2022年01月11日

新春大江戸俳句30句―浮世絵を見て


新春大江戸俳句30句―浮世絵を見て

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魚河岸

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まぐろがとれても余していた、まぐろは食べるところがなかったというのも
不思議である

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渡しがあった

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燕がとんでいるから春なのか

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凧あげは正月である



(東京の春)

大江戸線地下を出でて桜かな

春日さし百羽の鴎隅田川

春の日や両国橋を渡るかな

東京の店見て歩く春の暮


(大江戸の春)

大江戸の春の賑わい日本橋

江戸城の天主に遠く春の富士

百藩の大名集う江戸の春

連ねたる大名屋敷や春の月

塀長く大名屋敷や春日影

新たにそ大名行列江戸の春

大江戸や商家並びて春の来ぬ

春の江戸行き交う人や国いづこ

蔵百に舟百艘や江戸の春

侍も庶民も交じり花見かな

船宿や三味線の音柳かな

水路行く舟のまた来て春の水

貧乏や長屋住まいも江戸の春

合い別れ江戸の賑わい春の夢

三百年江戸の栄や春錦

(魚河岸)

江戸っ子の魚売り行く春の朝

競りの声ひびく魚河岸春の市

鯛担ぎ売る男や春の市

まぐろ一匹余す江戸の春



絵草子屋土産に買うや春の江戸

江戸の春大道芸の踊りかな

隅田川湿地広がり春の草

江戸の春乗合す人や渡しかな

つばめ来る蔵百並び隅田川

凧高く登れや正月城の見ゆ

霞が関歩いて春や船を見る



春の日や昔を想い涙かな

春の日や老いの涙を知りぬべし


悲しさや束の間の出合い春なれど人は去りゆく帰らざるかな





東京というというとき何か絵と詩になりにくくなっている、でも江戸になるとそれは絵なのである、江戸は今の東京とはまるで違っていた、全然別世界なのである
高層ビルでも車の洪水もない、だから江戸三百年の栄がありそれが不思議なのである
その江戸の中に想像で入ってゆくと不思議になる

そこに生きていた人たちがいた、その人たちの中に入ったら本当に不思議である
それができないからイメージで入ってゆくほかない、それで浮世絵が役にたつ
でも浮世絵は華やかだけど日本橋を撮った写真を見たけど明治になったら寂れていてとても江戸時代の橋とは違っていた、そこに当時の活気を全然感じなかったのである
浮世絵は画家が当時の活気ある江戸にふれた実感から描いた
だからその雰囲気はもうなくなっていたのである

その雰囲気を経験することはもうできないのである、一時代が去るとその時代の雰囲気がわからなくなる、それは戦前がわからなくなったのと同じである
でも私の団塊の世代は日本が焼野原になった時生まれた、その時は燃料は炭であり竈でご飯を炊いたりしていたのである、それはまるで江戸時代のつづきなのである
水道もなく水は近くの家からもらっていたのである
そういうことが今の人はイメージすらできなくなっている

ただ隅田川辺りは一応河が江戸時代と同じようにあるから偲ぶことができても余りにも変わりすぎたのである
隅田川とは中島がありそこに田があって隅田川となっていた、つまりそこに田がありその田で米がとれたことで隅田川になったのである、何か生活の匂いある地名だったのである
両国橋は、

左岸の本所(ほんじょ)がかつて下総(しもうさ)国に含まれたため、武蔵(むさし)・下総両国を結んだことが橋名となり、地名はこの橋に由来する

何かこういうことでも江戸でも別な国があり境ともなっていたのである

ともかく隅田川はにぎわった場所である、仙台掘りとかもあり仙台の石巻からは米が運ばれていた各地から米が江戸に運ばれていた、そこで蔵が立ち並んでいたのである
阿武隈川からも船で太平洋に出て伊達の米が運ばれていたとなる
旅したいとなる時今の東京には行きたくない、何かあまりにも変わりすぎたのである
何か見るべきものもないのだ、ただ高層ビルを仰いで騒音の中をさまよい帰るだけだとなる

それにしても江戸でもそうだが自分自身が東京の大学にいた、ただ自分の大学は東京から離れた川崎の田舎の方だったのである、でも東京には出ていた
でも東京のことは知らないのである、その後も東京に行ったが何か心に残ることがないのである、でも東京では今でもいろんな人が交わる日本の中心ではある
だからとにかくこの年になるとそういう場所に生きていたこと時代不思議になる
江戸時代でも江戸では地方の人々が参勤交代でも集まってにぎわっていた
一方で貧乏長屋で暮らしていた庶民がいた
何か時代劇を見ていると悪人ばかりのように錯覚する、それはみんなに見せるためにそうしている、実際は普通の人は悪人ではないし普通は善人として生活していた
かえって情に篤い人達が暮らしていた、ただドラマを見ていると何かみんな悪人ばかり住んでいたように見えるのである、未だって犯罪があるがそれは一部である
でも犯罪者ばかりのように錯覚するのてある、それが現代の情報社会なのである


ともかく老人になると本当に東京にも一応住んでいたことが不思議になる
それは一つの経験でありいい思い出があったとは言えない、でもそこに住んでいたことが不思議だとなる、江戸時代の江戸でもそうである
そこに参勤交代とか地方の人々が集まって住んでいた、でももうそのことは遠い昔でありそこに住んでいたことをもし江戸に生きて年老いたとしたらまた地方に帰って思い出す時なつかしくなる
結局人間は一場の一時の夢を見ているだけである、誰であれ生きていることが謎になってしまう、そんな所に自分がいたというのも不思議になる
それは江戸時代でもそうだし今でもそうである、ただ江戸時代の方が何か人間的であり人間が生きていたという感覚になる、だから江戸時代とかが好きなのである
人間が生きて活況があった、そして裸で市場で魚売っている男がいたのも驚きである
何か威勢がいい江戸っ子がいたとなる
ただそれはあくまでも昔だからそうイメージするのである
実際そこで生活していたら地獄だともなってしまうのである、ただそういう時代があったということは人間を豊かにする、そこに都会の都のにぎわいがありそれか貴重なものとなったのである

春の日や昔を想い涙かな

こうなってしまうのが人間だった、人間はただ一時一場の夢である、この世はそういう場所である、人間はだから年老いると何でもなつかしくなるのである
苦労とか嫌なことがあってもなつかしくなる、なぜなら間もなくこの世から消えでゆくからである
老いることはなかなか老人になってみないとわからない、でも老いるとわかる
人間は悲しいものだということがわかる、それは老人は人生をふりかえりみんなそう思うからである、それがなかなか若い人とかにはわからないのである
誰でも老いる、それでビートルズの歌を聴いて涙流していた人の気持ちがわかる
青春がありそれもあっというまに過ぎ去って二度と還ってこないのである
そして何か人生を悔いる人は多いだろう、罪を悔いる人もいるだろう
老人になれば誰しも人生とか人間はこういうものだったのかと悟るのである

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