2021年12月29日

天皇とは何なのか、その在り方を問う (政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの)


天皇とは何なのか、その在り方を問う

(政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの)
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【日本国憲法第1条】

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く


日本帝国憲法(抄)】

第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
(以下省略)


テレビの議論で聖なるものと俗なるものがあり聖なるものとしての天皇と俗なるものの天天皇観で対立していもめている
それが真子様の結婚問題でもあった、そもそも聖なるものとは何なのか?
天皇はなぜ聖なるものなのか?その歴史は古代にさかのぼる
天皇とはまさにそうした超越した存在として国を治めるものとして現れていた

大君《おほきみ》は神《かみ》にしませば天雲《あまぐも》の雷《いかづち》のうへに廬《いほり》せるかも 〔巻三・二三五〕 柿本人麿

 天皇(持統天皇)雷岳《いかずちのおか》(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献《たてまつ》った歌である。
 一首の意は、天皇は現人神《あらひとがみ》にましますから、今、天に轟《とどろ》く雷《いかずち》の名を持っている山のうえに行宮《あんぐう》を御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随《かむながら》にましますというのである。
 
 邪馬台国の卑弥呼は神に仕える巫女として「鬼道(きどう)」と呼ばれる呪術によって神の御告げを民に伝え、国を統治していました
 
 この鬼道は呪術とかであり宗教ともなる、そもそも古代とかなると神聖政治であり宗教と政治は一体でありその権威と聖なるものであり絶対だったとなる
人々とその力を畏れ従ったとなる
それはエジプトでもそうだしその後のキリスト教でもそうであり特にカトリックは政治と一体化した宗教組織である
神像に満ちているエジプトでも祭政一致の国家であり王は神にもなっていた
その神像とは偶像でもあったのだ
その偶像の国から脱出したのがモーゼである、そもそも宗教の起りは偶像崇拝を拒否することから始まているからである、イスラム教でもそれは同じである、イスラム教はアブラハムから分かれたものであり同根の宗教である

もともと宗教とは聖なるものでありその聖なるものを伝えるのが宗教であった
それがイスラエルの歴史だった、イスラエルの民を選んでその聖なるものを継続維持させることが歴史だった、だからイスラエルの歴史は特殊である
その権威は聖なるものでありそれが最終的にイエス・キリストに現れて神の子として聖霊として具現化したのである
ただイスラエルという国家を維持するものとしても聖なるものがありその聖なるものが預言者となりそれが歴史となったのである

これが日本だと神道にもあり仏教にもある、神道だと戦争の時は国家神道になり神の権威が日本全国の小社に付与された、そこでは必ず戦勝のための祈念がされている

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国威宣揚 武運長久〈飯館村の山津見神社)

それは神の力でもって戦争に勝つということを祈念しているのである
何かこのことが今でも全国のあらゆる神社に記録されて残っている
それは石に記されているから消えないのである
でも村の小社がもともとそうした戦勝祈念するために建てられたけではないのである
国家神道とは政教一致となり天皇が神となり神であるから絶対に負けないとなり
その戦争は宗教戦争ともなるから苛烈ともなり遂には一億総玉砕とまでなるところだったのである
そして天皇の人間宣言があり天皇が神であることは自ら否定されたのである
それでも広島に天皇が訪ねてこの責任はどうなりますか?
こう問われたとき天皇はしどろもどろになった、つまり三百万人の日本国民の死の責任が問われたのである
それは戦前の憲法では天皇が絶対的存在であり神なのだから日本国民はその神に服さねばならない、死ぬことも是認されたからである
つまり国家神道は政教一致だからそうなったのである

創価でもそうである、日蓮の思想は王仏冥合があり王は政治であり仏と一体化したものを是認している、完全な政教一致だからこそ選挙は王となるための仏として成仏するための仏法の戦いだから必死になる、それは天皇の国家神道と同じなのである
聖なるものが国家により組織団体によって利用されてそのために政治的に利用される
戦争の時は軍部によって利用されたから危険だとなり政教分離になったのである

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

ここで日本国民の総意に基づくということとあるがこれはありえないのである
歴史的に見て国民など存在しないからである、国民という概念は明治以降に現れたものであり日本国民は存在しなかったのである
江戸時代でも民はそれぞれの藩に属していて国家に属しているということはなかった
だから天皇が存在していても江戸時代の人は天皇のことなど知らなかった
家康が東照権現として祀られたり相馬藩だったら相馬氏の静かな佇まい都玉(くにたま)神社はかえって土地の人にとって身近だった、天皇のことより身近なものとして意識していてお参りしていたとなる

 相馬中村藩の第五代当主相馬昌胤氏は、文化や宗教に大変造詣が深く、相馬地方の文化発展に大いに寄与したのだという。
 その昌胤氏が寵愛していた子息の都胤(くにたね)が、五歳で早世したのを大いに嘆いて、この神社を建立したもの
 
 都胤(くにたねというときまさに都(国)の胤(種)だったともなる、それが国家的に拡大されたのが天皇だとなる、その子供は国の胤(種)ともなっているからだ
 その種は継続されるものとしてあったからだ、相馬野馬追いは現実に今も殿様が活きていて行列に参加して殿としているのである、歴史として相馬氏のデモストレ―ションが相馬野馬追いなのであり庶民の祭りではないから庶民は参加できないのである
侍の子孫しか参加できないのである、そこが他の祭りと違っているのである
 
明治維新で日本国家を近代国家にするとき天皇を中心にしたことがその後も尾をひいたのである、天皇は聖なる存在であり神でありこれを否定することは不敬となり内村鑑三とかが不敬罪になったし戦争の時は創価の牧口常三郎が戦争に反対して天皇を否定して獄死したのである
その反省から憲法でも国民の総意に基づき選ばれた象徴天皇となったのである

でもそもそも聖なるものは国民の総意に基づいて選ばれることはない、むしろ国民の総意に反してあるのが聖なる存在なのである、また大衆化して大衆のアイドルみたいなものでもない、畏れるものでもある
古代ではそうだった、恐るべきものとして畏怖するものとして天皇があった
それが近代化されたとき政教分離を取り入れないことで日本の場合政教一致になり継続されたのである、それが日本が本当に近代化されないことだったのである
政治と宗教を分けて政教分離になったのはカトリックが権力をもって政治化していたからその反発から生まれた歴史的経緯がある
聖なる権威を利用して政治化して権力化したのである

それは創価とかカルト教団に今も現実に社会を牛耳る力をもっていることなのである
聖と俗が一体化している、選挙で勝つことが仏法の勝利であり戦争なら日本は神の国であり戦争に勝つと同じなのである
別にそれは宗教団体でも一票を投じる権利があるとなるが創価の場合は宗教と一体化して選挙は仏法の戦いだから負けないとなり常に常勝だとなる
それは天皇を神聖なものとして神として戦争となったのと似ているのである
天皇に逆らうのか、仏に逆らうのか、罰が当たるとか地獄に落ちるとかなるのである
聖なるものの悪魔的利用なのである、悪魔がサタンが聖なる権威を利用しているとなる
それは宗教でカトリックでも起きてきたことである、そういう宗教の組織集団が実はサタンに牛耳られたいたのである

そしてカルト教団では個々の人間も二重人格になっている
聖なるものを説きその実はそれを利用している悪徳の僧のようにもなっているのである
仮面人間にもなっている、実はそういう人は自ずと善人ずらした悪人なのである
優れた宗教家がパウロでも私は悪人であり罪深いとか親鸞でも俺は悪人だというとき
そういう人がむしろ真の宗教家だともなる
ただ大衆化して大衆に祭り上げられたものでありそんな大衆に祭りあげられたものが聖なるものではありえないのである

だからこうして大衆に祭り上げられた聖なるものとされるとそうした組織集団の会員は常に俺たちに従わなければ罰当たるとか地獄に落ちるとか言うのである
でも逆に今度は公明党議員が賄賂をもらっていたとかなってその宗教自体が聖なるものが攻撃されるのである
それは天皇が聖なるものとしてあり現人神(あらひとかみ)としてあったのだが戦争に負けてその責任を問われたのと似ているのである
第一俗人が欲にまみれたものが地獄に落ちるとか罰あたるとか軽く言うことがどういうことなのか省みることもないのである

何か聖なるものが軽く扱われ乱用される、そうしてそもそも聖なるものが汚されたのである
要するに聖なるものとは何か?それはまるで物を売買して得られるものではない、簡単に安易に近づけるものではない、それを俗人が大衆が安易に取り扱うことは危険になる
だから触らぬ神にたたりなしになった
結局聖なるもの仏であれ与えられぬのは罰と地獄に行くとかだけになる

とにかく宗教を安易にふりまわすことは危険だった、それが逆に自分の身にりかかってくるからだ、俗にまみれ悪にまみれた者が聖なるものを宗教をふりまわすことは危険なのである
いづれにしろカルト教団は自己矛盾になってくる、それは聖なるものと俗なるもの分離しないで一体化したからそうなる
そして大衆社会は俗なる力が強大化してファシズムになった歴史だったのである
大衆民主主義社会はファシズムとなるナチスとなる、帰結としてそうなるのである

天皇の問題とは何なのか?おそらく聖なるものとしての権威がありそれが大衆化してアイドル化したものとなればその権威は失われる、そこで真子様の結婚問題があった
一人間として皇室にも基本的人権があり誰と結婚するから本人同士の合意で成立つとなるいづれにしろ聖なる権威としての天皇は戦争に負けて喪失した
その後の大衆化されたまるでアイドルのような天皇はその権威も喪失してゆくのかもしれない、天皇とは俺たち平民と庶民と大衆と同じなのだということしかない
天皇すら現代社会では水平化されて一庶民となり天皇は庶民に頭を下げる同じ人間だとなる、だからもう戦争のように神格化されることはありえない

この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

これほど聖なるものを貶めているものもない、むしろ聖なるものとは国民の総意に基づかない、むしろ国民の総意に反するものこそ聖なるものでありそれは国民にとって大衆にとっては敵対するものですらある、だから預言者は国民であれ平民であれ庶民であれ殺されてきたともなる
国民の総意とは大衆の総意であり結局数が多ければ総意となるからだ
そんな総意で決められるのが聖なるものでありえない、数の多さによって聖なるものが決められることなどありえない
むしろ聖なるものは神によって選ばれた一人しかないとなるからだ
その一人に全国民が大衆が反発するものであり殺されるべきものだとまでなる
結局国民の総意で戦争があり地元民の総意で原発が作られるとか国民の総意自体が恐ろしい結果を産む、国民の総意でナチスが生まれ大量殺戮があり民主主義がナチスが生まれたからである
しかしあらゆる人が水平化する平等化するとき天皇を特別扱いする人はなくなるだろう

あいつも俺らと同じ人間だ!

国民の総意となればそうである、誰も今や聖なるものなど認めないからである
何か近くに今の天皇と似た顔の人がいる、その人は一庶民にすぎない
だから天皇も一庶民でありなぜ特別崇めるのかとなる、そういう感情に国民がなっているつまり聖なるものとして権威はもう天皇にもないし他もないのである
ただ俗なるものがこの世を席巻する、それは国民の総意であり大衆の総意でありその祭り上げるのは大俗人のカルト教団の長だったりする,ナチスのヒットラーにもなる
そのヒットラーとは何者だったのか、国民の大衆の総意で祭り上げれらた偶像だったとなる、それは虚像でも良かった、そのことの恐怖は実際に架空のことではなく何百万人も死んだことにあったのだ、それが現代文明社会が病理学的な問題としてあることなのである聖なるものでありそうしたものは大衆社会に踏みにじられ席巻される
数さえ集めれば勝利だとなる、それは神意だとか仏意だとかなる
恐ろしいのは今や天皇とかではない、大衆というわけのわからないものである
それらに聖なるものであれふみにじられ席巻されてしまうことである

今年の時事問題はいろいろあったが天皇の問題、真子様の結婚問題もそうだった
天皇も人権があり結婚も自由だとなった時、何か特別なものとしてあった聖域が破壊された感じになったのである、それは国民の総意に基づいて天皇が選ぶとなればそうなる
そもそも国民の総意とは何なのか?それは俗化して水平化して国民と大衆の意に従う同じ人間だとなってしまうからである
むしろ国民の総意に反したものこそ聖なるものでありそれは安易に近づけないものだからである

posted by 老鶯 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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