2021年07月26日

アートとは医療用語だった (語源をたどるとわかる原義ー医者は病気を診ても人間を診ない)


アートとは医療用語だった

(語源をたどるとわかる原義ー医者は病気を診ても人間を診ない)




アーツのもとになったアルスは「人の手でなすこと」であり、サイエンスのもとになったスキエンティアは「知ること」である。前者は「学問」という意味もあり、後者は「学識」という意味もある。ではアーツ・サイエンスとは何を指すのだろうか。最も一般的な解釈は、アーツは人文系、サイエンスは自然科学系を指している、というものだ

多くの人文科学および自然科学の支えがあることを私たちは忘れてはなりませ
ん。哲学,宗教学,心理学,生物学,免疫学あるいは物理学,化学,数学さらに工学というように,多くの科学に支えられて医学・歯学は発展して参りました。

「アートとしての医(学)」という題で書いておられるわけであります。その論
説のはじめの数行を紹介いたします。 「医(学)は単一のサイエンス(科学)ではな
い。いくつかの科学に深く根差した学問である。かつその科学の手だてを人間の幸せのために適用する義務を課せられた知的専門職(a learned profession)である」,こう書いておられるのであります。


英語 architect(建築家)+-ure(もの)→arkhi-(大〜)+tekton(建築者)→tekhne(技術)→tek-(作り出す)が語源。「建築家の製作物」がもともとの語源。archangel(大天使)と同じ語源をもつ。

技術(tekhne)の知識体系(-logia)、体系的な技術」がこの単語のコアの語源。

tekhnologia(文法の体系的な扱い)→tekhne(技術)+-logia(知識体系、研究)→tek-(織る)が語源。

ideology(信念体系)と同じ語源をもつ。




artという言葉が気になった、芸術家となるとアーティストとなるからだ、でもその語源をたどるとアーティストとは「人の手でなすこと」であり医学から発して建築へと意味が拡大化した、その基本に「人の手ですなすこと」にあった
tecでも織るということは織物を手で織ることでありやはり手を使うことである
つまり人間は必ず何かを作ることは手を使うことであり仕事することでもそうである
だから建築でも手を使うことでありartに通じている、ただarchはアーチでありそれが建築の要となるのでそうなったから違っている
でも人の手を使うことでは似ているのである

そもそも大工とか見ればわかる、必ず手を使うのであり手の仕事なのである、機械がない時代は人間の手で作り上げていたからである、それがなぜ医療でもそうだったのか?
やはり人間を病気でも見る場合は手を使って触ったりして診たからだとなる
問診とか今でもある

会社によってはテクニカルディレクターとよぶ場合もある。テクニカル(技術)関連の仕事を担うプログラマやエンジニアと、アート(芸術)関連の仕事を担うアーティストとの橋渡しを担当する役割のこと。プログラマやエンジニアの思考と、アーティストの思考のちがいを理解し、両者が抱える問題を解決するための方法を提案する。機械的な作業を自動化・効率化するためのツールを開発することもある

私の抽象画はまさにこれである、絵の才能が全くないのにテクニカルなものとしてインタ−ネットにあるも画像をまた雑誌の画像などをコンピュターで処理してテクニカルに作り上げているだけだからである、それはテクニカルなものでありそこに私自身の才能はないのである、ただコンピュターのテクニカルに処理したものを選んでいるとはなる
それで大量生産できるのは全く自分の才能ではなくテクニカルににコンピュターで自動的に作り上げているからだとなる
artが技術だというときまさにそれを実感したのである

ただ医療が医学がアートだとは思わなかった、アートというときどうしても芸術家となり画家とか作家と音楽家とかをイメージするからである
アーティストがまさか医者もそうなのかと意外だったのである
要するに人間の歴史をたどると職業でも学問でも様々なものに分化してその成立ちがわからなくなった、それで言葉でもその意味するところが不明になったのである
だからその語源を探るとかそのオリジナルなものが何かから知ることが大事なのである

またしきりに医者が病気を診るより人間を診ることだしているがそれは宗教とかとも通じている、病気ではなく人間を全体を診ることに通じるからである
糖尿病の人は半年も入院したとかしてもう病院には入院しないというのもわかる
病院は牢獄なのである、医者や看護師は監視員なのであり服役者は絶対服従になる
でも嫌になり入院しろと言っても入院しないという、家の方がいいとして在宅医療をししている、それでかえって回復したとしている
このようなことが老人にはあり病院ではかえって悪くなるのである
そういうことを自分も嫌というほど経験した、看護師に虐待までされたから病院は刑務所と同じだと思った、そこでは人間は診ないのである
病院にいるのも嫌だとして病院から脱走した人もいる、その気持ちもわかる
私自身も脱走したかったができなかった、そこは刑務所だから簡単にできないからである

とにかく医療でもその歴史をたどるとわかるものがある、その成り立ちをたどるとオリジンをたどるとわかるものがある、まずは人間を診ていたのである
病気だけではなん人間を診ていた、だからもともとは医療は宗教と深く関係していた
なぜ宗教の信者が過去にあれほど増えたのかというとほとんど病気になったとき神仏に祈る他方法がなかったからだ、それで村の中心には必ず薬師堂がある
あとは地蔵がありその地蔵も眼が悪いの直すとか腰が痛いのを治すとか様々な人間の悪い所を担当していたのである、だから信仰といっても実は病気を治すものとして大衆化したのである、キリストでも奇跡で病気を治したことで大衆化したのである

会津でも仏教が早くから広まったのは医療のためだった、病気を治すものとして広まったのである、それが明治以降は医者が病気を治すものとなったのである
でも今でもカルト教団でもやはり病気を治すために入る人が多いのである
それだけ病気は深刻なものだからまだ直らない病気があるからそうなる
江戸時代の医療が医は仁術というときやはり人間を診ていた、それは科学技術が発達しないから直せないとういこともあった、ただ貧乏で医療費が払えない時、免除するとかあった、医は仁術だからそうなったのである
逆に明治以降は西洋医学が入ってきて科学技術が全面に出てきてかえって人間を診るということが減少したのである、病気そのものを診て直すことが医療の目的と化したからである、だから高価な機械でも欠かせない、患者でもそうした機械があれば直るともみるからである

いづれにしろ人間は様々なパーツに分化してその基が不明になった、その元がなんであったのか不明になった、それで語源を知るとそういうことから発していたのかと理解する
医学にしてもこれは総合的なものであり体の一つの部位だけを治すとかではない、人間そのものを診るということが基本にあった
ただ医は仁術とかだから金がなくても診てやるとかその人のことにかかわる悩みや問題を相談されると医者も大変だとなる、それは切りなくなるからだ
人間はそれぞれ様々な問題をかかえていてそれをいちいち聞いていたら聞く方でもたない限界があるからだ、だから医は算術ともなったのである

医者も金になるとして割り切り他のことにはかかわらないとなったのである
そして医療関係は何か非情な世界になった、医療技術は発達しても人間は診ないのである
養老孟司氏によると本人が来ているのに本人を証明するものをもってきてくださいと言われた、これはおかしいと言っている、本人がそこにいるのに本人を認める証明書を運転免許証でも持ってきてくださいと普通に言われる
それを普通には疑問にもたない、もう本人を本人がそこにいても認めない、何か証明するものがあって本人と確認する、データーがあって本人と確認する
データーの方が重要なのである、現代とはデーター社会なのである
すべてがデーターとして管理して数字として管理する社会である、肝心の本人がそこにいても本人を認める書類がないと認めないとなっているのだ

そして議員の人でも病院で番号で呼ばれて怒っていたというのもわかる
まして普通の人は番号と数字にすぎないのである、一人の人間とはみられないのである
数字として処理される、データーとして処理されるのである
だからこそナチスが生まれたとなる、ただ人間は数字としてデーターとして処理される
そこに生身の人間がいてもそうなのである、一人一人の生身の人間は診ない、、データーとして数字として診るだけなのである、それで医は算術ともなる、金の計算もデーターとして人間を診るからそうなる、だから人間は数字としてデーターとして処理されるだけだとなる、病院の死でもそうである、生身の人間が死んだより一つの数字として処理される機械的にに処分されるともなる、それが家族に家で死ぬのとは相当に違うのである
だからみんな病院で死にたくないとなっている、医者は病気を診ても人間を診ないからである
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