関ケ原ー近江の地理と歴史をたどる(短歌十首)
蓮華に菜の花に近江富士(三上山)となる旗
ここに陸奥弘前藩がある
近江なれ菜の花畑に蓮華かな
波音や大津京跡朧月
皇子山いわれを語れ春の月
関ケ原越えて行きなむ残る雪近江拓けて蓮華野を見る
関ケ原越えて望みぬ近江かな春の光りや京も近しも
京近く瀬戸の唐橋長きかな今宵泊まらむ大津の宿に
東海道中山道と近江にそ交わり京へ向かう要なるかな
奈良想い京都を想い近江かな越に東に通じる道かな
湖西にそ夕日沈むやあわれかな高島の古墳我はたずねぬ
東より昇る陽見なむ秋の日や近江平野に銅鐸残る
東西の雌雄を決す関ケ原陣を張りにし跡を訪ねる
さざなみの都の跡や心しむ波の音ひびく秋の夕ぐれ
みちのくゆ大津京跡さざなみの波音しみぬ秋に偲びぬ
東西に分かれ争そう関ケ原古代よりしも近江にい出ぬ
大津京奈良の都や古の跡を訪ねて秋の日暮れぬ
近江を知る時もまず地理なのである、近江が交通の要衝となったとのは琵琶湖があるからだある、この琵琶湖は地中海と似ている
近江は、もともと「ちかつあふみ」と読み、「近淡海」と書かれていた。「淡海」は湖のことで、読み方は「あはうみ」が「あふみ」となり、「おうみ」となった
湖を海としたのは海のように広いからそう言った、地中海が交通の海としてあったように近江もそうだったのである、この琵琶湖が風土としてその国の精神性を育み歴史を育んだのでてある、東海道があり中山道もここで交わる、そして古代から敦賀とも越の国への通路でありしがらき宮とか大津京とか古代からすでに要衝の地としてあったから栄えたのは地理的な条件として備えられていたからである
つまり地理が国を造るのであり地理を知らずして歴史も知りえないのである
近江国は宇宙(あめのした)に名有る地なり、地広く人は衆(おおく)して国富み家給(そな)わる
このように言われたのはまさにそういう地理であり交通の要所だからである
アフガニスタンでもなぜ世界が問題にするのか?それはそこが交通の要衝だからである
周辺国の通過点になるからそこが争いの場ともなる
奈良や大阪や京都や日本海側から古くは朝鮮系の帰化人が住みつきオンドルの遺跡まで発見している、それがあることは朝鮮系の帰化人が住みついたからである
これは実感として韓国でオンドルの部屋に泊まったから感じるのである
その時滋賀県の大津の人と一緒に泊まったことは宿縁があったともなる
ツノガノアラシトのことをこの辺の古代史関連で大分追及して書いたけど古代から近江はそうした渡来人が入り住みついた場所なのである
それでみちのくとも関係していた、粟田郡で鉄生産の技術を習うために直接工人がみちのくの真野郷からも往き来していたことがわかったのである
つまり近江は古代から東とも深く関係していたのである
それでみちのくの真野の草原(かやはら)の万葉集の歌の作者の笠女郎が近江出身者という説を出した学者もいることも納得する
また三上山の麓に銅鐸で有名な場所がある、つまり近江まで銅鐸文化があった、東になるとないのである
ここが東西の文化的分かれ目ともなっていた
近江というとき例えば関ケ原が東西を別れ地なのである、地理的に近江に出ると何か山間から出て心和むとなる、電車でも関ケ原は高地であり春でも雪が残っている
まだ寒いと感じる、これが歩いてみればさらに明確になる
関ケ原を出て近江に入ると景色が変わる、平野が開け琵琶湖を見える、この風景は中山道の山間を出てもそうである、その景色に安堵するほっとするのである
それで「行く春を近江の人と惜しみける」とか芭蕉がみちのくから北陸を旅してこういう俳句を残したのは別に人というのではなくその風土がまず心和むものとしてあったからである
琵琶湖は荒いというのもでもない、海とは別物だからである
そして平野も広くありそこに蓮華畑とか菜の花が似合っているということを感じたのである
人間とは人間そのものが作るものではない、作れない、地理とか風土とかから歴史が作られてきたのである、なぜ近江商人が生まれたのかとなるとまさに近江が交通の要衝だったからである、それでみちのくまで近江から渡来人であれ近江商人でもやってきたのである葛尾村の鉄生産で財を成した葛尾大尽屋敷跡になぜ近江八景を模した庭を作ったのか?そして妻まで近江からもらったのか?これも近江商人との関係があったからだともみる
妻がそこで近江を偲ぶために近江八景の庭を作らせたとなる
大津城に全国の蔵屋敷があったということでもそうである
そこに弘前とかもありこれは北前船で日本海から関係して蔵を作ったともみる
日本海側の越とかとは大伴家持が赴任したように関係が深かかったのである
それは何より琵琶湖に八十港があったように琵琶湖が交通の湖だったからである
琵琶湖があることで近江が作られたのである、人も作られたのである
世界でもなぜイスラエルがあの場所になるのか?それは神が定めた場所である
それでアブラハムは神の命令でその地に向かったのである
イスラエルは地中海にでてヨ−ロッパに向かう港にもなっていたからである
地理的に神が定めた地だともなっていたのである
だから世界を知るとしてもまず地理がわからないと何も理解できないとなる
ただこの地理を知ることは実地にその場に行かないと実感できないのである
そこで誤解が生まれてくるのである、世界だと行く場所が限られているから余計にそうなる、なぜネパールとかで3000、4000メートルの所に住んでいるのかとなるからだどうしてそんな所で生活できるのかとなるからだ
近江で不思議だったのは高島町がある湖西から見て東の方から太陽が昇ることである
湖西とは西だから太陽が沈む場所なのである、太陽が沈む西は何か淋しい感覚になるのである、でも関ケ原辺りから陽が昇るということが不思議になるのである
方角が旅するとわからなくなるからである、
近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身
小野妹子が陽が昇る国から陽の沈む国へと中国に行って言ったのはやはり人間は方角が旅すると一番気になるからだともなる
とにかく方角がわからなくなり意外な方向から陽が昇ったり沈んだりするからである
だから地名の基本は方角地名なのである、ただ海があると太平洋側は東がわかりやすい
でも近くの飯館村ですら意外な方向から陽が昇り陽が沈むとなり方角がわからなくなったのである、この人も近江の出身である、もともと国際性がある場所だった
近江というとき例えば関ケ原が東西を別れ地なのである、地理的に近江に出ると何か山間から出て心和むとなる、電車でも関ケ原は高地であり春でも雪が残っている
まだ寒いと感じる、これが歩いてみればさらに明確になる
関ケ原を出て近江に入ると景色が変わる、平野が開け琵琶湖を見える、この風景は中山道の山間を出てもそうである、その景色に安堵するほっとするのである
それで「行く春を近江の人と惜しみける」とか芭蕉がみちのくから北陸を旅してこういう俳句を残したのは別に人というのではなくその風土がまず心和むものとしてあったからである
琵琶湖は荒いというのもでもない、海とは別物だからである
そして平野も広くありそこに蓮華畑とか菜の花が似合っているということを感じたのである
人間とは人間そのものが作るものではない、作れない、地理とか風土とかから歴史が作られてきたのである、なぜ近江商人が生まれたのかとなるとまさに近江が交通の要衝だったからである、それでみちのくまで近江から渡来人であれ近江商人でもやってきたのである葛尾村の鉄生産で財を成した葛尾大尽屋敷跡になぜ近江八景を模した庭を作ったのか?そして妻まで近江からもらったのか?これも近江商人との関係があったからだともみる
妻がそこで近江を偲ぶために近江八景の庭を作らせたとなる
大津城に全国の蔵屋敷があったということでもそうである
そこに弘前とかもありこれは北前船で日本海から関係して蔵を作ったともみる
日本海側の越とかとは大伴家持が赴任したように関係が深かかったのである
それは何より琵琶湖に八十港があったように琵琶湖が交通の湖だったからである
琵琶湖があることで近江が作られたのである、人も作られたのである
世界でもなぜイスラエルがあの場所になるのか?それは神が定めた場所である
それでアブラハムは神の命令でその地に向かったのである
イスラエルは地中海にでてヨ−ロッパに向かう港にもなっていたからである
地理的に神が定めた地だともなっていたのである
だから世界を知るとしてもまず地理がわからないと何も理解できないとなる
ただこの地理を知ることは実地にその場に行かないと実感できないのである
そこで誤解が生まれてくるのである、世界だと行く場所が限られているから余計にそうなる、なぜネパールとかで3000、4000メートルの所に住んでいるのかとなるからだどうしてそんな所で生活できるのかとなるからだ
近江で不思議だったのは高島町がある湖西から見て東の方から太陽が昇ることである
湖西とは西だから太陽が沈む場所なのである、太陽が沈む西は何か淋しい感覚になるのである、でも関ケ原辺りから陽が昇るということが不思議になるのである
方角が旅するとわからなくなるからである、
近江国滋賀郡小野村(現在の大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身
小野妹子が陽が昇る国から陽の沈む国へと中国に行って言ったのはやはり人間は方角が旅すると一番気になるからだともなる
とにかく方角がわからなくなり意外な方向から陽が昇ったり沈んだりするからである
だから地名の基本は方角地名なのである、ただ海があると太平洋側は東がわかりやすい
でも近くの飯館村ですら意外な方向から陽が昇り陽が沈むとなり方角がわからなくなったのである、この人も近江の出身である、もともと国際性がある場所だった
鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に 高山(たかやま)は・・・
鶏が鳴く東壮士の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み
鶏が鳴くということは朝が明けると鶏が朝を告げて鳴くからである、東壮士(あづまおとこ)であり東とは吾が妻のことである、東に分かれた妻を偲ぶことで東となった
普通は東(ひがし)なのになぜここだけが東となり福島市に吾妻山があるのかとなる
方角地名に人間的なものが入るのはやはり東西を境にして人間が分れることかそうなったのか?壬申の乱でも東西の勢力が争った場所であり関ケ原でもそうだったからである
古代からも近江が要衝の地であり戦国時代でもそうだった、信長が天下布武を宣言して近江に安土城を築いたかのもそうである、そこがやはり日本の地理の交通の要衝の地としてあったからである、ただ大阪とか京都と違うのは意外と広い平野があり田舎という感覚になる、大阪とか京都とは今見るとビルとか家とか人が密集しているから心が和まないのである、でも近江は平野が広く田んぼもあり琵琶湖があるから心なごむのである
そこにまだ自然があるということで心なごむのである
名古屋でも大都会であり伊勢湾があるにしてもやはり大都会だから違っている
やはり自然が消失するとそこはいくら歴史があっても魅力がなくなる
そこで芭蕉も近江で氏に朝日将軍と言われた木曽義仲も義忠寺に眠っているのも合っているとなる、中山道からも近江に出てくると安堵するほっとするとなるからだ
日本はそもそも山が多いから山からでて平野を見るときほっとするということがある
山には山のいい点かあるが心を狭くする、閉ざされた感覚になる
でも広々とした平野に出ると心も拓けるとなる、つまり地理とかそもそも心に影響してそうなるのである
私の住んでいる場所は太平洋側にあるにしても阿武隈山脈高原に中通りとか会津はさらに見えない、その見えないことが一体感を感じなくさせているのだ
猪苗代湖だって見えないからだ、ただ原町区からでも高台から金華山と牡鹿半島が見えたのである、だからそこで宮城県の方と一体感を感じるし蔵王でも八沢浦からも見えたのでそこで地理的一体感を感じる、見えないと感じないのである
琵琶湖だったら近江として一体感をもてるのである、だから地理的一体感があると人間もその影響を受ける、平地があるとまとまりやすいとなる
山々にさえぎられるとアフガニスタンのようにまとまらないともなる
統治しにくいともなる、一体感をもちにくいからである
近江粟田郡の鉄生産地と陸奥行方郡真野郷の密接なつながり
(直接鉄生産の工人が行き来していた)
http://musubu2.sblo.jp/article/186269461.html
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