2021年06月23日

老人の心境(人生の終わりに短歌十首) (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)


 老人の心境(人生の終わりに短歌十首)

 (世代ごとに変わる心境―若い人は理解できない老人の気持ち)

 人間の気持ちというのは世代ごとに変わっている、40才が一つの区切りかもしれない
その頃白髪でてきたりするし身体に変化が生まれる
だから40才でおじさんとかよばれてもう俺は終わりなのかとあせる
氷河期世代などがそうである、それを盛んにyoutubeで訴える人がいるのもわかる
40代になるとすぐに50になり60になるからだ
20代が人生の華だとなるが30過ぎるともうそれもなく女性でも男性にちやほやされなくなるとか言うのもわかる
それだけふりかえれば人間の一生は短いとなる

そして人間の最大の盲点が老人になるとどうなるのか?

これがわからないのである、20代だといつまでも青春とかがつづくと思ったり時間がいくらでもあると思っている、体力もあると思っている
でもこれもふりかえるとあっというまに過ぎる
そして若い時老人になるとどうなるのか?それは体を見れば衰えているからわかる
あんなよぼよぼになりたくないと見る、でも何か若い人は自分自身がそうなるとは見ないのである
若い人が老人を理解できないのである

ただ本当に老人の心境になるのは本当は60過ぎであり今は長生きだから70過ぎにもなる
ただみんな老人が一様ではない、もう体力的にもふけこみ見た感じでも10年くらいの差ができる、60でも70に見えたりするしその人は85歳の女性だったけど60代の人より若く見えた不思議がある、こうして老人と言っても個人差が大きくなる
その人は70才でももう80歳にも見える、眼が悪くて文字を満足に見えないからである
眼が見えないと耳が聞こえないとか常に腰が悪いとかなるとやはりもう本当に弱った老人にしか見えないのである 

老人になって一番意識するようになるのは何か?

それは明日死ぬかもしれないということを現実として見ることである
それは同じ世代の人が実際に死んでゆくことでもそうなる
同世代で一割が死んでいるとか近くで子供の時遊んだ人が死んだとかなる
だから常に死を意識することになる
そして人間のことはこうして70以上とかならないと知ることができない
天命を知ることができない、70以上になると明日死ぬということが現実化するからであるそして常に一生をふりかえる、人生とは何だったのだろうと振り返る

そししてまた意識するのがなぜ人と人は逢うのか?

これも意識する、なぜなら二度と逢えなくなるからである、するとなぜ人と人は逢うのかとふりかえる、つまり死んだら永遠に逢えなくなる
これも不思議なこととなる、人が逢うなど別にありふれたことでありそんなことを意識しないともなる、でも人間がこの世で逢うとは何なのか、それも不思議になる
なぜなら永遠に逢えなくなるからである
今や家族すら全部死んでもう二度と逢えなくなったからである
人間が出会い逢うということそれは永遠に逢えなくなるものとして逢っていたとなる
すると人と出会うことは貴重なことだったとふりかえる
それで一期一会の思想が生まれたとなる

つまり今の世に生きていて逢っていることは深い縁があったからだともなる
そのことがわかるのは70代だともなる
誰しも70過ぎると人生はこんなものだったとか知らしめられる、別に優れた人だけではない普通の人でもそうなのである、それで老人は何か悟ったような雰囲気を持つようになるのである、これはとても若い時はなりえないからである
つまり人間は悟ったり賢くなれのは老人にならないとなれないともなる

自分自身は何かいろいろ理解することが遅かった、受験勉強などで勉強嫌いにもなった
でも旅をしたりいろいろ自由に引きこもりでも学んで学問好きにもなったのである
だから60過ぎて70過ぎてこうしていろいろなことを書けるになったのである
それは理解力がついた、深く自分なりに理解できるようになったからである
本当に智慧がつくのは老人になってからである、ただ求道は若い時しないと神を知ることはできない、それも盲点だったのである
だいたい青春時代は欲が爆発して享楽する時代だからでもある
ただそうして一番大事な時期に生を消耗すると神を知る機械を逸することも怖いことだとふりかえる、ただ誰もその時そんなことを想わないのである

私がカルト教団に入ったのは選挙運動するためではない、宗教を求めていたからである
ただそこはそんなものとは全く関係ない場所だったのである
ただ自分が求めていたのは死の問題でもあった、死を意識するということは実は老人になれば否応なく現実問題として意識する
でもその時死を意識しても遅かったともなる
その解決は若い時していなければできないともなっていたからである
そこが人生の落とし穴だったともなる
宗教など老人になってからでも求めればいいやとかなっているからである

人間は死ぬ、この世から消えるのもまもなくだ

そしてこの世で人と逢っても永遠に別れる、逢わない

このことが現実化するのだ、何かと人ともめたりしても遂には永遠に逢わないのである
すると逢うだけでも貴重だったともなる、それが老人には嫌でも知らしめられるのであるそれで老人は常に後悔するのである

人間は結局最初に老人になる、それから若くなる

こうなれば失敗もないのである、そうしたら馬鹿なこともしないのである
老人になることがをどういことか知れば失敗もないのである
老人になれば誰しも悟り知恵かつき愚かなこともしないともなるからだ
ただその老人でもいろいろあるし迷惑老人も多いからいちがいには言えない
でもどうしても若い時は老人のこと老人の心境を理解できない
もしそのことを知れば若い人は失敗もしないし悔いのない人生を送れる
老人になると時間ほど貴重なものがなかったとふりかえる

ああ、時間を無駄にした、馬鹿なことに時間を浪費した

それが一番の後悔になっているのが普通だからである
その時莫大な富が金があったとしてもそうである
老人になると体力なるからきついことはできなくなる
いくら金があっても何かいろいろなことができなくなるからだ
旅でも登山でも億劫になるし体力がなくなりできなくなる
だから私は株などしたくない、これも自力で取引きをパソコンで覚えればいいがそのパソコンの画面を見ていると時間がとられるからしたくない
だから銀行の営業の人に頼んだのである、でもそうしたら株ではもうけられないことを知ったのでやめたのである
その株で何億でももうけても果たしてそれだ人生の成果となるのだろうか?

そもそも人生の成果とは何なのか?

これは財産を築いたとかあるにしても金を残したとかで計れないのである
芸術家だったら後世に残る作品を残したとかある、職人でもいい庭を作ったとかありそれが残されているということもある
何か他にもいろいろある、眼に見えないものとしても遺されるものがある
だからいくら金を残してもそれがすべて成果として評価されるとはならない
金がなくてもいいということではない、それがすべての成果とならないということである
要するに時間を何に費やしたかでその成果が計られる

これが人生だともなる、時間は限られているから例えば一つの楽器でも覚えるのに時間がかかる、時間を費やす、すると一つの楽器を覚えることが人生だったともなる
そして天才でもいくつもの楽器に習熟することはできないのである
その時間がみんな平等に与えられて限られているからである

また普通は会社員となれば会社のために尽くす、銀行員だったら銀行に所属しているのだから例え相手をだますものでも投資信託などでも売る
そういうことは別に会社に属していれば必然的にそうなる
そうなるとその会社の価値がその人の個々人の価値ともなる
それで有名な大企業に所属していればその会社名がその人の価値となる
人生全体もそうなる、でも一旦退職するとその価値も喪失する
それで人生の先が長くなると会社をやめると価値のない人間になってしまうのである
いづれにしろ人生とは何だったのか、70くらい過ぎると否応なく知らしめられるのである



人生の終わりに(短歌十首)

この世にそ生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人はみな死に別るかなその最期手を握りて心通いぬ

人はみな死にて別れぬ何気なくありにし日のなつかしきかな

老人の残れる生の短きを徒(あだ)に過ごさじ深く思わむ

この世にて生きる日短く逢うとても再び逢わじ人は逝きにし

人の世を生きるは短く徒言(あだごと)語るは許さじ明日はなきしを

人の世を生きるは短く人は逝く貫くもののあるべしかな

常に思へ明日無き身なれ時々を徒に過ごさじ実りあるべし

その人の何を生きなむ最期かな徒にすごせし月日悔いなむ

まことにそ生きにし人のその生の後に明らかに輝きあらむ 





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