2022年03月20日

鹿島から集団就職ではないが中卒で東京の工場に勤めた人 (その言葉が東北弁ではない、埼玉にいたからまじりあった方言になっていた)


鹿島から集団就職ではないが中卒で東京の工場に勤めた人

(その言葉が東北弁ではない、埼玉にいたからまじりあった方言になっていた)


1963年(昭和38年)に伊藤博文の肖像の千円札が登場する前の、聖徳太子の千円札を3枚受け取ることができました。【国家公務員の初任給の変遷(PDF)】によると昭和34年の国家公務員(高卒程度)の初任給は6700円ですので、結構な金額です。

クリーニング店の配達自転車が集まって併走するシーンをもって映像は終わります。ちょっと邪魔のようにも思いますが。

【15歳にはハードすぎ】昭和34年の中卒者たちの集団就職の実態
2016/10/11 14:03服部淳服部淳


地震で屋根瓦がひどく壊れた家を見ていた、そしたら近くでそのことを見ていた人が話しかけた
その人は66才とか言っていた、その人で最初に印象的だったのはこの人はこの土地のものではないと思った
なぜならこの辺の言葉ではないからだ、どこの訛りなのかわからない言葉だが明らかにこの辺の言葉の訛りとは違っている、ズーズー弁でもない、何かアクセントが違っている
私は東京に鹿島から集団就職したんですと聞いた時、この人は地元の人だったのかと不思議だった、すく近くであり今は実家に住んでいる

そこでなぜ訛りが違うのか聞いたら私は東京からいろいろ移って埼玉の秩父の方に行ったんです
最初に勤めた会社は嫌で他に移ったんです
私の世代は団塊の世代であり集団就職が始まった世代である、だから同じクラスから集団就職した人がいたのである、まず大学に行った人は50人クラスで4,5人だった
あとは高卒であり中卒がその時代は多かったのである
中卒だとその年で親元を離れるのは苦しいと見た、でもその人と話するとそう見えないしその人自身もそういうことはなかった、私はむしろ地元を親元を離れたかったと言っていた、何か集団就職でも苦労だったということが見えないのが不思議だった
何か私の兄は集団就職してストレスで円形脱毛症になったと聞いた
でもこれも人によって違う、その人は適応力があったのだろう
苦しいということはなくそのことを責めることもない、あらゆる飲み屋を回って楽しんでいたというのである
金回りも良かったとしている

私は大学の時アルバイトをした、別に金がないからでもない、働く経験をしたというだけである、そこで一日ドリルで穴明ける仕事をしたりした、肉体労働もした
結局その後も流れ作業のような仕事しかしていないので仕事に嫌悪感を覚えて引きこもりになってしまった、
でも私が経験した町工場では劣悪な環境だった、住み込み寮みたいなものがあっても今のようなものと違う狭い所におしこむような劣悪なものだったのである
でも結構中卒の集団就職でも給料が良かったというのも意外である
ということは自由に使う金がありこの人のように飲み屋を渡り歩いていたともなる
この人はどうも最後の集団就職の経験者だったのか?
でも当時の蒸気機関車で上野に行った人とは違う、車で工場の人が迎えに来たと言っていたからである、もう蒸気機関車で集団で行ったわけではないのである
またその頃夜間の学校に通った人もいた、中卒でもその上の勉強をした人もいた

ともかくその人の性格にもよるが全く中卒で東京に働きに出たから苦労したと見えないのである、何でも先入観が見るが人によって同じことを経験しても違ったものになる
なんでもみんな一様ではないのだ
その人は年金ももらっているから生活に困らないという、家もあるのでそこに住んでいるという
何かこうして故郷に帰ってきている人はいる、ある人は東京の人かと思った
東京弁というか標準語を流暢に話す、もう東北弁でなくなっていた
標準語は確かに話す人が多くてもどうしても国の訛りは消えないのである
でもその人は長く東京に住んだ結果国の訛りが消えていたのである

そしてこの人は東北弁ではなく何弁なのか、埼玉弁なのかその人か言うにはいろいろ交じっているというのも不思議である、東京より埼玉の方に長く住んでそうなったらしい
人間を見るとき訛りがありこの人は土地の人とは違うと判断する
それは宮城県だと新地だと近くても伊達藩だったから語尾にだっちゃ、だっちゃというのである、これは押しが強いものとなる、東北弁だとんだんだとなるからである
ところがんだんだでも秋田県の人とあったらんだすという、また丸森の人だとんだっちゃと言っていた、これは宮城県の仙台弁のだっちゃと東北弁のんだが混ざったものだったのである、丸森は一時相馬藩の出城があった場所でありその人はその金山城の麓に住んでいる人だったのである
つまり方言は合成されることがある、だからその人がいろいろな方言が混ざり合ったのだとうのもわかる、まずアクセントが違っている、明るいのである
東北弁は内にこもるように暗いのである、ただ埼玉県となるとわかりにくい、やはりもともと東京から離れているからそれなりに方言があった

そもそも標準語はなかった、明治以降に標準語ができたのである
江戸だったら江戸っ子がいて江戸の言葉があった、それは標準語ではなかった
江戸弁だったともなる、言葉には方言には地域性があるから面白いのである
一つの文化なのである、それでウクライナでロシア語とウクライナ語があり似ていても違っているからロシア語を公用語にすることを停戦の条件にロシア側ではしている
言葉はやはり基本的な人間のアイディンティティであり言葉が違うと理解しあうのがむずかしくなる、中国はあれだけ広いから共通語としての漢字を発明した
音は方言と同じくみんな違っているからだ、日本でも漢字を使うから筆談が中国人とできるのである、発音となるとどこでも理解しにくくなる
ヨ−ロッパが一つになるというとき言葉通じ合いやすいことがある
それがイスラムのアラブ系とかなると通じ合いにくい、また東欧はわからないが東欧同士では方言のようなものになっているから理解しあいすい、それで親戚関係にあるとなる

まず言葉だと宮城県の人と結婚した人は仙台弁になりだっちゃだっちゃになる
結婚すると自ずと土地の言葉が方言でも自然に身につく、それで東欧だと親戚関係になるから言葉も方言のようなもので理解できるのてある、それで一体感が生まれるのである
でも実際はロシア語とウクライナ語は方言のようなものでも違っているのである
だからロシアではロシア語を公用語にしろ要求しているのである

いづれにしろ集団就職も一つの歴史となった、なぜならその時蒸気機関車だったからである、それをいつも見ていてもそんな時代があったのかと不思議になる
私は鉄道マニアともなっているが蒸気機関車のことを良く思い出せないのである
ただ高校は原町でありトンネルをくぐると煤がでて顔が汚れたことを覚えている
でもなぜか蒸気機関車のことが良く思い出せないのである
何でも記憶というのは希薄化してくるのである、人間はとにかく忘れやすいのである
最後は認知症になるとあらゆることを忘れる、自分の子供のことまで忘れる
自分が生まれた町のことまで忘れて言えなくなっていたのである
ただ最後は老人になると経験したこと記憶したことが宝となるのである
だから旅をしても記憶する旅をしていないとあとで思い出すこともできないから損だったと気づくのである
posted by 天華 at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/189409854
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック