2021年12月21日

人間は他人の苦しみを理解できない (苦しみを経験した人同士が理解し合える―認知症も理解できない)


人間は他人の苦しみを理解できない

(苦しみを経験した人同士が理解し合える―認知症も理解できない)


人間は他者をまず理解することがむずかしい、他人の苦しみを理解すること自体むずかしい、なぜなら何に苦しんでいるのか理解できないからである
また様々な苦しみがあってもそれぞれ違ったものだからである
それで推理ドラマで良く同じような苦しみを持った人が仲間となり恨みを晴らすとういうストリーになる
それは子供なくした親だった、20代くらいとか10歳以下とかの子供が殺されたとか
恨みを共有した、それで仲間で恨みを晴らすために殺人者になった
同じような深い恨みを持つことで互いに理解しあうともなる
子供なくす親の気持ちがわかるかという時まさにそうなのである
その痛みを簡単に経験しないとわからなからである、そういうことは他にいくらでもある

他にもありふれているのは貧乏の苦しみである、毎月電気ガス水道代が払えない人がいる今日本が貧乏になるとき貧乏で苦しむようになる、でも貧乏でも苦しんでみないとわからない、だから金ないんだよといっても別に他人と同情したりしない
たいがい福祉係相談しろとかで終わりである
そういうボトムの人、どん底の貧乏はそれ以下になると家賃が払えないとかでホームレスになったり餓死するまでにもなる、暖房がとれなくて凍死でもありうる
夏にはエアコンがなくて死んだ老人もいた
またおにぎり食べたいと言って死んだ人もいる
それも近くにいても無関心であり隣人に食べるものがないとか言えない時代だからそうなったともなる
現代は何でも自己責任になってしまう、そうなったのはお前は悪いのだとなってしまう
そういう面は確かにある、カルマがありそうなったとことはある

でもそもそも人間は他人の苦しみを理解できないのである
それは自分自身が身内が認知症になったとき四苦八苦して苦しんだ
また親の介護でもう本当に七転八倒で苦しんだ、でも他者は笑っていただけだとなっていた
まず認知症の人も実は苦しんでいる、これも痛ましい病気だったのである
これは先天的異常な精神障害者とも違っていた
人間として長く生きてわかっている、先天的精神障害者はわからない、でも親だというとき私はあなたを愛して苦労して育てとかわかっているのだ
だから冷たくすると不満になり怒るともなる
ただ自分の場合は特別良くされたので必死になって看病したのである
それで介護していて認知症がどういうものか理解するようになった
認知症の人も苦しんでいる、物忘れでも苦しんでいる、それで二階に着るものを置いたのも忘れてなくなったと泣いていたのである
つまり認知症の人も脳の病であり苦しんでいたのである
最初はわからなかったが徐々にわかってきたのである、でも他者は馬鹿になったとか笑っているだけだった、ただ一人だけかわいそうだと同情していたのである
その人は特別情に篤い人でありそんな人が今や田舎でも絶滅危惧種のようにいないのである

人間はこうして他者の苦しみとかでも無関心でありむしろ他者が苦しむの楽しむとういことさえある、他人の不幸は蜜の味にもなる、田舎ではその傾向が強いのである
田舎の人間が素朴など今は全くないのである
自分でも同情されたこともないし、むしろ病院では虐待されたりした
医者とか病院でも意外と体は見ていてもその人全体を見る人はいない
だからその人は貧乏で栄養がとれない、果物を食べれないとなっている
でも医者は栄養とらないとだめだと言う、でも金がないのだからとれないのである
そこまで医者とかは見ないのである、金をくれることなどはないのである
でも江戸時代の医者は医は仁術だというとき何か人間全体を見ていたのかもしれない
ただその時は医療が発達していないので同情することが先決になり結局体は直せないとなっていたからそうなったとしている
今なら「同情するなら金をくれ」とかなる、金を払えば高額な治療をして直るということもありうるからだ、それも時代の相違でそうなっている

いづれにしろ確かなことは人間は同情するにも相手のことを理解しないとできない
ただわかる人はわかるのかもしれない、病院の看護婦長がこの人は母親を介護しているのに入院していると理解していた、この看護婦長は書類だけから理解したのである
自分とは話ししたこともないからである、でも看護師はそんなこと知る由もない、冷たくされたのである、だから看護婦長とかなるとやはり人間全体をみれる
ただそれもなかなかできないだろう、まず書類だけからその人を簡単に判断できないだろう、ただ医者とか看護師となるとそこまで見ることが要求されるがほとんどしない
だから虐待までになっていることがある
ただこうして同情していたらきりがないということもある
一人だけを診るのではないからである

他者の苦しみを理解しないかぎりその苦しみがわからない、だから同情もできないとなる自分自身が同じような苦しみを受ければ理解し合えるのである
それはこの辺で起きたこと津波の被害や原発事故の避難者とかでもそうである
それがすぐ近くで起きていても当事者にならないかぎりその苦しみはわからないのであるそんなに近くで起きたことでもそうなのである
別に被害に合わないとわからないからである、それでお前はこんなに苦しんでいのに楽しいのかとか原発避難者に批判されたりしたし津波の被害者にも批判された
でもその人たちは全国の人から同情されて援助されていた
近くの原発避難者であれ津波の被害者であれ毎日のようにボランティアが来ていたからである

でも自分が両親の介護であれ自分の病気であれ苦しんでいても誰も同情などしない、むしろ笑っているだけだったのである
個々人の場合はこうして普通は同情されたりしないのである、他人は笑っていて他人の苦しみを楽しんでいるとなる
それは相手の苦しみが理解できないからである
俺はこんなに苦しんでいるのにお前は楽しんでいるのかと言われけど自分自身もそうなのである、俺はこんなに苦しんでいるのに笑って楽しんでいるのかとなっていたのである
ただその時は原発避難者でも津浪の被害者でも全国から同情されていたのである
そこに救いがあったとはなるかもしれない、普通は個々人のことなど無関心だからである

とにかく他者を理解するというとき相手の苦しみを理解できない、まず認知症とかなる
何かわからないからである、介護してみないかぎりわからないからである
貧乏でもわからない、どん底にいる人たちのことを理解することができない
あなたは何か苦しんでいるのとか何かわからないのである
ただ福祉に相談しろとかで終わりなのである、ただそういう人はいくらでもいるからいちいち同情していたらきりがないとはなる
それで創価のカルト教団であれ共産党であれそういう場所に行くことにもなる
エホバなどもそうである、でもそういう組織は同情するわけでもない、一票を得るとか勢力を拡大することが目的でありその背後関係も謎だとなる

聖書のヨブとかなると苦しみと戦いなぜこんなに苦しむのだと神をに問う物語である
それでこの世に神も仏もないとなる、ただそこで信仰は失わなかった
ただそれだけの苦しみを受けて耐えることは至難だとなる
結局余りの苦難の故に妻にも捨てられたからである、妻でも実際はそうした過度な苦しみになると苦しみを共にしないし捨てるということである
そしてヨブは一人苦しんで神と問答したとなる






posted by 老鶯 at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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