2022年01月23日

南相馬市長選挙から (誰にでもいい子になる尖ったことは言えないー多数決の民主主義の限界)


南相馬市長選挙から

(誰にでもいい子になる尖ったことは言えないー多数決の民主主義の限界)

南相馬市長選挙でも何か尖ったことが言えない、誰にでもいいことを言う、そんなことは政治の世界でもありえないだろう、利益でも全部が満足することはない
必ず利益配分でも平等にはならず不満がある
結局それは不可能だからである
この辺で起きた原発事故の補償金問題でもそうだった
鹿島区は除外された感じになった、それより相馬市でも他の地域はもっと不満である
ほとんど補償金はもらえなかったからである

民主主義がゆきづまっているというときみんなにいい子にならないと票がとれないからである、だから誰でも批判したりしない、批判すると批判される人は票を得れないからである、とにかく多数をとることですべてが決まるからである
そうすればみんなにいい子になり誰も批判できないとなる

そこから何が起きて来るのか、原発事故のようなことが起きて来る
原発は政府とか東電主導で作られたものであったが地元にも原発マネーが回ったから
地元でも積極的に誘致して恩恵にあづかることをしていたのである
だから反対したものは本当に地元に住めなくなっていた
なんであいつは反対するんだ、金になるのに反対するんだ
原発は危険ではないとかなりそうして推理ドラマだけど反対者が殺されたのである
それは下請け会社であり産業廃棄物問題で俺たち零細な企業は仕事をもらえないと食べていけないと訴えた、その声が切実だったのである
ここでも東電から仕事をもらう電気関係の零細な会社がいた、すると同じことが起きたのである、だから反対したら地元に住めなくなったのである
なぜなら殺されるという恐怖におびえて暮らさなければならないとなればそうなる

東電から仕事をもらえない、飯の食い上げだ!

こうなっていたのである、東電に事故の時千人くらいの電気関係者が仕事していたともされる、それだけ巨大な会社だったのである

ともかく民主主義がアメリカでも限界だとか崩壊しつつある
それはもう民主主義がかえって危機には弱い、全員賛成とか多数決とかが公平なのようで公平ではない、シルバー民主主義とかでもそうである
老人が多いのだから将来を担う者より老人向きの政策になる
そうしなければそもそも選挙に勝てないからである
選挙に勝つことが第一なのだからそうなる、創価でも他の団体でもまとまった票を得ることが大事になる、それもいろいろな団体があるにしろ一つの団体に肩入れすると不公平になるから当り障りなのことを言いみんなのいい子になろうとする
それが結局後で怖いことになったのである

大衆民主主義では尖ったことは言えない!

みんなに誰にでもいい子になろうとする、そうしないと票が得られないからだ
ところがそれが危険になる、結局民主主義が一番ファシズムになりやすいシステムだったのである、ナチスは民主主義から生まれたからである
そこにもう反対意見は許されない、反対する者は排除されるだけである
多数が権力となり従わない者は弾圧される
原発ではそういうことになっていた、強力な「原子力村」が作られてとても反対できないものになっていた
誰ももはや反対できないのもとして権力で強固に作られてしまっていたのである

民主主義が機能しなくなったのはこうして誰も尖ったことは言わない
言えない、言ったら票は集まらないからである
集まったとしても少数であり選挙に勝てない
その主張は貫けない、選挙に勝つためには議員は何でもするというときもそうである
おべっかでもなんでもする、それは選挙に勝つことがすべてだからである
マスコミでも既得権者だから尖ったことは言わない、なぜならすると大勢を相手にしている大衆を相手にしているのだから言えないのである
マスコミもみんなにいい子になるだけである、それで視聴者でも読者でも確保しているからである
でも別に数十人でも数百人でもそういう人達に支持されることを言ってもいいとなる
そうすれば反対した人もいたのかとなり後で注目される
でもマスコミも大衆相手だからそういうことは言わないのである

南相馬市長選挙でも何か争点もわからない、みんなにいいようなことを言い当り障りのないことを言っているだけである、だから何を争っているのかもわからない
ただ人物評がありどうだこうだとなるがそれも良くわからないのである
どう評価していいのかもわからない、だから選ぶのに苦労する
原発反対を前の市長は訴えて落選した、原発はこの辺ではこれだけの被害があったからこりごりだとなって反対している、だからそれを主張して当選するというのは何かおかしいと思った
もっと別な政策があり実行すべきものがあった、それを主張すべきだったとなる
それは補償金の公平な分配とかがあった
ここでもやはり尖ったことは言えない、みんなにいいような当り障りのないことを言う
こうして誰にでもいい子になりそれが大きな災いとなる
原発の危険でも言う人は地元でもいなかったとかなる

そうして誰にでも当り障りのいいことを言っていたら何か大きな事故になったり災いが起きる、聖書だと予言者が災いが来るとういうことをあえて警告していた
それも一人でありそういう預言者は殺されたとなる
でもみんなに当り障りのないことを言っていたらこうして大被害となり戦争で三百万人死んだとか故郷にも住めなくなったとか大被害になることがある
要するに民主主義は危機には弱い、必ず誰にでもいい子になるから当り障りのないことを言いそんな危険なことを言うなとなるからだ
それで今は科学者が預言者の役割をしていて東電に十数メートルの津浪がくると提言していたのである
でもそれも無視された、金がかかるから防波堤を作らなかったのである

民主主義は少数者の意見でも認める、一応発言は許してその記録も残すことを許す
それで後で歴史として正邪を判断するとなる
でも選挙ではどうしても多数を相手にしなければならないから当り障りのない誰にでもいいことを言うのである
今回の南相馬市長選挙でも何をしたいのか何を第一にするのかもわからない
わかったのは前桜井市長が左寄りであり現門馬市長が自民党系だったのである
だから自民党が応援しているとなる、すると自民党に反対する人はいれないとなる
でも中央の政治と地方の政治は違ったものになる、それでは判断できない
でも結局判断材料がない、資質として性格などから判断するともなる
でもその人の人格などにしてもそういうのはわかりにくいのである

もうし民主主義は数だけを問題にするから機能しない、多数だけを相手にして多数がすべてだということはファシズムなのである、少数でも何か重大なことを言っている
そのことにもみんな注意すべきだとなるができない、結局そういう人は泡沫候補として簡単に切り捨てられるだけだとなる
だから巻町で小さな町で原発を建てさせなかったことは快挙だった
新潟日報とかも応援していたのである、福島県では原発に反対することはなかった
莫大な電事連とかの原発マネーが宣伝費として回っていたからである

要するにもしかしたら市長でも誰がやっても同じなのかもしれない、市長とかは飾りすにつぎないのかもしれない、何かするにもできない、大きな上からの権力の圧力がありできないとなる、市長にどれだけの権力があるのかわからないにしても原発の場合は上からの権力の圧力が強力であり従うほかなかったとなる
地元には金をばらまき反対させないようにした、そういうことで誰も反対などできなかったのである
つまり今や民主主義とは多数の横暴になり機能しなくなったのである
それでトランプ大統領選挙でも国会議事堂に暴徒が選挙に不正があったとして乱入したのである、選挙自体が信用されなくなったことは民主主義の最大の危機になったのである
ただそうなると内乱状態になり国が分裂する危機になる

民主主義の国でそうなりつつある、では民主主義に代わるものはなにかというと共産主義は反対者を抹殺するということでカンボジアでは二百万人が殺されたとかなる
だから政治をどうするのか、これは簡単に解決しないのである
でも民主主義も資本主義も限界がきている、機能しなくなったのである
次なるものが何かというときそれはわからない、民主主義がもう限界であり機能しなくなったということはわかる、みんな無力感を感じて南相馬市長選挙でも65パーセントくらいの投票率しかない、これはおそらく南相馬市外で出た人達もいて投票しないのかもしれない、また南相馬市では原発事故の影響で65歳が35パーセントとか多い
するとシルバー民主主義になり将来を担う若い人の意見が反映されないとなる
だから福祉とか病院の充実を言うときシルバー民主主義になる
これは国政選挙でもそうなのである

とにかく民主主義は危機には弱い、危機に対処できない、そして大衆民主主義は誰にでもいい子になろうすることで危機には弱い、危機になったら指導する人もいない
危機には多数で判断できない、いち早く津波ならつなみでんでこで他人のことはかまわず逃げろとなったからである、そうしなければ命を失う
そこで話し合ったり相談したり議論している時間がないからである
即座に決めて逃げるなに何かを実行しないと命が助からないからである
その時みんなが賛成するから多数決で決めるようなことしていたら死ぬ

だから大川小学校では子供が近くの山に逃げて助かった、子供の判断てそうして助かったでも先生の言うたに従ったものは死んだとなる
また浪江の人達は津島の方に集団で避難した、それは浪江町長の独断でそうした
でもその中に東電の人がいて街の方に引き返した方がいいと言ってそれに従った町民がいたのである、それが正しい判断だったのである
そういう危機の時誰が導くのかが問題になる、国も支持できない、だから浪江町長の独断になった、それが間違っていたのである
でもみんなで協議してもわからないから誰かの支持に従うほかなかったのである
危機の時は民主主義の多数決は何の役にもたたないのである
そこに民主主義の限界があり市長選挙にしても危機の時は役にたたない、市長自体が指示できないからである

今回の選挙では桜井氏は原発事故の経験はした、だから経験しているから強みがあるとはなる、でも何かどれだけ事故の処理で実績がなったのかとなるとわからないのである
ただ経験したということで何かあったら対処しやすいということはあるかもしれない
第一あんな経験は普通できないからである、そこで学んだことは相当にある
自分自身もこうしてこれだけのことを経験したことで書いているのである

posted by 天華 at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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