冬の暮、枯木の影、冬椿 冬たんぽぽ(原町へー桜井古墳と方墳ー家族の肖像)
小林カツートミ子
桜井古墳の前の方墳
原町の郊外に咲く冬たんぽぽ
一回り桜井古墳や冬椿
木の根っこ方墳大や冬の暮
木の影の交わり濃きや冬深む
点々と灯ともり耐えて雪埋る
葉牡丹の目ただすあれど我が家に咲て一つなるかな
大輪の黄菊に姉の遺影映ゆ我が家にありてなおもほほえむ
今日はあたたかったから原町へ行った、寒いと外に出れない、依然として今までの創作品の整理に追われている、スマホが意外とめんどうである
写真をパソコンに送るにも送れないのが問題である
枯木の写真を撮ったが送れない、これはスマホの写真をデジタルカメラでとって出している
冬たんぽぽが咲くのはこの辺では海が近いからである、桜井古墳でも海が見えるし近い
ここと比べると会津の方になると雪に埋もれているからその風土の相違は大きい
会津とか雪国に住んだら自転車にも乗れず雪に埋もれて籠もっているほかない
だから雪国の生活というのはそこに住んでみない限り実感できないのである
何か毎日雪だったら暗くなってしまうだろう
桜井古墳の前の方墳も大きいものだった、そこに木の根っこがありふさわしいとなる
古墳というのはやはり歴史として残されたからここにあればやはり昔を歴史を偲ぶとなる何もなかったら偲べないのである、文書だけでは何か歴史を偲べない
外国だと石の建造物だからピラミッドでも何千年と残るし他でも残っている
どうしても日本人は歴史を身近に感じないのは過去が残されないからである
木だとせいぜい百年とか江戸時代のものが残っているのもめずらしいとなるからだ
だから昔を偲ぶというとき墓でも残れば物として残っているからは墓参りしても故人を偲び昔を偲ぶとなるのである
文書だけから人は情を通わせることができない、つまり物に対しては墓でも情を通わすことができるとなる
姉は大らかな性格であり社交的だった、母は地味だった、だから母だけだと自分にとっていいものではなかった、なぜなら細かいことにこだわるから嫌なのである
人間は必ずしも生まれた性質とか遺伝子とかがすべてはない、その後家族環境とか回りの影響でその人を作ることになる
姉はいつも笑っていたからそれで自分も何か大らかで安らぐとなっていたのである
何かけち臭いとそれも家風になる、母はけち臭いし他の人でも貧乏がひどったのでけち臭い女性となった、それもしかたがないとなるがそれが家風となってしまうことが問題なのである、家風は遺伝子だけではないその後の生活で作られる
あまりにもけち臭いと事業などしても失敗したのかとなる
一円でも無駄にしないと与えるのが嫌だとかなっている家もあったからである
ただ人間の性格もプラスマイナスがある姉は何か他人には冷たいと有為ことがあったからた、とにかく人間の性格とでもかたよりそれが異常になるのである
フラワーアレンジメントは家の中に長く飾っていると心にしみてくる、やはり何かを鑑賞するには時間が必要なのである
時間と場が必要である、このフラワーアレンジメントでも家族の遺影の前に飾ったら活きていた
つまり遺影と一体となって花が映えたのである、これがただ他の場所で花だけ鑑賞するのとは違っていたのである
だから何か死んだ人でも遺影となって生き続ける感じになっていたのである
姉は若い時戦前に花嫁修業として生け花を習っていた
でも嫁がずに家に一緒にいた、だから失敗したのは認知症になったとき花を一杯買って生け花をさせれば良かったとなる
認知症でも何もわからないわけではないからである
ただ混乱してなにがなんだかわからなくなりできなかったのである
それで自分がフラワーアレンジメントして見てくれとなったのである
自分にとっては家族はいいものだった、争っていてもいいものだった
自分には尽くしてくれたからである、今は誰も心配する者もいないし非情の世にいるだけとなった、他人は何かを与えてくれるものとしてしか来ない、まず金をくれとなり何か
その他はなにもないのである、これもカルマだったとなる
その結果として介護になり助けもなく病気にもなり一人過酷な苦しみになった
ただ自分は二人のことは忘れられないのである
母は葉牡丹で地味でありめだたない、姉はおおらかであり陽気であり目立つとなる
でもそれで一つの家族として調和していたともなる
だから人間とは家族でもそれぞれ複雑なのである、他人に理解しえないものがあるのだ
とにかく家族でも忘れられる、親でも他人にもなる、記憶が薄れてゆくからである
十年とかすぎればそうである、いつまでも偲んでいる人はやはりそこに愛が通っていて忘れられないとかある
ただ家族かすべてではない、最近思うことは一人人間がいるとしてその背後にはその土地とか様々な人々がかかわって一人の人間がいる
だから家族の愛といっても人間は家族だけで成立っているのではない
それで江戸時代の村落社会が一つの家族のようになっていたことがわかるのである
ある家が繁栄したとしてもそれは何かしら他人の力が加わってそうなっていたからであるその富はその家族だけで作れないからである、家族だけで個人だけで富は独占できないのである
金は天下の回りものというときそういうことなのである
自分にとっては家族はいいものだった、争っていてもいいものだった
自分には尽くしてくれたからである、今は誰も心配する者もいないし非情の世にいるだけとなった、他人は何かを与えてくれるものとしてしか来ない、まず金をくれとなり何か
その他はなにもないのである、これもカルマだったとなる
その結果として介護になり助けもなく病気にもなり一人過酷な苦しみになった
ただ自分は二人のことは忘れられないのである
母は葉牡丹で地味でありめだたない、姉はおおらかであり陽気であり目立つとなる
でもそれで一つの家族として調和していたともなる
だから人間とは家族でもそれぞれ複雑なのである、他人に理解しえないものがあるのだ
とにかく家族でも忘れられる、親でも他人にもなる、記憶が薄れてゆくからである
十年とかすぎればそうである、いつまでも偲んでいる人はやはりそこに愛が通っていて忘れられないとかある
ただ家族かすべてではない、最近思うことは一人人間がいるとしてその背後にはその土地とか様々な人々がかかわって一人の人間がいる
だから家族の愛といっても人間は家族だけで成立っているのではない
それで江戸時代の村落社会が一つの家族のようになっていたことがわかるのである
ある家が繁栄したとしてもそれは何かしら他人の力が加わってそうなっていたからであるその富はその家族だけで作れないからである、家族だけで個人だけで富は独占できないのである
金は天下の回りものというときそういうことなのである
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