2021年05月06日

数字に呪縛される現代文明 (放射線量でもコロナウィルスでも同じだった)


数字に呪縛される現代文明

(放射線量でもコロナウィルスでも同じだった)

健康診断の結果の数字で一喜一憂致しますが、存じ上げているお医者様に伺いますと、大きく変動がなければ少しの誤差はむしろ気にしない方が健康に良いそうです。


科学時代とかグロ−バル化とか広域社会とか何か社会の規模がこれだけ大きくなると常に数字が問題になる、人間はもう一人一人の人間などどうでもいい、頭数が問題であり人間は数字であり番号になる、それで議員すら病院で番号で呼ばれたと怒った
その政治自体が数で決まる、議員になるにも選挙でありどれだけ数を集めるかが最優先課題になる
それで田中首相は政治は金と数だと言ったのである
現実にそうなっているからである、その数はどんな人ても一票であり価値は平等である
一人が十票などもたないからである
その数の一人一人の中味など問わない、どんな人間でもいい同じ一票の価値だからである
現代社会はこうして常に数だけが問題になっている
だから一人など個人など政治家は相手にしない、いかにまとまった票を得るかが問題になる

宗教すら数である、何百万人を集めているカルト団体であるが社会で圧力となり権力となる
だから日夜祈り票を集めそれでさらに権力を増大させることを目的とするのが創価であれ他の宗教団体でも同じなのである
権力を得るために毎日祈り活動しているのである、そして毎日票を会員の数を数えるのが仕事なのである
つまり民主主義とは常に数で決まるからである
ただ選挙でも不正があり実際の選挙の勝ち負けは決まっているという人もいる
日本でもムサシという選挙を請け負う会社が操作しているという
だから実は数字も巧妙に操作されているから数字だけでは真実は見えないのである

民主主義が何か最高のものとして信奉するがアメリカでも選挙に不正があると騒いだ
確かにそれもありうる、実際は不透明なのである、だから何でも数だけで決めるのには限界があることがアメリカの大統領選挙で判明した
日本でも同じことが行われているという、それを請け負う会社がムサシとかがいてそうしているという、そこはマスコミで報道されないという
だからなぜ一パーセントの投票くらいで当選確実になるというのも不思議だとなる
実際はそういう報告がムサシとかの会社から報告されるからそうなる

とにかく現代は数字の世界てある、だからシュペングラーが数学から文明を解析した
数字というのがこれぼと幅をきかした時代はない、数学なしでは何も語れない時代だともなる、そうなると数学ができないものは相当に不利になる
貨幣というのも株でも常に数字が問題になる、グラフとかも数学の分野なのである
それで絶えずチャートのグラフを株をやる人は見ているのである
グロ−バル経済となるとその実体は誰もわからない、ただ数字として解析して読んで投資しているのである

そうなると逆に人間は数字にふりまわされ数字に一喜一憂するようになる
それはこの辺の原発事故で嫌というほど経験した
毎日放射線量を計る、それは機械で誰でも計れる、放射線は見えないのだから数字だけが目安となるからだ、数字によって恐怖して数字によって安堵する
でもこの数字も操作できる、モニタリングボストの放射線量は正確ではなかった
その下を掘って土をとったいたから低くなっていたのである
私がその近くの周りを計ったら倍あったからである
それをしていたのは飯館村などでは大成建設だったようである
他にもゼネコンが除染を請け負っていたからしていたとなる
まずモニタリングポストの放射線量はあてにならない
倍以上があると見ていた方がいい、飯館村では特にそうである、なぜなら特に飯館村では放射線量が高かったからである
ただ放射線量の場合素人でも機械があれば計れたから政府の権力でもごまかせないということがあった、素人の文系でも放射線量は計ることができたからである

とにかくこのように放射線量は素人で計れた、そして常に数字に左右され数字で恐怖して数字で安堵していたのである
武田邦彦氏は一ミリシーベルト男と揶揄されたのもそれを象徴している
コロナウィルスでも数字に左右され一喜一憂している
毎日何人感染したとかテレビで放送される、その数に釘づけになる
そしてわずかでも少ないとなにかほっとした感じになる
まるで数字の魔術にかかったようになる、千人越えたら大変だとかみんな見ている
そして数字にこだわると数学者が原発事故は確率論で百万年に一回しか起こらないと割り出したと言っていた、これも専門家が異常化することの見本だった
やはり確率論で対策しないと40万人死ぬと言った専門の学者もそうだった
かえって専門家はそういうことを平気で言うから専門馬鹿と言われる

ただここで疑問なのはどれだけの数を検査して本当にその数が恐怖すべきなのかその中味が良くわからないのである、ここでも放射線量のように政府で操作しているのではないかという疑問があるからだ、そんなに正確に割り出しているのか、その中味のことは良くわからない、ただ数字はわかりやすいからその数字の魔術にとらわれる
感染者でも百とか二百とか三百の差があったとしてそれがどれほど危険なのかもわからない、でも数字はすべての指標となる、それは経済とかでもそうである
数字を指標として見るからそうなる、個々の問題ではない、全体を見る時は必ず数字でみる、統計でみる、体でも血圧でも数字でみる、でも個々人で差があり数字がすべてではないとしている、多少高くでもその人にとってはかえって正常の標しだという医者もいる
つまり個々人で差があるから平均はありえないのである
数字で平均で見ることもまた実体からはなれたものになる

田舎だと確かに数が増えれば恐怖である、でもすぐ近くで感染者が出たとういことが恐怖になる、その家の窓ガラスが壊されて住めなくなって引っ越したとされるからだ
数の問題もあるが具体的に近くに一人でも感染者が出るのが恐怖になる
そこに具体性があり恐怖となる、東京のような大都会だと千人出たとしてもあれだけ数が多いのだから恐怖が希釈される、田舎だと隣に出たというとき一人でも恐怖になる
東京辺りだと一千万人もいるのだから誰が感染しているかもわからない
それで身近に感染した人がいないから恐怖を覚えないというのもわかる
やはり身近な人が感染すると恐怖を覚える、いくらテレビで千人感染したと放送しても
必ずしも具体的な恐怖とならないのである

ただ数字というとき津波の時がそうだった
テレビでNHKでも最初数メートルの津浪が来ると放送した
数メートルかそんなのたいしたことがない直感的に思った
でもそれは津波のことが知らなかったからである、そのあとに十メートルの津浪が来るという時驚いたのである、その時数字を知ることが生死を分けたともなる
なぜなら最初から津波のことを知っていたら数メートルでも危険となり避難したからだ
数メートルと最初に放送した時そんなものか逃げない人がいたからだ
その時危機感がなく逃げ遅れて死んだ人がかなりいたからである

こうしてとにかく数字に惑わされ数字に惑わされてきた、コロナウィルスでも同じだった毎日感染者の数字に一喜一憂している、でも数字と実体が乖離している場合がある
どこまで恐怖していいのか数字に惑わされて本当のことがわからなくなる
それはやはりコロナウィルスが未知だからそうなる
放射線でもそれも未知でありどこまで人間に影響するか明確ではなかったからどう判断していいかわからなかったから混乱した、今でもそうである
放射線被害は十年後二十年後ガンになるとか遺伝子が破壊されて子供に奇形が生まれるとか恐怖した、それで若い女性は脱出して帰らなくなったともなる

宗教でも罰あたるとか地獄に落ちるとかで呪縛される
現代は科学技術の社会だから数字に呪縛されている、数字が信仰されているともなる
ただそこにも落とし穴がある、すべてを数字では計れないのである
また数字は容易に操作されるからその実態を見えなくさせる
そしてだまされる、それは放射線量で原発事故でもそういうことがあったからである
数字は目安にはなっても絶対ではない、だから数字を絶対化することは危険なのである
でも現代はそうなりやすいのである、あらゆるものが数字を目安にして動くとなるとそうなる、そういうことがファシズムにもナチスのような全体主義になる
何故なら人間は一人一人血の通った別個のものではなく、ただ数字として計られる
その時人間は抽象的数字となり処理される
結果的にガス室に送られた人々はただ数字として処理されたともなる

人間を数字化したときすでに非人間化社会となっていたともなる
抽象的なものとして人間をみるようになったからである
社会が拡大してさらにグロ−バル化すればもう人間が直接接する世界ではない
ただ数として世界をみる、そこにもう人間は見えない、見えるのはモノと数だけだとなってしまう、精神と物はここで乖離する
だから人間を回復するとなるとそのサイズが問題になる
国(くに)というときそもそも日本とかの大きな国ではない、小さな国である
里とか村単位くらいの国があったとなる、小国がそうである
そういう狭い地域が国として意識された場だったとなる

そこでは一人一人が個々が見えて国を造っていたとなる
老子の小国寡民もそうである、大きな国が理想の国とはなりえないと見ていたからである数で計られるようなことがなかった、一人一人の顔があり密接に結び合った社会である
そういう場所が本来の国だったともなる
そして物量とか人の数とかからは文化は生まれない、その国から国土から文化は生まれるそれで飯館村とか丸森町とかなるとそこが一つの国として意識しやすいのである
日本の場合山が多くて森も多いからそういう場所で一つの国となり小国であり隠されていたともなる、そこは自給自足で成り立ち自立していたとなる
そういう所だと数としてみることはない、一本一本の木でも石でも数としてあるのではない、みんな形も違っているとか個性がある木とか石になる

今日も感染者東京で600人だとか安心する、でも完全に安心の数ではないとか指摘される
だから本当にこうして毎日感染者の数で一喜一憂することが正しいのか疑問なのである
検査数だって外国のようにしていないしその実体は不明なのである
つまりこの数ももしかしたら操作されている、そして数に呪縛される
結局人間の感覚はやはりじかに友達でも会社でもどこでもいいから身近に感染者と接したという時実感する、数とかでは実感しないのである
これは放射線量のように素人でもじかに計れないことが問題なのである
そうなると調べようがないから常に数で不安になる、放射線でも見えない敵と戦っていたコロナウィルスも見えない敵でありこれと戦っている、でも数がすべてでないし数に呪縛されるのは問題である、でも死者の数とかは確実な目安になる
でもこの死者もコロナウィルスで死んだと限らない、別な病気でもコロナウィルスで死んだとされるからである、こうして不可解なものとなり不安だけが増幅するのである

ダビデが兵隊の数とか人口調査をした結果神から罰せられた
その罰が疫病だったのである、

 ダビデが選んだのは第三の罰、三日間の疫病でした。これは三つの内で一番期間が短いから、いちばん軽い罰をダビデは選んだのだ、とは言えません。疫病で死んだ人は七万人に及んだと15節にあります。期間は短くとも、これは相当に過酷な罰なのです。ダビデが敢えてそれを選んだ理由は、

ここに疫病が人口調査と兵隊の数を数えた罰としたことが書かれている
そして神に祈って疫病が消えたとされる
だからコロナウィルスも神からの罰だったのかともなる
七万人死んだということは人口比率にすると相当な恐怖である
小国で七万人となると七十万人とかになるかもしれない
また原発事故も神からの罰として起きたのかともなる
この疫病は特定の国ではない、人類的災禍であり人類に課せられた罰なのかともなる
何か津波であれ原発事故であれコロナウィルスであれ私の一身上に起きた災いも神からの罰だったのかともなる
カルマだったことは確かである、ただカルマはどんな家にもあり個々人にもあるから必ずカルマの清算を強いられる

確かなことは原発利権者への罰、オリンピックの中止はその利権者の罰、何か神が罰としてそうしたのかとなる
これらは深く利権がかかわりオリッピックでも国民が望んでいないのに利権者がいて強行される面があるからだ、オリッピックが中止になれば莫大な投資が無駄になるとして強行を望むものがいるからだとなる
要するにこの世のことは何か人間だけではできない、何らか神がかかわってそうなっているのかともなる
その神意に天意に逆らうことはできないとなる
コロナウィルスが未知で変異ウィルスとかでインドから拡散する、科学者も実際は未知だからわからないのである
ワクチンが絶対なものでもないことは確かである、それは即製されたもので必ずしも全部有効ではないからである
この世のことはべて科学でも解明されていない、未知なこがりその未知なことは永遠に未知なのである
だから神のみぞ知るとなるのである






posted by 老鶯 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/188646047
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック