2021年11月06日

霊山から下り霊山町の石戸へ歴史を偲ぶ (時雨の短歌に俳句)


霊山から下り霊山町の石戸へ歴史を偲ぶ

(時雨の短歌に俳句)

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ーーーー霊山町石戸村ーーーーー



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伊達市は柿で有名である、だから柿が多くなっていた
それで放射線被害で作れないとして騒いだのである

蔵が二つある家がある、やはりそれは栄えた家だと見る

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旅に老ゆ霊山の麓時雨かな

柿あまた十数軒の石戸かな

石戸なれ家十数軒時雨かな

犬飼のバス停残りしぐれかな

山茶花や土蔵に日さし石戸かな

秋あざみ草の花あわれ石戸かな


霊山を我が下り行く落ち延ぶや風に吹き散り木の葉の舞いぬ

一時に木の葉のともに散りにけり南朝亡ぶ霊山暗し

霊山を下ればたちまち打ち曇り時雨にぬるや旅路急ぎぬ

奥深く霊山神社の隠されて南朝伝ゆ秋深まりぬ


飯館村の佐須から霊山に上り「りょうぜん紅彩館」で芋煮を食べた、あと蜂蜜ユズサイダーを飲んだ、それが飯坂で作っていたのである、飯坂は温泉街でも寂れた
だから何かこういうものを作っているのかとも思った
芋煮は1000円で安かった、他にうどんと天ぷらがついていたからだ
私は一人暮らしで料理に困っている、食堂でも同じものであきるからだ
だから芋煮は食べられて得した、それも安かったからである

今回は霊山から福島市の方に下って霊山町の方に出た、今回はバッテリーを二つ備えることができたので余裕があって行けた、対かいバッテリーが切れるからである
でも一つで90キロとか行けるから二つになると余裕がある
それで霊山から坂を下った、この坂が結構長かったのである
前は良くこっちの方まで行っていたがもう数十年も行っていない、特に介護になってから本当に遠くに行っていない、だから地理でもからなくなっていた

霊山神社に行ったことがあってもあんなに奥深い所だったのかといぶかった
人間はとにかく地理でも何十年も過ぎるとわからなくなる、近くでもそうなのである
ましてや遠くになればさらにわからなくなる
近くだと何回も行けば記憶が蘇るからだ
ただ今回失敗したのはカメラに記録するカードを入れるのを忘れたことである
二つもっていて一つにcardか入っていなかったのは失敗だった

何か今回結構長い距離だったので旅をした感じになった、前は阿武隈高原を自由に思いのままに自転車で目的もなく回っていたのである
だからつくづく自分は恵まれていたのである、20代で苦しんでも後は旅に明け暮れるだけだった
ただ旅とも遠ざかり旅の感覚を忘れていた
それで霊山から石戸に出たとき時雨になった、そこで旅情を感じた
時雨というとき山頭火が有名であゃ時雨の俳人となっていた
ただ山頭火の場合は本当の旅人だった、あれだけの旅をしたということは驚嘆する
とても自分にはできないからだ、歩いて旅した最後の人だったとなる

旅する時歩くのと車ではまるで違ったものになる、まず車では旅はありえない
ただ移動なのである、なぜなら今回のように時雨など感じないからである
時雨とか風を感じるのには歩くか自転車である、バイクでも早すぎるからだめなのである一応風くらいは感じるが早すぎる、その早すぎることは人間の五感が働かないとなる
だから俳句とか短歌でも作れないとなる

今回霊山を下り石戸に出たとき不思議だった、そこは前に通ったとしても見慣れない初めて来た場所のようになっていた、ここはどこだろうといぶかった
家も少ない、そこに古い土蔵があったり犬飼というバス停が残っていたりして印象に残った、まだバス停があるのかと見た、ただ他でもバス停がありそこに地名が記されているから興味を持つのである、何か一つの記念碑のようになっているのだ
そしてこの石戸という名前が良かったのである、石の部落ともなりそれが良かったのである、地名は何か日本だとその場所を象徴するものとなるからだ、それで旅するとどうしても地名に興味をもったのである、そこから私は歴史にも興味をもち地理にも今日を見もったとなる、ただ旅するにしてももはやその時間は限られている
急ぐ旅ともなり時雨に濡れたということが象徴している、時雨はなにか死をイメージするからである

霊山はまず歴史を知らないとつまらないともなる、霊山は南朝の城でありそこが大事なのである、南朝系統と北朝系統は日本全国を二分した、その歴史は日本の隅々まで残っている、辺鄙な村にも残っている、それだけ二分した争いだったのである
そもそも相馬市とか南相馬市とか鹿島区になるとその霊山から逃れた落武者の末裔が住んだ所だからである、つまり先祖にもなっている
それが只野氏だったのである、只野氏とは郡山市の多田野村から発していたのである
同級生の一人が真野の江垂のお浜下りのおつづら馬という役で荷物を運ぶものとして重要な役目としてあった、ともかく只野という姓が鹿島区だけで50人くらいいるし近辺にもいたそれは南朝の末裔なのである

霊山はそうして歴史の町なのである、霊山神社には顕家の像があり二十代の若さで戦死したからだ、この南朝系統の神社は相当にある、そして大事なのは明治天皇は南朝系統だとしている、明治維新で重んじられたのは南朝なのである
だから明治でも南北朝の歴史が影響していたのである
だから日本の歴史でこの南北朝の争いがどれだけ影響したかは計り知れないとなる
その重要な歴史の拠点となっているのが霊山城だったのである
その規模は仏教の修行者の寺となることから南朝の城になったのである
ただ遺跡としてあまり残っていないからなかなか偲べないとはなるがその歴史はこの辺では相当に主要なものとなっている
それで野馬追の旗にその南朝の菊印が出ていたのである、それは鹿島区から出ていたのである

ともかく自転車でバッテリーを二つにしたら結構遠くに行ける、それでまた次は飯館村の佐須から霊山を下り丸森の方に行くことにした、ここは歴史の道でもある
バッテリが二つあると180キロ行けるから余裕になる、ただ坂でかなり消耗するからこの通りにはならない、今回思った以上疲れなかったのでまた近々行くことにした
やはり秋は涼しいからサイクリングには適している
ともかく旅はやめられない、それでまた長距離用の電動自転車を買った
でも部品がないとかでそれがいつ使えるのかわからない、来年になってしまうしいつ乗れるかわからない、今の自転車が荷台がないので長距離には向いていないからだ

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鹿島区に南朝系統の旗がある、天皇の菊の紋だからである

では次回をご期待!



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