2022年02月20日

真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地 (日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)


真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地

(日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)

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陸奥 (みちのく) の 真野 (まの) の 草原 (かやはら) 遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

真野の草原という時、草原が萱原であり萱がなびいている荒寥とした辺境の地として解釈されてイメージされてきた
でも実際はそんな地域とは裏腹の地域だった、それは伽耶国があった日本府任那と類似していた、なぜそう思ったかというと伽耶国はそもそも日本の国だったから日本府が置かれていたのである、そこは鉄資源が豊富であり日本が必要としたからである
第一萱がなびいているだけの何もない所に国家単位では魅力が感じない
詩的なイメージとして国家単位ではみない、実用的なものとして国家でなくても普通は見る、だから地名は詩的なものとして命名されていない、その土地に欠かせない実用的なものとして名付けられる、だから方角地名が多いのはそのためである
南相馬市などでもそうである、相馬六万石の城がある所を中心にして南だということで名付けられた、そういう名付け方が多いのである、地名は無味乾燥なのが多いのである

天皇(すめろき)の 御代栄(さか)えむと 東(あづま)なる 
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
大伴家持

これも黄金がとれるということで中央の大和王権から注目された、それはアフガニスタンとかでも何もないようでも中国でも外国からみると鉱物資源があることで注目されているのと同じである、単なる草(かや)が茂っている場所など注目されないのである
鉄がとれる、黄金がとれる、石油がとれる、ガスがとれるとかで注目されるのである

だから真野の草原を萱原としたのは歴史を見れば実用的観点からすれば全然違ったものとなっている、ただこれが笠女郎の大伴家持を慕う恋の歌としたことで誤解が生じたのである、確かにそれはあったにしろその背景が古代史全体に韓半島の伽耶国まで関係していたのである
伽耶国は日本の一部であり最近前方後円墳が伽耶国内から十数個発見されたことでも裏付けができたのである、前方後円墳は極めて日本的なものであり韓国にはありえないものだったからである、円墳は大量にあっても前方後円墳は全くない国だったのである

そしてこの真野郷がなぜ日本府任那と似ているのか?
それが「任那から読み解く古代史―大平祐」読んでわかった
この題名は陸奥真野郷から読み解く古代史と題を変えても同じようなものになっていた
それでいかに伽耶国(かや)が日本建国に深くかかわった地域だったかもわかる
そして古代では最初に入植者でも入るから地名化しやすいのである
それで伽耶国の地名がここにも移っていたのである
草原(かやはら)の草は萱ではない、伽耶国とかの国名なのである、原とははらっぱのことではない、国のことである、何もない所ではない、国としてあった場所である
だから多多羅原とかあり多多の国であり多々良とは多田羅とは鉄生産の場だったとなる
そして安達太良とあるとき伽耶国内に安多(あた)という地名があり太良は多々良でありやはり鉄生産と関係していたともなる
つまり伽耶国内にある地名が移っていることはそこに住んでいた人達が移住してきたとなる、そうでなければ地名化しないだろう

九州の「〜原(ばる・はる)」地名は、古代の三韓で「城、集落」を表した「伐(Pur,Por)」と同語源ではないか
https://www.shochian.com/harubaru2.htm

駒原とかはコマとつけばそこに高麗の人が住みついた地域であり栗原だったら高句麗の
句麗(くり)だとなる、この高麗系に原が付くのが多い、伽耶系の人から高句麗の高麗系の人が移住してきたのである

草原はかやはらはやはり伽耶に由来してそうした村とか国とか城があるとか館があるとかの意味となる、だからただ荒寥と萱が茂っているとは正反対でありむしろ人々が集落を形成してむしろ繁華な場所だったともなる
笠女郎はただ遠い所としての真野を言っていたのでありそこがどういう場所が明らかではない、面影にして見ゆというものというのはあくまでも大伴家持のことをさしている
ここが本当に誤解しやすかったのである

●任那での近江毛野氏ー安曇氏の活躍

新羅が遣使して調を進った(たてまつった)、あわせて多多羅、須奈羅、和陀、発鬼(はちき)の四つの邑の調をたて進った

この四つの邑とは継体天皇二三年、新羅が占領した金官、背、安多、委陀(わだ)を意味する、この全体を南加羅の分として調を進っつた

ここに和陀、委陀(わだ)は綿津見の和田なのである、なぜ綿津見の邑があったのか
それは海人族の安曇族の邑だったとなる
安曇氏は日本府任那で船を操作して運ぶ役割をしていた
その技術を買われて重宝された
そして毛野系統の国造が南相馬市の鹿島区の浮田に置かれた、なぜ毛野なのかわかりにくいが海の方より山の方が縄文時代として早い時期に住みついたとなる
なぜなら飯館村も古く縄文中期の遺跡が発見されているからである
それは海側より古いのである、
そこで福島県となる会津が一番古い地域となっていて大塚山古墳から三角神獣鏡が発見された、それは東北ではここからしか発見されていないのである
それは吉備から発見されたものと同はんとされている、同じものだとなる
太平洋側は大和王権でも進出するのがかえって遅かったのである
ただ縄文人は海側でも貝とか魚をとって暮らしていたのである

また任那の安羅と耕地の境界をめぐって争いがあったことから洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国、卓淳国がありそこに369年に荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者とともに卓淳国に集まり新羅を撃破した

浮田国造は毛野氏の鹿我別が治めたとしている、なじみがないが毛野氏は大きな勢力であり日本府任那にかかわっていた、でもその政争で失敗したとしている
こうして日本府任那とこの陸奥真野郷が似ている
なぜなら綿津見神社がやたら多く安曇氏系統の八木氏が地名化している
八木国造というのもある、物部氏も任那でかかわり原町にある桜井古墳とも関係していたらしい、ただ物部系の神社はない、その理由が何なのかわからない
そもそも安曇系の綿津見神社がこれほど多いということが何なのか、それが問題なのである

地名の移動にしても真野は近江からの移動かもしれない、近江毛野臣ともあるからだ
そのことは鉄の生産のことで書いた、また真野郷の地名として唐神とかありこれは加羅の国のことであり神とは仏のことである
その他ツノガアラシトとは伽耶の加羅の王子でありつのみやとか角部とかツノのつくのはそれが地名化したのである、相馬氏の松川浦のツノミツ神社もそうである
鉄を求めてこの一団は石巻の北上川を上り登米までその跡をとどめている
石巻は和邇山とかあり真野の萱原という地名もある、だからここが陸奥の真野の説があるでも距離的に遠すぎるとういことで否定される、みちのく真野が相馬地域の歴史を知ればここがやはり桜井古墳がありまた真野地域に古墳が多い、それから寺内の前方円墳から金銅双魚佩が発見されたのも大和王権がこの地を支配してそれを賜ったこの地の有力者がいたということである、それは大伴系だともなる
そして笠女郎というときこの笠は韓国の加佐地名から来ていて笠とは何の関係もない

埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文に

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。

このカサなのである、カサという苗字も韓国由来であり韓国にある地名である
そして伽耶郷と安曇郷があるのも興味深い、こうして何か日本府任那と真野の草原が類似しているのである、蝦夷の辺境として奈良の都の人達に認識された
そして多賀城に向かう前進基地となったのがこの辺である、ただここでは武力で制圧するということはなかったのかもしれないが桜田山に第六天の祠があり鹿島神社があるから
やはり大和王権に逆らう蝦夷がいて反乱があったともなる
鹿島神社とは大和王権に組み入れられた場所に建てられた軍神でもあったからだ

●伽耶地域に和陀(和田)の邑あり

綿津見のワダというのも伽耶国内にありそこに綿津見神社を祭る安曇族などが関係していたのかとなる、任那では近江毛野氏が指揮をとり軍事を司っていた
そして真野郷の前進は「浮田国造」でありこれが鹿我別とか荒田別となっていてその人たちも任那にかかわっていたのである
安曇の連(むらじ)もかかわっていた、また物部氏もかかわっていた
そしてなぜ原町地区に綿津見神社が異常に多いのか?
最近大原にも綿津見神社があったことを発展した、こんな所にもあったのかと驚いた
でもそれでわかることはこの道を飯館村に行くと八木沢峠がありこの八木沢が安曇族の一族の系統に連なる八木氏のことだったのである
それは相馬市の松川浦に和田と山津見神社が祭られている、そこから上陸して宇多川をさかのぼり途中に八木原とあるのもそうである、そして霊山町に出ると犬飼(犬養)がありこれも安曇族の系統なのである

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養(犬飼い連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる
最初に縄文人がいたとしてもこの地域を拓いたのは安曇族系であったとなる
そして物部系もかかわったがその跡は明確ではない、物部神社などないからである
物部吉名という人がいて小高に吉名郷があるから物部氏がかかわったことは確かである
そこで桜井古墳がなぜあるのか、あれだけ大きな古墳が原町にあるのか?
それはなぜ原町区に綿津見神社が多いのかということにつながる
その古墳を作った人たちは安曇系の入植者であり物部氏もかかわったとかなる
それしか考えられないともなる
なぜなら大和王権が入ってきたのはこの安曇系入植者の後である
それで桜井古墳のある原町区にはやたら綿津見神社が多い

でも真野郷の鹿島区にはない!

山津見神社が栃窪村にあるが綿津見神社が見かけないのである
それはここが毛野氏の支配地域であり原町区の綿津見神を祭る安曇氏とは別な領域であった、最初に原町区に安曇系が入ってきた、そして土着した
そこで桜井古墳を作ったとなる
その後に真野郷を大和王権が支配した、それは大伴系でありその大伴一族として大伴家持がいて笠女郎が真野の草原の歌を残したとなる、
ただこれらは古代史の正史として記録されていない、ただ神社がそれを記録している
なぜこんなに綿津見神社があるのかそれが解き明かされていない、資料も伝説すら残っていないのが不思議なのである
それは大和王権が政権をとりそうした歴史が消されたためだともなる
伽耶国派滅亡してその跡がわからなくなりわずかな地名とかからしか探る手立てがなくなった、ただ綿津見神社神社がこれだけ多いのだからその謂れを語られてもいいが伝えられていないのである、ただ綿津見神社がいたるところにある
だからそれが語られないということが謎なのである

●海人の安曇氏の日本列島の分布

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる。

安曇磯良は志賀島大明神と呼ばれ、磯良の墓は対馬の和多津美 神社にあることからしても、志賀海神社と和多津美神社は、その創設者が同族であると考えられます。

 対馬には合計4社の和多津美神社であるだけでなく、綿津見神を祀る古社は、対馬から壱岐、志賀島にかけて島や九州の沿岸に集中して鎮座されています。つ まり朝鮮半島の狗邪韓国から北九州の末盧国、すなわち邪馬台国に至る海上航路沿いの要所周辺は「ワタツミ」というキーワードで繋がっていたのです
 https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11211578
 
 新羅出征に際し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集
まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬
の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」

十二通門
平城宮・平安宮内裏の周囲に12の門がある。その一つに海犬養門がある。蘇我入鹿誅伐に参
加した氏族の功を永久に記念するために門号に氏族名をつけたという説(井上薫氏)がある。

662 年(天智元年)
5 月 「大将軍(おほきいくさのきみ)大錦中阿曇連比邏夫連等、船師(ふないくさ)一百七
十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅(みことのり)して、豊璋等を以て其の位
を継がしむ。」(すでに前年に送って行ったはず?)
http://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf


環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)→弥生時代
(海部氏・徐福系物部氏、邪馬台国)→大和朝廷(応神以降、秦氏)

<縄文海人(あま)と弥生海人>
http://g-village.net/iyasaka369/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%B5%B7%E4%BA%BA.pdf

環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)

こういう大きなスケールで海人族が安曇族などが日本列島に分布した
縄文王国とは安曇氏のことだともある、その後に物部氏が日本列島の支配者となった
そうなるとこの辺では安曇氏系統が最初の始祖ともなる
次に物部氏となった、後期縄文王国が和田橘氏というとき和田とは綿津見神社から来ている、つまり日本列島に海人族の安曇氏が拡散して大きな力をもったとなる
ただその後に物部氏が支配して次に大和王権が支配するようになった
その主役となるのが大伴氏だった、その日本の国家形成が相馬地域の東北の蝦夷の辺境にもありそれを物語っているのが綿津見神社が異常に多いことなのである
ただこれは正史に記されないし伝承としても何か残っていないのでなぜなのだろうとなるつまり安曇氏とか物部氏は大和王権が成立するとその記録も消されたとなる
でも神社とか地名とかは残されたのである
地名を考えるとなかなか消されるものではない、地名が古代から古いものでもその地に石のように残っているからだ、地名は一旦決められると変えにくいのである

●春に洛東江を下る

春日さす洛東江を沿い下る
滔々と流れる大河
大地を潤し米麦の豊に実る
金官伽耶は鉄の国
豊富な鉄資源に恵まれて
日本府任那のここに置かれぬ
ここに興亡あり北に高句麗
新羅ありて伽耶諸国を脅かす
しかし今春の日は穏やかに
河は人の争いを知らず
悠々と流れて海にいでるも
そのかなたに日本のありしも
かくて対岸に伽耶山の歌われぬ
ここに栄えし国をし思ふ
大和と一つとなりし国なり
陸奥の真野にもその跡残しぬ
同じく鉄を求めて来たれり
かくて大和王権の知らしめる地となる
辺境にあれど奈良にその地の歌われる
真野の草原は憧れの地ともなりぬ

草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ男鹿鳴くも

洛東江は大きな河である、韓国でも河は大陸の一部だから大きいのである
そして伽耶とか南になると照葉樹林帯になりあたたかいのである
韓国は北朝鮮になると寒い、日本より寒い国である、だからオンドルが作られた
これは日本でも作られた、その跡が発見されたが根付かなかった
つまり日本では西の方近江から西だとあたたかいから根付かなかったとなる
オンドルは下からあたためるから体全体があたたまる、寒い国にとって部屋全体も暖かくなるから暖房には優れている

ともかく伽耶は日本と一つであり日本の一部にもなった、だから最近前方後円墳が十数基発見されたのである、明らかに日本の支配地域になったから日本の前方後円墳が作られたとなる、必ず外国と交流すると文化がもちこまれるからである
土葬から火葬になったことなどもそうである

いづれにしろ韓半島の興亡は日本と密接に関係している、ただ日本府任那が日本がであるように日本と一体化した地域だったのである

洛東江の写真
https://onl.la/mVq85nu
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