伊具郡耕野村( 現宮城県伊具郡丸森町)の改修しなければならなかっ たのであろう。
 旦水害が起こると'再び通航不可能となってその都度改修しな
修を行っている。藩境付近の難所は'一 応友以らによって開整されたち

阿武隈川の下流と上流それぞれの舟運の性格の相違は、ほぽこの二点
こうした地域的特性によるところが大きいのは事実である。
各々の舟運発展における格差は、は米不足に悩む幕府が信連両郡を天領とすることにより、その産米を城れたからであろうし、寛文年間、下流において舟運が急速に発展したの
は、滝や急流等の航路障害の為に領主米廻漕には利用できないと考えら
二百年以上の開きがあるが、上流で近世初期に舟運が行われなかったのに集約されるであろう。

又、 城米を江戸へ 廻漕する際の積み換えについては' 「 文化十二年御廻( 6 3 )れられた米は'小廻船( 一 五浜の蔵に入れられる。ここでは出役の浦役人が受け止める。更に蔵に入た米は、水沢・ 沼ノ上で 肺船に積み換えられ'肺船で荒浜迄運ばれ'荒する詳細な説明がある。まず'信連地方の諸河岸から小鵜飼船に積まれ米拘仕方」に、水沢・ 荒浜・ 寒風沢での積み換えの際の請払の手順に関
〇 0二三〇石程度を積む)に積まれ'寒風沢(さぶさわ)溜所があり'ここで俵検査を外海用の元船に積まれるのである

安永八年「 風土記御用書出」によれば'阿武隈川沿岸には'藩の穀蔵( 6 7 )( 6 8 )( 6 9 )が岩沼郷藤場に五棟'荒浜に十三棟'雑穀蔵が伊具郡尾山村に五棟、同( 7 0 )( 7 1 )
館山村に五棟'城米蔵が同耕野村に一 棟あっ た。
れは'正徳元年十二月'伊具郡金山郷の領主中島氏の迄の間、藤場穀蔵を1 時借り受けたいと願い出たものである。
蔵で引渡されるという取引であり'大文字屋の指配で江戸へ 出荷される 

近世舟運の研究
-阿武隈川舟運の開始と展開ー斎藤賢之

(リンクできないがこの題でインタ−ネットで読める)


阿武隈川に船運があった、それも慶長5年とかから始まったとすると古い
江戸時代の前だからである、福島市の板倉藩に属してそこに蔵があり船着き場があった
ただ二本松の方へは船で通れない難所があった
そこは東和町に行った時見た、滝になっていて段差がありとても船は通れない
だから船運は福島市から下流に向かう地域、丸森とか岩沼とかに港があった
特に岩沼に船を扱う人たちが集中していたのも地理からわかる
阿武隈川は丸森までくると川幅が広くなり海に向かっていることがイメージできる
海が近いのである、岩沼になれば特にそうである

ただ荒浜から直接荷物が米でも運ばれたのではない、一旦塩釜の寒風沢(さべさわ)によってそこで外洋に行ける船に変えて荷物を積みこんだ
江戸まで行く大きな船がなかったからそうなった、でも荒浜から塩釜までは遠いともなる運河があったにしてもそれを利用したより小型の船で塩釜まで行ったとなる
塩釜とか石巻からは伊達藩が江戸に大量に米を送っていたからだ
そして太平洋をわたりメキシコ経由で欧州にまで伊達政宗は派遣していたからだ
それだけの造船技術があった、それはスペインのキリスト教徒がいて技術を伝播したからできたともされる

船運でも川をそのまま日本では行けない、途中に難所があり通れないとなり工事が必要になる、外国だったら川は運河と同じであり急流とかないし船運が発達して都市間の交通網ができて商人のハンザ同盟とかできた、それは川が運河の役割りを果たしたからである
日本ではそうした川がない、海が交通路になってもその海は大平洋だと荒いから発達しなかったのである、日本海だと北前船の交通路ができた、冬をのぞいて穏やかだからである
何か私はこれだけ旅しているのだから交通に興味をもつようになった
寒風沢にも行った、塩釜の入江の入り口にある島である
たいがい日本なら実地に行ってからイメージできるのである
でも一旦塩釜の方に行くのは難儀である、でも造船技術がなかったらそこまで行くほかないとなる、だから船運というのは交通は大きな役割を担うのである
金山城がある所からも

伊具郡金山郷の領主中島氏の迄の間、藤場穀蔵(岩沼)を一時借り受けたいと願い出たものである。

中島氏というのは筆甫にも墓があり有力な氏族でありそれが船運にかかわっていたとなる船運にかかわることはそこで農業以外でも仕事ができて収入になる
それは経済的にも重要なことである、なぜなら農業だけの収入では限られているからである、積み荷も最初は米だったがそのあとは米以外の商品になった
つまりそこで商品として売れるものを作り収入でも増えるとなる
つまりか船運が発達すれば商品化する作物でも作ることになる
もともと伊達藩では江戸に米を送るために石巻に大きな港を作り伊達藩の米は商品化していたのである、そきために米がとれない飢饉になったとき他の作物がとれなくなったのが飢饉の要因だったとしている
それはグロ−バル経済の中で起きている、コーヒーばかり作っている国では他の作物がとれない、するとコーヒーが売れなくなると値段が下がったりすると影響が大きくなる
地元ではコーヒーしか作っていないからである
そういうふうにグロ−バル経済の危険はその土地土地でとれるものをもっていないとそうなる

それで大張とか耕野とかに迷って今回入ったがそこでも船をもっていて船運に関係していた、ということはなんらか山仕事農業だけではない仕事がもてたともなる
川張でも一掃船を所有していたとか書いてあるからだ
どうしても川が長いと中継地点が必要になる、それが川の港なのである
最上川でもそういう川の駅のような所があった、ただそこは秋で虫が鳴いているだけで
何もなかった
川張りとか阿武隈沿いに兜の渡しとかあった、そういえば阿武隈川のように川幅が広いと橋をかけることができない、そこで渡しが生まれた
そして橋は頑丈なものが作れないので流されやすいのである
そこで八島屋という店がありそこは結構高い場所だが去年の台風で被害があった
水がその店の高い所まで来ていたのである 

それで一部被害があったがインタ−ネットで寄付を集めて修復したとある
あれだけこ高くても水があふれて入ってきた
そこはやはり川幅が狭い場所だったからあふれたのである
丸森の街の方では川幅が広くなるからあふれることはなかった
あふれたのは山の方からの支流だったのである
ともかく去年の台風の被害は思った以上大きかった
いたるところ相馬地域でも道が崩れて未だに直されていない、交通止めになったままなのである、ただ阿武隈沿いの道は直していた、でも新しい道はトンネルが多かった
ずいぶん前に通ったが記憶がないが何か細い道がつづいてトンネルはなかったように記憶する,道も絶えず変化しているからわからなくなる
大型のトラックも通れたのかとも見た、やはり道は改善している 

私は地理とか交通に興味をもったのはこれだけ旅したからである、当然旅は地理とか交通と一番深く関係しているからだ
地理はやはり地図見ただけではわからない、実地にそこに行かない限りわからないのである
だから外国もある程度旅したから地理をわかる範囲が増えた
それがいいのは外国と日本を比べたりできるからである、それで日本を知る人は実は外国で実際に住んでいた人たちなのである
つまりそういう経験は日本を比較して良く見えるようになるからだ
それは地理でもそうである、外国の河と日本の河はまるで違っているからだ
第一世界の四大文明の発祥地が大河の側で生まれたというときもそうである
その大河が日本にはないから根本的に外国を理解できないものにしている




                                                                    

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