2022年01月07日

青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け (できることでもできないと思う先入観)


青年に告ぐー自分を小さく見積もるな―大望を抱け

(できることでもできないと思う先入観)

人間はどうしても先入観がありそれで左右されてしまう
私は最初から自転車旅行はできないと思っていた、あれは特別な体力がある若い人がやるものだと見ていたのである、これを20代に体力あるときにそう思っていたのである
そういう先入観があってそうなっていた、実際は自転車旅行は登山より楽だということがしてみてわかったのである
なぜなら疲れたら休めるし食事でも飲み物でもとれるからである
それで北海道旅行でも一か月したとしても一日休んでまた行ったのである
だから体力なくてもできなるとわかったのである
それは40代だったし別に50代でも行けるし60代だってできる
登山は体力ないとできないし危険になる、疲れ方が異常なのである
そして飲み物でもとれないし食事することも山小屋とかでしかできないとかなる
その山小屋すらなこともあるからだ、だから遭難ということがありそのため登山をやめたのである

それから海外旅行で失敗したのはこれもできないと思っていたのである
言葉も通じないしそんなところでどうして海外旅行できるのかと思っていた
それも一人旅ができるのかと思っていた
それも田舎にいて何かそういう情報にうとくなっていた
なぜなら円が80円のときがありその時はみんな海外旅行に金がなくても行っていた
中国に三回行ったけど物価が十分の一くらいの時があったのだ
だから今になると信じられない、都市部ではもう日本と変わりないとか高くさえなっているのである
海外旅行は本当に言葉が通じなくてもできる、なぜなら世界中が観光化しているからである、英語は中学英語くらいわかればいいともなる、もちろんそれ以上できれば楽である
ところが英語など全く通じない場所が世界でも多いのである
それでも海外旅行ができる、全然言葉が通じなくてもできる、若い人は感が働くから若い時は有利である、適応性があるからだ、私は50歳なって行ったからひどい目にあったのだ、でもその時初めて英語で外国人と話した経験をしたのである


人間はこうして先入観がありできないと思いこむ人が多いのである
それはおそらくあらゆることにそうなのかもしれない、私にはできない、他人はできるが私はできないと思い込んでしまっているのだ
それは環境とか時代も影響している、家族でも海外経験ある人がいればその人から直接聞けるからだ、そうでないと狭い田舎とかではできないと思いこんでしまうのである
だから家族環境とかがその人の一生に相当に左右するとなる
どんな家族に生まれるかで普通の人は一生が決まるとまでなる
どうしても人間的刺激は都会だと受けやすい、田舎では受けにくいのである
東京だといろいろな働く場所があるのも違っている、田舎だと知的な仕事など限られている、だから建築関係とかが多い、それで仕事がないから双葉とか大熊とかでは出稼ぎであり地元で働きたいと原発を誘致したのが失敗になったのである


そして家族でも実際は様々な家族がいる、その家族のことも異常な家族でも異常だと気づかないのである、自分の家族は普通の家族ではない、でも異常だと気づかないのである
家族とはそんなものだと思うのである、家族だけではない日本人として育てば日本人的な思考とかになる、だから日本を語れる人は外国生活を経験した人なのである
それは比較して日本が見えるようになるからである
日本を知るには相対的に見ないとわからないのである、日本で当たり前のことが外国では違ってくるしその逆でもそうである、だから留学経験は相当に価値あるものとなる
ただ語学を学ぶというだけではない外国を知り日本を知ることで価値がある
旅したくらいでぱわからないからである
本でもテレビなどを見ても実際はわからないのである、百聞は一見にしかずになるからだ
そして人間というのは自分を低くみつもる、俺はたいしたことがない人間だ、才能もないとか思いこんでいるのである、もちろん自分自身がそうだった


何にもいい所がなかったからだ、だからこの人は何にもならないと見られて当然だったのである、学校ではこの人は何にもできないと見られていたしそれも本当だったのである
体力もないし内向的だしぱっとしないそれより馬鹿のようにしか見えなかったのである
現実そういう所があった、私はどうしても集団生活になじめないのである
ただ別に天才のように優秀だからではない社交性とかなかったからだった
それが家族のもとを脱出して大学に行ってから変えることができた
一時体育会とか入りそんな大学の体育会でやれると思わなかった、それも体育会がどんな所か知らないので入ったのである、そもそも大学とはどんな所かも知らなかったのであるその頃大学というものを何か理解できなかったのである
もし体育会がどんな所か知っていれば入らなかったとなる
つまり知らないからそんな危険な場所に入ったのである、私はなんとか虚弱体質だから
強くなりたくて入ったのである

つまり人間とはこうして常に先入観を持っている、そんなことできないよとかなっているのだ、そういう人も多いのである、ところが人間の可能性は実はその本人もわからない
未知なのである、また生まれつきでも決まらない、天才は別にしても普通の人はそうなのである
例えば自分を見た師はこの人は何にもなれないと見ていたのである
それも当然だとなる、何か優れたものもなかったからである、多少文学的才能があったとしてもそれもあまりにも目立たないものだったからである
そして師とかは必要でもその危険はそうして自分の様な者は確かに低く見積もられても当然であった
でも将来はまだ30年とかあるとすればそのうちに人間が変わってゆく
どうなってゆくかわからないのである、何か不思議なのは60越えて70になってからとか理解力が深くなったのも不思議である、やはり死が目前に迫ると人間は目覚めるとかなる

そして師は必ず弟子を低く見積もる

これが師の問題なのである、お前はそんなものだよとかなる、とても大物にはなれないとかなる、確かに若い時見てればそうしか見えないのである
一般的に師は弟子を低く見る、そして弟子を奴隷のようにすることもある
ただ師を讃美するだけの弟子にしたいのである
だから俳句とか短歌の結社とか師でも多くいるがそんなものに従っていたら大物にはなれない、そんなところで師とかしているのは自分が偉いと見させたいためである
それらはみんな小物でありそんなものに従っていたらその人独自のものは発揮できない
そういう所はデレタンとが多いのである

例えばお前はネズミだからお前はネズミとして生きるほかないとかなる
でも人間は何ものかわからないのだ、将来はライオンとなりまた龍ともなるかもしれないただ師は必ず弟子でも低く見積もる、なぜなら自分より大きく偉くなるとかしたくないからである、だから小物でも師として威張っていたいのである
最も恐ろしいのは師が偶像化して師のロボットにされることである
カルト教団の教祖とかは最も危険である、一切のその人の個性は無視され教祖のロボットとされるからである、その人自身を生きることがなくなるのである
その人生は師のコピーとしてロボットとして生きることしかなかったとなる

そもそも人間は自分を自ら低く見積もっているのだ、俺はこんなものだとか見ている
でも人間の可能性はわからない、自分自身にとっても未知なのである
そして人生でもどう展開してゆくかもわからないのである
そうして思わず時代の英雄とかになった人がいる、それは時代がそうさせたのである
明治維新とかではそうである、だから三島由紀夫とかでもいくら英雄になろうとしてもなれない、英雄でも時代が作るからである、平和な時代にはなれないのである

ともかく俺はこんなものだよ自分と低く見積もるなとなる、さらに人生百年時代になるともう60才でも序の口だともなってしまうからである
今youtubeでも70代の人が語っている、若い人になるとどうしても人生を語りにくいが70代とかなる語れるとなるからだ
それだけ人生が長くなるとやはり人間は成長してゆく、とにかく理解力が深まるのである理解できないことが理解できるようになる、私は何か本を家を傾くほど買って読んでいたが理解するものはわずかだった、でも今になると自分なりに理解できるのである
だから評論に向いていると思うようになったのである

人間は成長しつづけるものである、そして世界は未知に満ちている、わからないことがいくらでもある、だから探求は死ぬまでつづくとなる
神はあなたを大きくしようとしている、そのためには自分は低く見積もらないことであるまた若い時から結果を出そうとしてあせらないことである
無駄飯を喰らってでも生きているとかの図々しさも必要になる
意外と引きこもりは社会から離脱して大自然と融合してゆくから何か大きなものと一体化する、でも社会だと現代文明はどんな仕事であれ部品になるから小さくされるのである
大鵬のようになったりしないのである、ただ正直そこにも大きな問題があった
自分自身は別に天才でもなんでもない、普通の人間でありむしろ普通の人間より劣っていた、才能があったとしてもそれはわずかなものだった

私は何か優秀だから天才だから引きこもりとかになったのではない、ただ社会に適合できない性格でありまた何か体もそうだったのである、集団の中にいると異常に緊張していられないからである
ただそこで社会常識すらなくなっていたのである、これも大きな問題だった
社会に生きる限り社会常識は必要なのである、それがないとニーチェとか狂気になって終わる、それはそれで認められるが引きこもりとアウトサイダーは何か社会から逸脱しまたそうなりやすいのである
俺は社畜だとかただこきつかわれるだけだとかしている人間も問題だがアウトサイダーも何かおかしな方向に行ってしまうのである、それで「小人閑居して不善成す」となる
それを自分自身が経験しているからである
閑居できる人間は実際は相当な社会常識もあってまたそれを逸脱できる人間でもあるとなるからまれなのである
つまり普通の人はできないのである、だから引きこもりとはそうして必ず不善な成すから危険にもなる、そういう人が60万人もいるということはやはり問題なのである
そんな優秀な人などもともといないからである、だから不善を成すとなり危険になる

汝は大望を抱け、まだ見ざる驚異の世界のあり
この世は未だ未知に満ちている
万年雪のヒマラヤの高峰を仰ぎ、グランドキャニオンを見
モンゴルの平原を望み中華大陸からシルクロードへ
汝は大鵬となりかなたへ飛ぶ
そを大いなるものを知られざるかな
雌伏百年汝は巨大化して大木となる
汝は百年黙想して大自然と同化せよ
一切の雑音を拒否して岩ともなりて
その場を動かざれ
汝は汝を低く見積もるな
汝は汝は知らじネズミとして自分を見る
他者も汝をネズミとしてしか見ない
ネズミとして同類と見るのだ
しかし汝は龍ともならん
大いなる自然に変化する
汝は思わざる所に行き神の業を見る
この世はすべてではない
汝は新しき天と地を見る
神の国は汝に与えられる
永遠の命が与えられて神の国に住む
そこにこそ真の実りがある
偽らざる実りがあり神とともに歓喜に生きる
そこには絶え間ない喜びがあり神の祝福がある
大調和の音楽が地の果てまで宇宙の果てまで
統一されてひびきわたる
一なる神が指揮をとり乱れることはない
さらなる全能なる神の業が成り統べる

詩を作ることは自然と一体化するアイディンティティ化することである
すると石や木や山でも沈黙している、すると同じように沈黙しないとアイディンティティ化できないのである、それを自分は一人で田舎でしてきた
私は引きこもりでも家族に責められたことがないのである、旅するにしてもどこにでも行ってみなさい、外国でも行ってみなさいと奨励されていたのである
だから家族の影響は大きいのである、自分を作ったのは姉と母だったとなるのである
ここで争っていたにしてもそうだった、そうして沈黙の行者のようになり大自然と同化することをしてきたのである、そして詩を作っていたのである

ともかく今が一番人生で充実している、ただ介護十年間は本当に心身ともに消耗した
それがだんだん回復して今が一番充実している
もともと自分は長生きできないと思っていた、体力的に思っていた
でも私の母は華奢であり重いものも持てないような細身の体だった
自分も似ているのである、でも百才まで生きたのである
だから意外と体力があるとないとか関係なく長生きする人はする
そして人生とはマラソンなのである、最初トップを走ってもつづかない、ところが徐々に後ろから上に上がってくる人がいるのだ、後半の10キロそして最後の5キロが勝負なのである、だから今私はゴール前の死の前の5キロに来ている
つまり勝利のテープ切ることが見えて来たともなるのだ
最後の力をふりしぼって栄冠を得る時に来ている
何でも今になって深く理解できるし気力も充実しているのである




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