廃屋から感じる淋しさ
(原発避難区域の復興はない)
飯館村の養蚕していた家
廃屋だらけの村とか街とかを普通は経験できない、そこは遠くから来るなら別に感じることはない、通り過ぎてゆくだけだからである、ただ面白いとかなるだけである
それで廃墟の村を訪れて紹介する
でもこれが近くだと違ってくる、廃屋には何か荒寥としたものを感じる
それが数軒とかなていれば感じない、どこでも今は空家がいたるところにあるからだ
でもまだ人がそれなりに住んでいるから感じない
ただそれでも廃屋には何か一段と淋しいものを感じる
その理由は何かわからない、やはり人が住んでいたということで人が住まなくなったとき一段と淋しいものを感じる
それで庭でも石でも人が住んでいないと一段と淋しいものを感じる
その庭の石は人間化した石とばなっていたからである
津浪で家が流されて庭だけが残された所がある、そこにはいろいろな石がある
平板な大きな石があるとするとそれがやはり人間にも見えて庭に離れない離れたくないともなる、何かそこに住んでいた人間の気持ちが石にうつる
もともと石は一定の場所に動かない、定着するものである
そこに人間が住んでいると石も人間化する、だからもともと人が住んでいない所にある
自然の石と人間が住んで感じる石は違っている
何か飯館村とかでも廃屋だらけだからそこは荒寥としたものになる
もともと飯館村などは一軒一軒家が林の中に隠れてあった、そして前の広い庭に畑があったりし花が映えていた、だから淋しい村だったのである、隠された村だったのである
でもそこが廃屋の村となったとき隠された村とも違う、一段と淋しいものとなる
確かに瀟洒な小さな新しい家を建てている、それは廃屋ではない
でも人が住んでいなかったのである、最初人が住んでいると錯覚していた
そこはただ別荘のように時々住んでいた人が帰ってくるという
やはり人が住んでいないのである
そもそも家に感じたことは人が住んでこそ家である、人が住んで家が活きている
人が住んでいなかったいくら立派な家でも大きな幽霊屋敷になるだけである
家は死んでしまうのである、何かの抜け殻のようになる
それは村とか街でも人が住まなくなればゴーストタウンになる
そんなことを近くで経験するとは思わなかった、そういうことを実感することはなかなか普通はできないだろう
人が住まないと住むのでは相当に差がある、あばら屋でも人が住んでいれば活きているのである
もともと人が住んでいない場所で原始の森とかになっていればそう感じないのである
一旦人が住むと人間化するから人がいなくなると淋しく感じるのである
原発避難区域になった場所は全体的にそうである、住んでいるのは老人だけであり
余計に淋しく感じるのである、子供がいないということはやがて老人もさらに年をとり介護になったりしたら子どもに引き取られるとかになる
外部から来て住んでいる人も若い人ではない、その人たちもすぐに年をとる、すると病院もないし施設とか介護とかで働く人もいないから住めなくなる
そういう未来しか見えてこないのである
そのために小高とか浪江でも便利な原町に移り住んだとなる
そして故郷には帰らないとなる
ただ正直全国で空家が800万軒にもなるというのは恐怖である
いたるところに空家が増えて放置されると全体にも影響する
空家はいつまでもそのつまにしておくと問題になる、高度成長期とかなるとそういう家には何かしら利用していた、ただ家が50万くらいで持てるという時代にもなる
そのままに空家にしているより誰でもいいから住んでくれとなるからだ
空家とか廃屋があると印象が悪くなるからである
とにかく原発避難区域になった所は何か回復がむずかしいように見える
もともと過疎化していたとかもあり原発事故で最悪になってしまったのである
いつまでも廃屋としてあってもそれが印象を悪くする
何か幽霊が本当に住んでいる感じになる、そういう所にはあまり行きたくないとなる
でも建物だけ立派にしても人が住まないとやはり復興したとはならない
いくら金をつぎ込んでも建物を立派にしても復興しないのである
だから戦後の引揚者が飯館村なども木戸木(こどき)とか辺鄙な場所に開墾に入り住んだそいいう時代はかえって山に活気があった
一万人以上も飯館村でも住んでいた時代があったから山では農林関係とか石材とかで仕事があった、貧しくても仕事があり一応それだけの人が住める村だったのである
戦後に引揚者が開墾に入った人達が多く一万人以上になった、その後は減りつづけた
ただ6000千人くらいが適正人口だったのか、戦後は引揚者で増えた
戦後引揚者が開墾に入り一万人にもなった、その後は低下するだけだった
また牧畜で牛を飼うことで仕事をもったのでなんとか人口を維持してきた
牛の村として維持できていた経過がある
それも放射線量被害で急激に減ったのである
意外と菊池製作所は残っていてまた川俣の方に働く人もいた、農林業だけではないものは残り生活できているともなる、社会がもともとそういうふうに変わっていたからである
写真の家は二階が兜作りの養蚕をした家である
そういう家は今でも全国で多いのである、また絹織物の機織りの紡績工場が全国に多かった、それがアメリカなどへの輸出品となっていたのである
そういう時代の遺産として今でもいたるところに兜作りの養蚕した家が残っているのである
不思議なのは戦後でもアメリカに生糸などを輸出して日本の経済が成り立っていたのである、だからアメリカと戦争したら生糸でも売れなくなる日本の経済が成り立たなくなっていた、だから経済的な面でもアメリカとの戦争は無謀だったのである
戦後引揚者が開墾に入り一万人にもなった、その後は低下するだけだった
また牧畜で牛を飼うことで仕事をもったのでなんとか人口を維持してきた
牛の村として維持できていた経過がある
それも放射線量被害で急激に減ったのである
意外と菊池製作所は残っていてまた川俣の方に働く人もいた、農林業だけではないものは残り生活できているともなる、社会がもともとそういうふうに変わっていたからである
写真の家は二階が兜作りの養蚕をした家である
そういう家は今でも全国で多いのである、また絹織物の機織りの紡績工場が全国に多かった、それがアメリカなどへの輸出品となっていたのである
そういう時代の遺産として今でもいたるところに兜作りの養蚕した家が残っているのである
不思議なのは戦後でもアメリカに生糸などを輸出して日本の経済が成り立っていたのである、だからアメリカと戦争したら生糸でも売れなくなる日本の経済が成り立たなくなっていた、だから経済的な面でもアメリカとの戦争は無謀だったのである
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