2021年08月03日

今年も野馬追話なし(北郷の旗ー只野氏の旗)


今年も野馬追なし(北郷の旗ー只野氏の旗)

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鹿島区(北郷)に只野の姓は多い、杉が旗印であり多いことがわかる

仁とあるのは同じ系統の親戚なのである,多田部ともあるが本は只野だったと思う


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川の側の保育園の所の新しい家に入った人

どこから来たのか?鹿島の北郷にもこの紋があるにしても他でもこの紋は
多いからわからない、ここには移り住む人が多いからだ
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井形の紋は多い

野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)
http://musubu.sblo.jp/article/176728425.html

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菊の紋の南朝の旗が見える

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南相馬市の鹿島区の北郷の野馬追の旗の中心は只野氏の旗である
只野氏は郡山の多田野村に由来して霊山の南北朝の争いで鹿島区に落ち延びた
江垂村の小高い山が中館としてありそこに居を構えたのである
とにかく鹿島区は只野氏の町というくらい只野姓が多いのである
電話帳を見れば50軒くらいが只野氏になっている、漢字は違っていても只野氏なのである
その只野氏の中心となるべき人が鹿島の街の中に住んでいた、同級生だったので意外だった、江垂村のお浜下りで重要なおつづら馬という役職を担っていた
荷物を馬にのせて運ぶ役である
街というときあまり古い家はない、後から入ってきた家が多いのである

野馬追というとき旗とか鎧を保存されているのは農家の方だからである
相馬市でも原町市でも街内からはほとんど野馬追いには出ないのである
それで原町が原町村があり一騎野馬追に出ている
雲雀が原はもともと野馬追いの原であり馬を放牧していた
だから原っぱだったのである、街が大きくなったのは常磐線が開通して駅前通りができて大きくなった
戦後雲雀が原とかでも開墾したらしい、鹿島区でも小池で戦争の引揚者が開墾した
そこは街から近いのである、飯館村の辺鄙な所ではない
とにかく仕事がないからそんな不便な所に開墾して暮らしていたのである

相馬藩では相馬市の城下の城勤めする侍は少ない、農業もしていた郷士が多い、その郷士から野馬追いにでる、だから街内から野馬追に出る人はまれなのである

あと目立つのは菊の紋の旗であるがこれは南朝の旗なのである、天皇は明治でも南朝を継ぐとしてあり南北朝の戦いでは南朝についたからである
それで鹿島村に南朝の菊の紋の旗がある、それは菊池氏になっている

ただ鹿島区に北郷から「御家」という旗が出るのは小高の人が原発事故で移り住んだからである、もともと御家という旗は北郷にはなかった
小高は相馬市が最初に拠点をもうけた所でありそれで小高の城跡は古いのである
御家という旗はもともと小高の城があった所にふさわしいとなる
藩というのはなく御家と呼んでいた、御家中となっていた・・御家中のものとしてあった相馬市はもともとは中村であり中村御家中となっていたのである

ヨ−ロッパでも有名なハウスブルク家というときハウスは家でありブルクは城なのである
まさに家と城が一つのものとして一体となっている、もともとは日本でも家が農家が掘りで家を囲んだりして
防衛していたがそれが城に発展したのである、意外と日本とヨ−ロッパの歴史は城があるから封建制だから似ているのである


posted by 老鶯 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係
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