冬の鴨、蝋梅、冬の暮、丸森大張村
(親密に人間関係は簡単に作れない―友達とは)

親密に今日も寄り合う冬の鴨
近くなる仮設の跡も枯野かな
我が庭に石二つすえ離れじとここにありなむ冬の日暮れぬ
我が庭に石二つすえ離れじとここにありなむ冬のくれかて
冬あわれ栄もなくてこの地にそ悲しく生く女(ひと)にこそあれ
我が庭に石の二つや蝋梅の咲きて長くもここにありなむ
我が庭に雀来たりぬ冬の朝その影写りここに生きなむ
丸森ゆ白石へ行く道のあり大張村の冬のくれかな
梁川と白石に行く道分る冬の日くれて我がより思ふ
「誰も話せる相手がいない」日本の既婚男性が次々と発症する見えない病の正体の記事について
https://www.youtube.com/watch?v=Dum-aZXdbWs&ab_channel=%E5%A4%B1%E6%95%97%E5%B0%8F%E5%83%A7
このyoutubeはやはり会社とか公務員とか人間関係の経験を語っている
つまりここが人気があるのは経験を語っているからである
結局50過ぎれば必ずこういう経験をしたということを語るからである
その経験はみんな違っている、それで参考になる
例えば経験というときニートとかは何も経験していないようでそれも一つの経験なのである、マイナスとなるにしてもやはり人間はどんな人でも経験をしている
人間は本で学ぶより経験で一番学んでいるのである
ただその経験が限られているから視野が狭くなる
そして他者を理解できないのは多様な人生があったとしても経験していなから理解できないとなる
だから送電線の鉄塔を上る人を見たときこれは危険であり命がけだとも見た
するとその仕事から人間を知りごくろうさんですとかなるのである
ここのyoutubeでは人間関係のことをいろいろ言っているから参考になる
会社の上役でも退職すると話しする人もいなくなり相手になるのは妻だけで淋しいとなるそれがどうしてそうなったかを説明しているからそういうことかとわかる
現代の人間は会社が人生になっていたからである
なぜなら人間は何に一番時間を費やしたかでその人生も決まるからである
だからその会社を退職したときその後は継続しないのである
例えは江戸時代とかその後の農業が家業のようになっていた時代の人間関係は村という共同体にありその人間関係は会社を退職するようなことにはならない
それはその土地とともに継続するのである
その継続は死んでも継続されているのである、先祖は山に入り神となったとかなる
そして田植えの時期に山から下りて来るとなる
まさにそれは定められた土地で時間が継続していることなのである
会社はそんなに長く継続しない、いくら長くても代々継続しないのである
会社は部分化したものであり全体ではないからである
農民主体の共同体は土地と一体となり継続しているしその絆は消えないともなる
それで友達とは何かというととその関係も切れやすい、一時的なものとなりやすい
それより友達というときいつも合っている人が友達だというのもそうである
いくら兄弟でも何か遠くへ離れると疎遠になる
去る者は日々に疎しとなってしまうのである
そこで毎日買い物に行き橋下の鴨をみている、いつも寄り合っている
それが冬の鴨となりしんみりとするのである
冬にかえってそうして人間は寒い中で寄り合い親密さを増してゆく
とにかく人間は一つの共有する場とか人間関係が必要なのである
そこで精神的にも安定するとなる、それが喪失したから人間関係も常に不安定になり会社を退職したら
自分のいる場所がなくなったとなる
現代は空間的に拡大したけどかえって身近な親密さが希薄化した社会になった
それはグロ−バル化とか交通の発達でそうなったのである
かえって遠くとの交流が物質的には多くなった、でも人間の親密さは薄れたのである
いくら地球の裏側から物が入ってきてもそこに住んでいる人間と親しくなることはできないからである
だからこのコロナウィルスとかはそううい社会を見直すようになった
何か遠くに出れないのである、なんとなく不安になるのである
そうして冬の鴨のように遠く行かず寄り合って親密になる
そういう社会に回帰するのかもしれない、ただ親密になるというとき数人しかなれないと思う、そもそも一人くらいしか親密になれないということもある
数が殖えたら親密になれないのである
石二つというとき二人だともなるからである
そもそも信頼できる人間関係は簡単に作れない、これも時間かかるのである
人間関係をリセットしてまた新しい人間関係を作ることもなかなかできない
だから会社から退職すると人間関係を作れないというのがわかる
それより人間関係は一代でも作れないとなる、農家は三代つづいて認められるとかなっていた、それはその土地に根ざして生活していたからそうなった
今はその時々の人間関係しか作れないのである
どうして武家社会では家臣との強い絆で結ばれたのか?
それはやはり代々長い時間で作られていたのである、会社とも違うその土地土地に根ざして長い時間でそれも一代ではない親子とかその孫とか何代にもわたって作られた人間関係だったとなるからだ
いづれにしろコロナウィルスはこれまでの生活を世界的に見直すようにもなった
グロ−バルに物が人が移動しても結局人は親密になれないし争いにもなった
人間が理解しえる範囲は実際は相当に狭いのである
だから老子の小国寡民が中国が一億人しかいないとき唱えられたのである
丸森の大張村から梁川へまた白石へと通じる道がある、これも車で行くと分かれ道があょても感じない、それで旅にならない、どっちに行くかとかこの道はどこに通じるとか感じるのはやはり歩かないとわからないのである
自転車だと分かれ道は印象に残るのである
それでアの辺をもう一度行って見たいとなるのである
現代は空間的に拡大したけどかえって身近な親密さが希薄化した社会になった
それはグロ−バル化とか交通の発達でそうなったのである
かえって遠くとの交流が物質的には多くなった、でも人間の親密さは薄れたのである
いくら地球の裏側から物が入ってきてもそこに住んでいる人間と親しくなることはできないからである
だからこのコロナウィルスとかはそううい社会を見直すようになった
何か遠くに出れないのである、なんとなく不安になるのである
そうして冬の鴨のように遠く行かず寄り合って親密になる
そういう社会に回帰するのかもしれない、ただ親密になるというとき数人しかなれないと思う、そもそも一人くらいしか親密になれないということもある
数が殖えたら親密になれないのである
石二つというとき二人だともなるからである
そもそも信頼できる人間関係は簡単に作れない、これも時間かかるのである
人間関係をリセットしてまた新しい人間関係を作ることもなかなかできない
だから会社から退職すると人間関係を作れないというのがわかる
それより人間関係は一代でも作れないとなる、農家は三代つづいて認められるとかなっていた、それはその土地に根ざして生活していたからそうなった
今はその時々の人間関係しか作れないのである
どうして武家社会では家臣との強い絆で結ばれたのか?
それはやはり代々長い時間で作られていたのである、会社とも違うその土地土地に根ざして長い時間でそれも一代ではない親子とかその孫とか何代にもわたって作られた人間関係だったとなるからだ
いづれにしろコロナウィルスはこれまでの生活を世界的に見直すようにもなった
グロ−バルに物が人が移動しても結局人は親密になれないし争いにもなった
人間が理解しえる範囲は実際は相当に狭いのである
だから老子の小国寡民が中国が一億人しかいないとき唱えられたのである
丸森の大張村から梁川へまた白石へと通じる道がある、これも車で行くと分かれ道があょても感じない、それで旅にならない、どっちに行くかとかこの道はどこに通じるとか感じるのはやはり歩かないとわからないのである
自転車だと分かれ道は印象に残るのである
それでアの辺をもう一度行って見たいとなるのである
【日々の感想(今日の俳句短歌と詩)の最新記事】
- 秋になってもまだ夏なのか(鮎、カンナ、朝..
- 認知症にならないためにすること (..
- ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋..
- 特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、..
- 小さきものの声(虫の声)
- 秋になっても暑い(ノウゼン、白菊、涼しい..
- 空地空家が増えるー秋がなくなる (..
- 酷暑で疲れるー生け花の心ー若竹に白百合 ..
- 外は危険熱中症になる―街中を流れる川 ..
- 井戸の話の続き―春雨庵のこと(百合の花、..
- 老人は記憶に生きる―ドイツの骨董店の対に..
- 夏の日の田舎の小径の詩(黄揚羽、夏の雲、..
- スーパーヒタチ南相馬市を通過−youtu..
- 空家の庭と芙蓉の詩(夏菊、鬼百合、夾竹桃..
- 昨夜は遠稲妻が光り今日は朝から雷鳴り停電..
- 田んぼの畦道でシロチドリを発見! ..
- 芙蓉、、鬼百合、カンナ、老鶯など ..
- 合歓の花と待宵草
- 蜉蝣は初秋の季語なのか?ー無常迅速の世の..
- 記憶する方法は本でも理解すること ..