菜の花の俳句(外国でも菜の花が咲いていた)
ギリシャのドルフィ神殿
菜の花や油乏しき小家がち 安永2(1773)
なの花や昼一しきり海の音 安永3(1774)
なのはなや筍見ゆる小風呂敷
蕪村
菜の花に かこち顔なる 蛙哉
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
菜の花の 盛りに一夜 啼く田螺(たにし)
菜の花に かこち顔なる 蛙哉
(一茶)
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 野末に低し 天王寺
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
(正岡子規)
中には「油成金」のような人も居たかもしれない。その人たちにとって菜の花は単にその景観ばかりでなく、実質的にも富をもたらす特別な存在として意識されていたはずであるhttp://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/buson/NanohanaBuson3.html
郷土史家若林泰氏はその著書の中で、
……紀州出身の田林勝右衛門が享保15年(1730年)に油水車12輌の取立てを許され、同享保20年(1735年)に菟原郡五毛村・治助、原田村・善十郎によって油水車5輌の完成をみたのが、「水車稼一業の村方」水車新田の始まりである……
と記述している。つまり水車専業の稼ぎをした農民のことである
https://ameblo.jp/motoyamakitamachi/entry-12550326894.html
菜の花に遺跡うもれてギリシャかな
菜の花やギリシャの島にロバ休む
菜の花や小舟に豚運ぶ運河かな
菜の花や運河の長く尽きじかな
船行くや菜の花うもる島一つ(瀬戸内海)
菜の花のイメージは何か庶民的なことではないか?
ただ菜の花の種が菜種油として利用されて大阪の方で財を成した人がいてそれで蕪村は
その成金に受けるように菜の花の俳句を作ったというのは違うだろう
菜の花でうもれていて油がとれてもそこに住む農民は油が不足していたからである
当時の油は相当に貴重だったからである、爪に火を点すとかもそうである
パトロンが金持ちになっても蕪村は小家に注目していた、商人の邸宅とは違う貧しい小家である、それもそれだけ菜の花に囲まれていてもそこに住む農民は大方貧しかった,筍を大事に小風呂敷につつんでもってゆく姿もそうである
ただ菜の花は今のように無用のものではない、暮らしの中で金になるし生活があった
ただ鑑賞しているのとは違っていた
人間の生活が生業として菜の花でも実用となっているとき見方が違ってくる
菜の花という時、何か庶民的な花なのである、なぜなら一面に黄色にそめるからである
一つ一つではない、薔薇だと高貴な花とかなるが菜の花は庶民のように平民のように大地をそめる、そこに一つ一つの花として見ないからである
この菜の花は外国でも咲いている
それをギリシャで見たのは意外だった、ドルフィの遺跡とかでも菜の花にうまっていた平地でも菜の花に埋まっていた、それは何かギリシャだと文明発祥の地として見ていたから意外だった、それだけ自分は外国には疎かったのである
学問の発祥地でもあるギリシャが本当に田舎だったことの不思議である
羊とかロバがいてあとは遺跡だけでありそこに先進的な文明はなくなっていた
ギリシャでは工業製品など作れない、売り物となっているのは遺跡であり観光だけなのである、現代の発展からは取り残された国でありそれがかえって牧歌的ともなっていたのである
菜の花の思い出では中国に行った時、運河を豚をのせた小舟が行く、農民がのっていた、それも奇妙な光景だった、そしてもう大地一面が菜の花だったのであるそれはスケールが違っていたとなる
それで阿武隈川の岸辺に菜の花が咲いていたのでその中国の光景を思い出したのである
足立惣蔵作、漢詩「野沢菜の花(のざわなのはな)」
。
(書き下し文)
長江の沿岸 漸く春装 ちょうこうのえんがん ようやくしゅんそう
忽ち菜花開いて 純黄に輝く たちまちさいかひらいて じゅんこうにかがやく
美を競う花中 異彩を呈す びをきそふかちゅう いさいをていす
鮮なり 色沢の 斜陽に映ずるは せんなり しきたくの しゃようにえいずるは
ここの長江は千曲川である、私が出した阿武隈川の岸辺の写真のような風景である
ただもっと菜の花でうめられいたのだろう
今は菜の花は実用ではないから一面に菜の花の風景は見ない
謂れある古き桜に菜の花の段々畑や筆甫の里
菜の花はどこでも咲いているが一部である、それは実用ではなくなったからである
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
正岡子規
菜の花にタニシとか蛙が鳴くとか西の京とか都を離れた土地に菜の花が映える、そういうのが菜の花である、庶民的であうり平民の花だとなる
つまり平民の花であり人間は大方貴族でもない、平民であり菜の花に埋もれるというとき平民の世界なのである、ただ平民でも庶民でも群衆とは違う、群衆とか大衆は何か人間ではない、異様な集団であり今までにない集団の表象なのである
何か異様なものであり異常なものでありそれがナチスとかイメージするようになった
それは現代文明から生まれた異様な異常な集団である
江戸時代とかなると菜の花があっていた時代である、侍の時代でも周りは庶民と平民と農民の社会だったからである
ただほんの一部が財を成した商人だったともなる
菜の花にうまり小家の中に人は住んでいたからである
いづれにしろ時代が変わるとその風景でも見方が感じ方が違ってくる
だから時代を読むことが必要なのだがそれが一番むずかしいのである
同じ風景を見ても時代により感じ方が違ってくるからだ
でも江戸時代でその時代を知ることは容易ではない、やはりそこに明治のような大きな変化がないからである、だから江戸時代は何か時代の変化もなく同じように見えるのである
菜の花に変化少なき江戸時代
やはり菜の花の光景がありそれは変わらなかった
現代はもう変わりすぎる、津波や原発事故で風景まで変わった
松原は消失したり村自体がいくつも消失したり変わりすぎたのである
だから菜の花といっても江戸時代に見ていた菜の花とは余りにも違うのである
まず車社会になると菜の花でもあわない、馬車でも行けば菜の花がにおいあっているとなる
つまり現代は自然の風景にとけこむような生活をしていないからそうなる
それで人は疲れているのである、何かなごむ風景がないのである
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
都の都会の喧騒を離れて群衆を離れて菜の花を見る、まさにこれは現代に通じている
ただ当時の都は今とは全然違う、むしろ都の方にあこがれる
都こそ必要なものだったともなる、ともかく菜の花は何か心いやすものがある
心をやわらげるものがある、大河がゆうゆうと流れその広い岸辺に咲いているのがふさわしかったとなる
インタ−ネットではこうして編集して自分なりに読む必要がある
編集は今まで出版社でしていた
これから個々人の個性でインタ−ネットを読む、編集して読むことになる
検索するとそれなりのものが出て来るからアレンジしやすいのである
「菜の花」というキーワードで探せるからである
菜の花や蔵王の映えて川広し
菜の花や阿武隈川のとうとうと流れてその岸広く映えしも
あの光景が印象に残る、電車からいつも見ていたがやはり川の側に来て見るべきだった
電車からでも車からでも見る感じが違ってくるからだ
川の広さをその流れを感じるには川の側に立たないとわからないのである
川と一体化するにはやはりその川岸を歩いたりしないとわからないのである
いづれにしろ人間の最後は記憶したものが生きたことになる
だから旅でもいかに記憶に残る旅をができるかが問題になる
ただ記憶と記録は違っている、記憶は部分ではなく全体の雰囲気とかを記憶することである、写真をとったとしてもそれは部分なのである
こうして私が書けるのも記憶をたどり書いている、インタ−ネットで調べて自分の記憶とつなぐ、そういう回想する旅になる、でも記憶していないと書けないのである
見渡す限りの菜の花のじゅうたんと上海・蘇州・無錫 の旅
https://4travel.jp/travelogue/10662020
菜の花や油乏しき小家がち 安永2(1773)
なの花や昼一しきり海の音 安永3(1774)
なのはなや筍見ゆる小風呂敷
蕪村
菜の花に かこち顔なる 蛙哉
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
菜の花の 盛りに一夜 啼く田螺(たにし)
菜の花に かこち顔なる 蛙哉
(一茶)
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 野末に低し 天王寺
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
(正岡子規)
中には「油成金」のような人も居たかもしれない。その人たちにとって菜の花は単にその景観ばかりでなく、実質的にも富をもたらす特別な存在として意識されていたはずであるhttp://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/buson/NanohanaBuson3.html
郷土史家若林泰氏はその著書の中で、
……紀州出身の田林勝右衛門が享保15年(1730年)に油水車12輌の取立てを許され、同享保20年(1735年)に菟原郡五毛村・治助、原田村・善十郎によって油水車5輌の完成をみたのが、「水車稼一業の村方」水車新田の始まりである……
と記述している。つまり水車専業の稼ぎをした農民のことである
https://ameblo.jp/motoyamakitamachi/entry-12550326894.html
菜の花に遺跡うもれてギリシャかな
菜の花やギリシャの島にロバ休む
菜の花や小舟に豚運ぶ運河かな
菜の花や運河の長く尽きじかな
船行くや菜の花うもる島一つ(瀬戸内海)
菜の花のイメージは何か庶民的なことではないか?
ただ菜の花の種が菜種油として利用されて大阪の方で財を成した人がいてそれで蕪村は
その成金に受けるように菜の花の俳句を作ったというのは違うだろう
菜の花でうもれていて油がとれてもそこに住む農民は油が不足していたからである
当時の油は相当に貴重だったからである、爪に火を点すとかもそうである
パトロンが金持ちになっても蕪村は小家に注目していた、商人の邸宅とは違う貧しい小家である、それもそれだけ菜の花に囲まれていてもそこに住む農民は大方貧しかった,筍を大事に小風呂敷につつんでもってゆく姿もそうである
ただ菜の花は今のように無用のものではない、暮らしの中で金になるし生活があった
ただ鑑賞しているのとは違っていた
人間の生活が生業として菜の花でも実用となっているとき見方が違ってくる
菜の花という時、何か庶民的な花なのである、なぜなら一面に黄色にそめるからである
一つ一つではない、薔薇だと高貴な花とかなるが菜の花は庶民のように平民のように大地をそめる、そこに一つ一つの花として見ないからである
この菜の花は外国でも咲いている
それをギリシャで見たのは意外だった、ドルフィの遺跡とかでも菜の花にうまっていた平地でも菜の花に埋まっていた、それは何かギリシャだと文明発祥の地として見ていたから意外だった、それだけ自分は外国には疎かったのである
学問の発祥地でもあるギリシャが本当に田舎だったことの不思議である
羊とかロバがいてあとは遺跡だけでありそこに先進的な文明はなくなっていた
ギリシャでは工業製品など作れない、売り物となっているのは遺跡であり観光だけなのである、現代の発展からは取り残された国でありそれがかえって牧歌的ともなっていたのである
菜の花の思い出では中国に行った時、運河を豚をのせた小舟が行く、農民がのっていた、それも奇妙な光景だった、そしてもう大地一面が菜の花だったのであるそれはスケールが違っていたとなる
それで阿武隈川の岸辺に菜の花が咲いていたのでその中国の光景を思い出したのである
足立惣蔵作、漢詩「野沢菜の花(のざわなのはな)」
。
(書き下し文)
長江の沿岸 漸く春装 ちょうこうのえんがん ようやくしゅんそう
忽ち菜花開いて 純黄に輝く たちまちさいかひらいて じゅんこうにかがやく
美を競う花中 異彩を呈す びをきそふかちゅう いさいをていす
鮮なり 色沢の 斜陽に映ずるは せんなり しきたくの しゃようにえいずるは
ここの長江は千曲川である、私が出した阿武隈川の岸辺の写真のような風景である
ただもっと菜の花でうめられいたのだろう
今は菜の花は実用ではないから一面に菜の花の風景は見ない
謂れある古き桜に菜の花の段々畑や筆甫の里
菜の花はどこでも咲いているが一部である、それは実用ではなくなったからである
寺ありて 菜種咲くなり 西の京
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
正岡子規
菜の花にタニシとか蛙が鳴くとか西の京とか都を離れた土地に菜の花が映える、そういうのが菜の花である、庶民的であうり平民の花だとなる
つまり平民の花であり人間は大方貴族でもない、平民であり菜の花に埋もれるというとき平民の世界なのである、ただ平民でも庶民でも群衆とは違う、群衆とか大衆は何か人間ではない、異様な集団であり今までにない集団の表象なのである
何か異様なものであり異常なものでありそれがナチスとかイメージするようになった
それは現代文明から生まれた異様な異常な集団である
江戸時代とかなると菜の花があっていた時代である、侍の時代でも周りは庶民と平民と農民の社会だったからである
ただほんの一部が財を成した商人だったともなる
菜の花にうまり小家の中に人は住んでいたからである
いづれにしろ時代が変わるとその風景でも見方が感じ方が違ってくる
だから時代を読むことが必要なのだがそれが一番むずかしいのである
同じ風景を見ても時代により感じ方が違ってくるからだ
でも江戸時代でその時代を知ることは容易ではない、やはりそこに明治のような大きな変化がないからである、だから江戸時代は何か時代の変化もなく同じように見えるのである
菜の花に変化少なき江戸時代
やはり菜の花の光景がありそれは変わらなかった
現代はもう変わりすぎる、津波や原発事故で風景まで変わった
松原は消失したり村自体がいくつも消失したり変わりすぎたのである
だから菜の花といっても江戸時代に見ていた菜の花とは余りにも違うのである
まず車社会になると菜の花でもあわない、馬車でも行けば菜の花がにおいあっているとなる
つまり現代は自然の風景にとけこむような生活をしていないからそうなる
それで人は疲れているのである、何かなごむ風景がないのである
菜の花の 向ふに見ゆる 都かな
都の都会の喧騒を離れて群衆を離れて菜の花を見る、まさにこれは現代に通じている
ただ当時の都は今とは全然違う、むしろ都の方にあこがれる
都こそ必要なものだったともなる、ともかく菜の花は何か心いやすものがある
心をやわらげるものがある、大河がゆうゆうと流れその広い岸辺に咲いているのがふさわしかったとなる
インタ−ネットではこうして編集して自分なりに読む必要がある
編集は今まで出版社でしていた
これから個々人の個性でインタ−ネットを読む、編集して読むことになる
検索するとそれなりのものが出て来るからアレンジしやすいのである
「菜の花」というキーワードで探せるからである
菜の花や蔵王の映えて川広し
菜の花や阿武隈川のとうとうと流れてその岸広く映えしも
あの光景が印象に残る、電車からいつも見ていたがやはり川の側に来て見るべきだった
電車からでも車からでも見る感じが違ってくるからだ
川の広さをその流れを感じるには川の側に立たないとわからないのである
川と一体化するにはやはりその川岸を歩いたりしないとわからないのである
いづれにしろ人間の最後は記憶したものが生きたことになる
だから旅でもいかに記憶に残る旅をができるかが問題になる
ただ記憶と記録は違っている、記憶は部分ではなく全体の雰囲気とかを記憶することである、写真をとったとしてもそれは部分なのである
こうして私が書けるのも記憶をたどり書いている、インタ−ネットで調べて自分の記憶とつなぐ、そういう回想する旅になる、でも記憶していないと書けないのである
見渡す限りの菜の花のじゅうたんと上海・蘇州・無錫 の旅
https://4travel.jp/travelogue/10662020
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