2021年07月13日

この世に完全な安心安全などない (コロナウィルスのリスクを許容する時期が来ている?)


この世に完全な安心安全などない

(コロナウィルスのリスクを許容する時期が来ている?)


人間はこの世に生を受けた時、すでにリスクがある、まず安全にうまれるかどうかもリスクがある、子供が死産の場合もあるしまた母親が死ぬ場合もある
近くでそういう女性がいた、ただそういうリスクは減ってきた
また子供が死ぬことも多くそうして死んだ子供の名前を墓に見る
人間は医療が発達しなかったり栄養が悪いと子供でも死に安いのである
それは今でも後進国でアフリカなどでは同じである

つまり人間は生まれた時からすでにリスクをかかえて生きている、子供でも交通事故にもあうし何か危険な目にあうし死ぬこともある、遊んでいてもリスクがある
決行危険な遊びをしている場合があるからだ
だから結局人間はリスクがないということはないのである
どんなに気をつけてもやはり事故があり確率的に死ぬこともある
それは避けられないのである、それがこの世に生を受けた宿命だとなる

私の母親は冒険などしないおとなしい内気な女性だった
それでも水害になり水が床上浸水になりその時あわてて米をかかえて逃げようとした
その時炬燵の穴に入って大けがをしたのである
水が入って穴になっていたのがわからなくなりそうなった
結局人間は家にいても安全はない、リスクがある、津浪が来て地震がきて家が流されたり村ごと消失したりしたのには驚いた
だからなぜそんな危険な場所に平気で住んでいたのかとふりかえる

リスクと言えば交通事故は死者が減ったとしても一番確率が高く事故にあう
もうそれは避けられない、あの時ちょっとの差で事故になり死んでいたかもしれないということをほとんどの人が経験しているだろう
だからちょっとしたことで人間は死ぬということは普通なのである
それでも車社会でありリスクを許容して生きているのである
私は何かずぼらであり車運転に向かないから車を持たないのである
車を運転したら早い時期に死んでいた、それほど車というのはリスクなのである

今日テレビでこれからの問題はどれだけリスクを許容するかであると言っていた
もうコロナウィルスとともに生きざるを得ないから何でも制限する必要はない
with コロナで生きるほかないと言っていた
そういう実験をイギリスではしている、アメリカではもう普通の生活に戻っている
日本ではどうするのか、敏感すぎるともなる
ただこの辺が正念場だから耐えるべきだとかも言う

確かなことをこの世から完全にリスクを取り除くことはできない
だから原発の安全神話は全くありえないことでありそれでも安全と言って住民をだましていたから許されないとなったのである
リスクはある、でもそのリスクにどう対処するかが問題になる
ただ「安全、安全」と題目のように唱えているだけでは安全はなかったのである
配管などももう老朽化していたのにそういう修繕もしない、ただ安全、安全と唱えていれば安全になっていたら楽なのである
それで大事故になったのである

ともかくリスクはさけられない、コロナウィルスでもどの辺で折り合いをつけるのか未知の物だから迷うのである
科学者や研究者ですらプロですらわからないとしたらどう判断していいかわからないからだ
ただ日本だと完全にリスクをゼロにするコロナウィルスをゼロにするということは問題だとしている
それはできないからである、未知なものでありできないのである
だからどの辺で折り合いをつけるかが今問題になる、このままでだらだらやっていたら
いつ終わるのかわからないしそのうち社会が機能しなくなる
飲食店も倒産して自殺者も増えたりそっちの方の被害の方が大きくなる

そのことをテレビで討論していたのでそういう指針を政府で出すべきだということもわかる、明らかになったことはそれほどの死者が出ないことである、重症者が減っていることである、感染者は増えても重症者が減っていることは安全を計る基準にはなる
ただ未知なものに対しては何か恐怖がつのるのである
そういう私自身がすでにワクチンをして500人死んだというときしたくないからしないのである、そのことはテレビでは報道しないからである

ともかくこの世を生きることはもう生まれた時からリスクがあり時代を見れば70年ごとに大変化がありリスクとなる、70年前の戦争では三百万人も死んでいるからである
もしそういうリスクを想定したらとてもじゃないが戦争などできない
でもあえて日本はアメリカとの戦争に踏み切ったのである
そんなとてつもないリスクを考えていたのかとなる、その責任はどうなるのだとなる
それは原発事故でもいえる、故郷に住めなくなる、50年以上も放射線量は減らない、毒は消えないとかなる
そもそも原発は本当にリスクが大きすぎたから作るべきではなかったのである
でも「安全神話」を作り何も事故になることを想定してしいないから浪江の人たちは一番危険な放射線量が高い津島に避難したのである

株でも投資でもリスクはある、そのことは銀行でも証券会社でも一応言うし事前にそういうものだという了解でしている
でも売る方になるとリスクはあまり言わないのである
とにかく人間社会は常にリスクがあり時代によってもリスクがある
リスクはまねがれないのである、だからリスクにどう対処するのかが問題になる
コロナウィルスでもリスクでありこれにどう対処するのか問題になる
イギリスではある程度のリスクがあるとして許容して普通の生活にもどる
アメリカでもワクチンをうって野球観戦でもマスクをしていないとかしている
もうリスクを許容してそうするようになった

では日本ではどうするのか、リスクをそのように許容できなるのか?
ゼロリスクにすることはできないが日本だとそうしたいとなる
でもそんなことがありえないことだからどこかで許容して普通の生活に戻らないと社会自体が大損失になり自殺者の方が増えたとなる方が問題になる
だからどこかでリスクを許容して生活を正常に近くするほかないとなる
ただ正直南相馬市では飲食店でクラスターが起り警戒するようになった
田舎では敏感でありそれで外出もできなくなったともなる
田舎の場合はこうして敏感だから人流もある程度おさえられる、でも東京とか都会となるとおさえにくいのである、仙台市は一時減ったがまた増えてきたとかある
だからもうゼロコロナではななくwithコロナにするほかないのかもしれない
そういう指針を政府で出す時期なのかもしれない、そうしないといつまでもコロナウィルス騒動終わらないし戦々恐々として正常な生活ができないとなる
その被害の方が大きくなる、それで社会活動がてきなくなりそのための犠牲者がコロナウィルス自体の被害より大きくなることは止めねばならないとなる

人間はやはり運不運がさけられない、個々人でもリスクのない人生などない
どこでどうなるのかわからない、安全安心もない、だから運が関係しているとなる
商売でも運が関係している、私の店が繁盛したのもただ角にあり場所が良かったのと小商いが成立した時代だったからだとなる
つまり運が良かっただけなのである、

それで財産でもラテン語 fortuna(運;[複数形] 財産)→fors(好機;運)→bher-(運ぶ)が語源。「偶然やってきたもの」がこの単語のコアの語源。bear(運ぶ)と同じ語源をもつ。fortuneが運が財産となったのである運が良いか悪いのか相当に人間の陣形に影響している

私でも戦争の前に生まれていたらすでに20代で死んでいたとなる
でもちょっとの差で戦後に生まれたから死なずにすんだとなっているのだ
それも運だったのである、何か人間には運が作用しているのである
この運だけは人間ではどうにもできない、神が運を作っているともなるからだ
人間には様々なリスクがつきものである、そのリスクをなくすることかできない
いくら安全を計って家から一歩もでなくても災いにあうのである
かえって思い切り冒険したので助かったとういこともあるのだ
とにかく過度にリスクを恐れることは問題がある
ただ原発の様な危険なものはもともと作るべきではなかったのである
こんなふうにして事故にあったらもうとりかえしがつかないからである
別に火力発電所なら爆発しても回復できたが原発はできないからである
それなのに安全神話を作ってだましていたから許せないのである

posted by 老鶯 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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