2021年06月05日

大学で遊びギャンブル人生で終わった人 (大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)


大学で遊びギャンブル人生で終わった人

(大学で20代で方向が人生の方向が決まる怖さ)

gamblelife1.jpg

daigaku11.jpg

70代男性、老後無年金・無貯金でギャンブルまみれ人生の実態
https://www.youtube.com/watch?v=Lk0WLlUHWoc

lofestage1.jpg

30までの時間は長く感じられる
30過ぎる急速に早く感じられる、時間間隔は相当に違っている
子供の一日は大人になったときより十倍も長い感覚になる
30前までも長く感じる、30過ぎると時間は過ぎるのが早くなり40で
おっさんになり白髪がはえて老人に向かっている
もう60を過ぎて70とかなるともう死ぬだけだとなる
明日は死んでいるかもしれないという感覚である



この人は地方から上京して大学に入ってもそこから人生が狂ってしまった
大学のまわりが競馬場とかパチンコ屋とかがありそれでギャンブルにのめりこんだ
学業はそっちのけになった、バーとかでアルバイトしていた人もいた
そしてそれがどっちが本業かわからなくなるからこうなったのである
何か高校から大学への変化が大きいのである、そのギャップが大きいのでこうなる人も多い、変なのは学校というと毎日学校で授業を受けるものとなっていた
でも大学になると授業を欠席しても何のとがめもないのである
ただ一年に一回単位をとる試験がある、それを受かると単位が取れる
その単位をとるにしていい加減なものだったのである
私立の文系となると何か遊びの場になっていたのである

そうなると学校に行かず授業も受けず遊んでいる人が普通にいる
そして授業に出ないことで威張っている人がいる
授業に出ないことが自慢する、だから一日中マージャンしていた人がいた
そんならマージャン教室に入った方が良かったとなる
一体大学に何しに来たかわからなくなる
そういう人が結構いたのである、特に私立の文系などはそうである
団塊の世代ではマンモス大学であり授業でも千人とか入る講堂でしていたとか
高校とは全然違ったものなのである
すると何か暇をもてあましギャンブルに興じるともなる
私もパチンコを覚えたりして遊んでいたのである
こうして何のために大学に入ったのかわからなくなる

私の場合は創価とかカルト教団に費やしたのもそうである
それも何もするこことがないのでそうなったともなる
でも私の場合もともと求道精神があってそうなった
でも創価でもカルト教団など宗教の看板をかかげても全く宗教とは関係ない
ただ毎日が選挙運動の駒として使われるだけだった
あとは御利益を得るために祈る、そしてあらゆる欲は是認される
その欲をかなえるために毎日祈っている、禁欲とか一切なくむしろ欲望を強くして
かなえるために祈るだけである
だからこそ人があれだけ集まるのである、その数は票となり圧力団体となり利権団体となる

ただ青春時代は危険な時代である、変な方向にも行きやすいのである
大学でも自由だから変な方向に行くようにもなる
ギャンブルとか女遊びとかで費やして終わる人もいる
そういう場所が大学だというのも異常だったとなる
理系の大学だったらこんなことありえないのである

とにかく20代頃から変な方向に行ったものはそのまま一生変な方向に行ってもどれなくなる、それが怖いことだったのである
現実この人は大学でギャンブルをおぼえそこにのめりこんでそれが人生になってしまったそれを自分でぱ悔いのない人生だったとしているがそれが他人に誇れるのか?
そんなことが自慢になるのか、誰もそんな人のことを感心する人はいないだろう

ただ本当に20代頃からこうして変な方向に行く人はそのまま一生変な方向へ行き一生そうなってしまう怖さである
大学ですでにギャンブラーになりそのまま一生そうなってしまったのである
まずニートなども良くみかけるけどそういう人も20代でなるとそのまま一生ニートであり無職で人生が終わる
それが自分自身もそうだったからである、一生無職で旅して終わったとなるからだ
ただ自分の場合は学問とか芸術に興味をもち追求していたのが違っていたとなる

いづれにしろ今やそれぞれの人生がなんであったのか問われる
もう団塊の世代でも75となり死んだ人も一割以上いるし身近で同年代の人が死んでいる
78歳くらいの人が近くで二人死んだ
三人の男性はみんな死んだが78だった、何か78歳は鬼門の年だともみた
78歳になると急激に体が弱っていくというからそういう年なのである

人間は20代で30までほぼ決まるというとき30過ぎて40になると白髪がでてきたりしてすでに老人にも向かっていたからである
50になるともう人生も終わりに近づくとかなる、それだけ時間が過ぎるのが早かったのである
その時間の貴重さが若い時はわからないからくだらないことに時間を費やして浪費している、そして老人になってみんな悔やんでいる
急速に時間が過ぎてゆくことが自覚できないからである
それが人生の大きな落とし穴だったのである

そして絶対に時間を元に戻すことはできない

青春時代も二度ともどってこない

右左と分かれ道があり右に行ったものは右の方向に行き左に行ったものは左に行きその方向をもう変えることができない、その方向を決めるのが20代なのである
正社員となるのも20代でありそれ以後はなりにくい、そしてニートとかなると一生ニートなのである、それで最期に親が死ぬと厳しいことになる
そのことを自分は親の介護で経験したからである

ともかく同世代の人が次々に死んでゆく、するとその人生は何だったのかと問われる
弔(とむら)うとはその人生を問うということなのもわかる
一体この人の人生は何なのだったとか問うことになる
カルト宗教団体であれ共産党であれある団体組織に属した人はその属した組織団体が人生だったとなる、でも個々の人生があり何か不思議なのは人が死んだ時は個々の人生が問われる、創価であれ共産党にであれまた他のカルト教団に入っていたということで自慢にならない、そこで評価されたのはただ一票となるとか数として数えられることだからであるでもその人の人生となると個々の人生として評価される
日本民族の一員として死んだといっても誰も世界で評価しないだろう
一例としてもし芸術作品を世界に通用するものでも残したら評価されるとなる

この人の一生は何なのだったろう?

これが問われるのである、でも死に方に成仏することにこだわるがそれはあまり関係ないようにも見える
なぜなら近くで死んだ人はその人生は本当にいい加減だったからであり罪深いともなる
でたらめな人生であったからだ、それでみんな嫌っていて葬式もなく終った
近くでも誰も惜しむ人もなかった、でも死ぬときは簡単に死んだのである
迷惑もかけず死んだのである、だから死にざまより人間はその人がどういうふうに生きたのかが問題になる、成仏するというときむしろその人の人生が有意義なものとなっていたとき成仏する、だから死にざまとは生きざまのことでありどんなふうに死ぬのかとはさほど関係ないとみるのである

それにしても人生も終わりになると本当に短い、あっという間だったとさえなる
そんなに短い時間しか人生にはなかった、そしてみんなわずかの時間この世にいるだけである、そしてこの世から消えていく、すると人はなんのために人と出会ったり別れたり
そもそもなんでこの世にいるのかもわからなくなる
一瞬の泡のように生まれて消えるともなる、人生とはそんなものかとなる
何かもっと重々しいはずであるとなるが現実はその生は何するにしろはかないとなる
有名な人もみんな消えてゆく、何か手にとる本が30年前とかなりその作者はほとんど死んでいるのである、すると死者が残した物は本でありその他その人の人生を知る術もないのである
だから死んで何が残るのだろうともなる
本でも残している人はいい方である、普通人は家族でも死ぬと急速に忘れられてゆく、何か定かでない幻のようになってしまうのである、家族でない人はそんな人いたのとなってしまう
その人の存在すら本当にこの世に存在していたのかも定かでなくなるのだ

石は千年動かない
その場に千年変わらずある
人間は百年くらいで消える
すると石の方が人間より
存在感がある
人間は百年も過ぎたら
みんな消えてしまうのだから

こんなふうになってしまう、それだけ人間の一生は短いからこうなるのであ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/188734550
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック