桜はすでに満開になった
(桜についてのエッセイ・・・)
桜と風ー平泉―高館の桜
抽象画は何をイメージしていいのかわからないがここでは義経堂の桜をイメージした
というのは私自身が訪ねたとき、夕べ風が荒れてふきつけ桜がゆれて咲いていたのである
波乱の一生だった義経にふさわしいと思ったのである
日永きや道真っすぐに遠くへと
街中の通りを飛ぶや燕来る
前畑を耕す女や春の暮
ひとしきり梅はにおいて散りにけりその余韻の深く我が住む里かな
一分咲きたちまち桜満開や時の移りのかくも早しも
そちこちに夕べ桜や里めぐり誰か住みなむ灯のともるかな
春の日や我が家のこと知る人あり語りて偲ぶ母と姉とを
夕方相馬市の方へ行って途中でラーメンを食べた、自分はラーメンはあまり食べない
相馬市の道の駅の前の方でラーメンを食べて帰ってきた
相馬市の方はまだ二分咲きくらいの桜があった
原町は一昨日でも満開だった、鹿島は今日は満開である
桜は年により咲き方が違う、今日は急に暑くなったから満開にもなった
桜は桜前線がありやはり徐々に日本列島を北上してゆく
それも原町と鹿島と相馬市でも咲く時期が微妙に違うと思った
桜前線というとき私は北海道まで旅して6月に稚内で桜を咲くのを見たである
桜前線はそれだけ日本列島を北上して咲くのである
ある時は青春十八切符で瀬戸内海の方まで行き下関から韓国に渡り韓国の古都の慶州まで行った、その時慶州にも桜並木があり咲いていたのである
ただどういうわけか盛岡とかの桜はまだ見ていない、弘前の桜は見たのである
桜はいくら暇でも見ようとしても見れない、なぜなら桜は無数にあり咲く時期が二週間とか短いから散ってしまうから見れないのである
それで白石の千本桜を自転車で見に行った時、すべて散っていたのである
その散っていたことになんともいえぬものを感じた
はるばる苦労してきたのに桜はすべて散っていたからである
それは芭蕉が奥の細道で「五月雨の降り残してや光堂」という感懐と通じるものがあったはるばるみちのくの平泉まで来て雨がふりしとる中に光堂のみが残っていたことであるここに空間軸と時間軸で感じるものがあったとなる
その時すでに鎌倉時代から400年以上過ぎていたからである
みちのくという未知の遠く離れた所とそして400年という時間が過ぎたことで感じて作られた句なのである
これが新幹線で三時間くらいで来たとしたらとてもこんなふうには感じないのである
だから時代が作ったものであり今では作れないから価値が衰えないのである
古典はそうしてもうその時代でしか作れないものがあるから価値が衰えることがないのである
高館の義経堂や風荒れて夕べしきりに桜ゆれさく
この時風が荒く吹いていたのである、それで印象に残ったのである
今日自分の姉と母のことを知っている人とあった、意外と死んでから知っている人とは逢わない、その女性は店をしているとき豆腐を下ろしていたのである
だから意外とずっと前のことまで知っていた、私の子供の時から知っていたというのは意外である、なんか人間は昔のことになると人でもわからなくなる
でも私の姉と母のことを知っていた人がいたのでなつかしかったとなる
死んだ人は忘れやすい、語られることもなくなる、あれだけ近くの医者のことは常にみんな話題にしたけどその人が死んでもう誰も語らないということが不思議なのである
人間は本当に死ぬとたちまち忘れられる、そんな人いたのかとまでなる
これも無常なのである
桜咲く道に出合いて我が家の姉と母とを知る女〈ヒト)と語る
とにかくこの町でともに生きたということで連帯感を感じる、ただ今はもうそういう連帯感もない、それは自分自身の問題があってそうなってもいる
何かこの土地でともに生きたということが感じない、でも昔の村だったら本当に村人は一家族のようになって生活していたとなる
すると年老いてどうなるのか?ともにこの村で生きて来たなという連帯を感じる
それで墓地でも墓がなくてもホトケッポという共同墓地に埋められた、そこには個人の墓も家族の墓もないのである
ただ今はその土地に深い思いがない時代でもある、村人というより会社人間になったとき会社で共に働いたなということでふりかえる、でも会社は村とは違っている
村とは自然とも一体となった深いつながりがある共同体である
会社は自然とは結びつかない、社会の一部としてある
村は自然とも一体化して存在した、だから祖先は山にいるとかなる、その祖先が春には里に下ってくる、そういう感覚は農耕社会の村に自ずと生まれたものである
ともかく祖先でもそこで生きた土地から離れずにあるというのが農耕社会なのである
遊牧民社会だったらそういうことはない、常に移動するからないのである
そしてこの世では異邦人だというときいろいろな民族が混交しているからそうなる
正に民族が違って異邦人になりやすいのである,ユダヤ人は国を持たないからどこに行っても異邦人になっていたのある
ただ日本だってこの世にいるのは一時だということをつくづく感じる
旅して一時泊まる仮の住いとかなる、いづれもう死ぬともなるとそうである
人間の出合いでも一時逢うだけでありもう永遠に逢わないのである
あなたと会いましたね、後は永遠に逢うことはありませんとなる、これが老人になれば現実なのである
何か人間の出合い出も瞬間的にもなる、この世にいつまでもいる普通思っているがこの世とは去る場所であり留まる場所ではなかったのである
結局人間はこの世から消えてゆくものにすぎないのである、最後はこの世にいるは一時だったとなる、そんなに短いのかとなるとそれを老人になれば誰でも実感するのである
日はかなり長くなった、ラーメンを食べて道は薄暗くなったが明るい
こうなると遠くへ行きたいとなる、でも今日のように暑いと自分は熱中症になるから怖いそれで去年だったか春に暑く遠くへ自転車で行ったら熱中症になり痙攣起こして危険だったのである、それでこりたから暑い時は警戒するようになった
こたれもやはり歳とったということである
ただこんなに春にまた暑くなることはなかったように思える
4、5月とはこんなに暑くならずあたたかくでもこんな陽気にはならなかった
それで自転車で遠出できたのである
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