2021年06月10日

最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ (記憶をしたものの整理に追われる)


最後は記憶したことが人生となる―心に印されるものの怖さ

(記憶をしたものの整理に追われる)


何度も言っているけど人生とは最後は何を記憶したかになる
その記憶はみんな違ったものになるからそれぞれの人生の結果は多様なのである
だからどんな人でも何かしら語るべきものがあるとなる
なぜなら違った経験をしているからである
それで老人からその経験を聞くことはどんな人でも参考になる
失敗の経験でも参考になる
つまり事の真相は経験している時はわからない、時間がたたないとわからないことがあるからだ
それで何か事件が起きてもその時に真相はわからない、時間がたって判明して来る
歴史的な事件でもそうなのである、明治維新が何だったのか、今になると否定的に見る人もでてきているのもそうである
ただ歴史的なものになるともう50年くらいすぎると遠い過去になり不明になりやすい

私が経験したことは勤めたこともないのだから限られている
ほとんど旅に費やされたということである
ただその経験でも何か歴史を見ることでも役にたっている
地歴が科目となったように歴史と地理は不可分なものとしてあったからである
そして記憶たどる旅をしているのが時分である
いくら記憶が人生だとしても人間の記憶力は本当に弱い、それで記憶するために写真でとっておくとかメモを書くとかしないとその記憶自体があいまいとなり思い出せなくなる
それでこれまで書いたものが膨大になるので整理している
毎日整理するのに追われている
プログはインタ−ネットでは何か記録するのに優れているのだ

sdメモリーとかこれだけ小さいもの記録する量が映像でも驚くほど記録できる
そのメモリーは格段に進歩したのである
人間だったら脳にこんなに記録できないのである
それで自分の書いたものすら忘れていて読み返してみてこんなことを書いていたのと感心している
おそらく歴史でも文字ができて記録できたということで歴史が生まれたといのもわかる
それだけ文字の発明は人間にとって大事なものだったのである
それでエジプトでは神聖文字が生まれたのである
文字が神聖なものにヒエログリフになったのである

とにかく人間最期は記憶したことが人生になる、それで私の姉は従軍看護婦で4年間シンガポールの向かい側のジョホールバルで苦しんだからそのことを死ぬ間際まで語り死んだその前に千回もそのことを語っていた、認知症になっても過去のことは忘れないからである、特に印象に残ったことは忘れないのである
そういう戦争ということはもう経験した人しかわからない、いくら映像で見ても残されたものを見ても読んでも実感できないからだ

そして何か経験したことでも後からその意味がわかる、経験したことを後から深く考察してその意味を知ることにもなる
それは歴史的大事件でもそれが起きた時はわかりにくいのである、でも後から解明されて真実が明るみに出される
隠されていた悪が暴かれることがある、いくらその時は隠されても遂に明るみに出される若きの至りとかで若い時に力まかせにした悪行でも暴かれて老人になってから良心の呵責とかなり苦しめられる

人の行った行為はみなカルマとなる

それが隠されたり忘れ去れることもない、神は見ているとまでなる
そうなると本当に奔放な若い時の行動も悔いるとなる
そういうドラマも多いのもそのためである
警察につかまるとか刑罰を受けるとかではない、そういうことと関係なく良心の呵責に苦しむことになる
だからどんな人でもカルマをつまない人はいないである

原発事故とかでもそうだった、それを追求してきたが「安全神話」を作った人々は共犯者であり悪人だったとまで暴きだされた、ただその責任はとっていない
東電に天下りして金を得ていた官僚とか高級国民なども責任があった
でも責任は誰もとっていないのである
でも十年過ぎ二十年過ぎとかなりその悪が暴かれる
悪が暴かれないのはその時の政権によって隠されるからである

オリンピックのJOCの経理部長が自殺したのも大事件でもその真相は何も語られないし騒ぎもしないのは上からおさえられているからだとなる
何か都合の悪いことが出てきて今の政権が追及されるからだとなる
そして人間の歴史とは何かとなれば罪の歴史だったというときそうなる
絶え間ない殺し合いの歴史だったとも見れるからである
戦争自体が罪でありどっちが正しかったということはないからである
日本とアメリカの戦争でもアメリカが正しかったとはならないからだ
それで歴史は勝者の歴史となっている、勝者が記したのが歴史だとなっているらだ

その人の一生は何なのだったのか?

それは記憶されたものともなる、何が脳に記憶されたのかとなる
それは各人か違っている、その人の経験と学習から脳も作られるからだ
人間の脳とか性格とかは遺伝子的に決められているのかとなると人間の場合はそうはならない、人間は人生の経験の中で作られていく
何か臆病とか気弱な人でも一瞬の行動で勇気ある人にも変わる
たいがい英雄とか天才は生まれつき優秀だったからそうなったともみる
天才の場合はそうである、でも一般人でも人生を経験してゆくなかで変貌することもありうる   

だから人間がすべて生まれつきで決まるわけではない、そうして人生の経験の中で神が関与することもある
それは不可解なものである、そもそも人生そのものがそれぞれか小説より奇なりともなっているのだ
聖書が理論とではない、実際に起きたことを記したものでしる、そこに必ず神の関与がありそれを記したのである、だから奇跡を信じなければ理解できないのである

では人間が死んだらそうした記憶とか記録とかも全部消えて空になるのか、もしかしたらそれば消えずにあの世にもってゆくものかもしれない、なぜならみんな消えるとしたら
それぞれの人生が無意味なってしまうだろう

神があなたは何を見て何を聞いて何を見ましたか?

そのことはあなたの心に脳に記されている、それを神の前であからさまに示されるともなる、そうなると怖いことになる
その時心に記された悪も暴かれる、それがまざまざとして可視化される
つまり死ですべてが消えるわけではないとなると怖いのである
もちろんそういうことをありありとイメージしたら本当に悪いことなどできない
だからこそ平気で生きていられるとなる
死んで裁きがあるということをありありと思う人はいないからだ
だから平気で悪を犯して罪を犯しているともなる

何か悪いことをしましたとかなっているのである、ただそれが死んだ後にあの世で暴かれるとなると怖いとなる、そういう恐怖心があれば簡単に悪は行わないし心にも思わないとなる
そうした裁きとかは個々人になる、人は神の心を見ているという時、集団の心は見れないからである、いろいろな集団に属していてもそれで罪を裁きを逃れられない
要するにそうした宗教団体とはこの世の隠れ蓑であり死後は何の効力もない、個々人の罪は消えないとなる

いづれにしろ自分は今や記憶をたどり記録をたどり整理している
それが膨大なものだから苦労している、つまり分厚い一冊の本のように整理するとなる
人間の一生はいづれにしろどんな人でもそれぞれ一冊の本にもなる
ただ表現力のない人は読者に感銘されるものを書けないとなるだけである
旅をしてもその時見たものを経験したものを回想して深化する、それができれば充実したものとなる
だから旅でも記憶されるような旅をしろと言ってきたのである
それは車では無理だと言ってきた、電車でもそうである、歩くか自転車の旅でないと旅というのを記憶してたどることはできないともなる
ただこれは外国では無理だからそうとはならない、国内の場合は記憶する旅をすらなら歩くか自転車でないと記憶に残らないともなる
ただ自分も最初は電車旅行でありそれはある目的地に行くのにはいいが旅を経験するには歩くか自転車でないとできないのである
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