2022年07月16日

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない (カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)


宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない

(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

宗教と政治の問題を私は創価のかかわりで考えてきた
必ず信教の自由を言う、これを盾にカルト宗教団体は政治化しても国会議員まで出してもいいとなる、そもそも宗教とは何かということが明確にされていないのである
何を信じるか勝手だして信じなくても無宗教でも自由だとなる
常に自由が強調される、それが戦後民主主義である
自由には義務とか責任がともなうがそれは無視される
でも必ず自由にも責任が問われる、なんでも発言していい反対してもいい自由だとはなるではその発言に責任がとれまのかとなるとない
そして必ず人間は責任をとらされるようにできている
ナチスでもそうであり日本の戦争でも別なものにしても何百万人も死んだのである
それが戦争をすすめた国民の責任だったのである

だから別に一人の言うことなど責任がないようで必ず責任をとらされるのがこの世であるただ責任というとき権力をもったものが一番責任をとらされる
権力を行使できる立場の人が一番責任をとらされるのである
だから権力を得たいとしてもその責任は重すぎるから江戸時代でも庶民は切腹されるからとして侍になりたくなかったのである
民主主義は無責任社会である、でも責任は誰かがとらされる、原発事故では地元の人が故郷に住めなくなった、それも地元の人が全部ではないにしろ責任をとらされたのである
責任は政府と東電にあった、それから国民全部にもあった
原発は政府の方針で作られたからである
今電力不足でまた原発が稼働される、でもまた事故になったら誰が責任をとるのかとなるの責任を自覚してするのならいいがつまり事故になったら切腹するような責任を自覚してするならいいが実際は責任を幹部でも政府関係者でもとらない
でも戦争で3百万人死んだように必ず国民が責任をとらされるのである

戦後の民主主義はあらゆることが自由でありあらゆることに権利を主張した
でも責任とか義務とかはないがしろにされた
ただ自由とは自分の利益を得る自由でありそれにともなう権利は無視されたのである
原発事故でも地元の人は利益を得ることを望んだ、それはいいとしてもやはり責任が課せられていた、原発は危険なものでありその危険を無視して利益に走った
だから責任があった、ただ一番責任があるのは権力を持っいるものだった
原子力村を作って真実を教えない人達だったとなる

宗教の問題でも戦後は戦争がありそれで思想と信教の自由とかがなく国家権力が絶大であり従うほかなくその反動として民主主義が自由だとして生まれたものである
その宗教はカルト宗教であり本来の宗教とはまるで違ったものとなった
でも宗教だからといって常に信教の自由を否定するのかとなり認めてきた
それが災いとなったのが統一教会だったのである
韓国でも世界でもカルトと認め制限しているのに日本だけがしていなかったのである
日本はそれだけ何でも自由な国となっていたのである

そもそも宗教とは何かもわからなくなっていた、もともと日本人に宗教心がない、あるのは常に御利益しかない、それは神社で賽銭をなげて御利益を得ると同じである
創価でも他でも似たり寄ったりであり本来の信仰心などないのである
それが小規模ならいいが創価とか他のカルト教団でも巨大化するとどうなるのか?
国会議員になり公的機関に警察であれ自衛隊であれ役所であれ入り込み権力を得ようと工作する、また学校の先生にもいてその権力を拡大してゆく
日本の国家権力を収奪するために日々運動している、なぜそういう団体が創価などでもあからさまにしているのに制限できないのである
統一教会とかなると韓国が日本を支配するための機関でもあった
なぜな公安委員長が統一教会を支持する会の宣言役にもなっていたからである

信教の自由はある、でもその自由が権力を持つときどうなるのか?

創価てあれカルト教団は御利益を得るために祈る、だから何か御利益があるとき仏からでも神からでも福運をさずかったとしてさらに信仰することになる
つまりますます何か欲望をかなえたことで信仰が強情なものになる
創価だと議員になったりすると最大の信仰の御利益となりそれが信仰となるから強情になる、でもこの世の御利益が得られないとなるとどうなるのか?
信仰しても無駄だ何も利益が得られないとして捨てることにもなる
もちろん人間は苦しい時があるからなんとかしたいとなり宗教団体に入って解決したいともなる、でもカルト宗教団体はそうした人達の問題を解決できるのかとなるとできない
むしろそういう困窮した人達を利用して自分たちの権力を拡大することをもくろんでいるのである

人間の問題は余りにも複雑すぎるのである、簡単に一様に問題を解決できないのである
何か一人くらいは相談にのれる、でももう三人でも金に困ったとかいろいろな困りごとを相談されても解決できない、ましてや百人とか何千人とか何百万人なったらもう解決できない、だから創価などはただ困った人でも一票としてしか見ない
それで議員になる人がいてその人は得するだけだとなる、他でも集団化して問題を解決しようとしても簡単にできないのである
集団化して解決しようとするときそれは政治になる、でも政治でこの世の問題すべて解決できないのである
第一政治家自体が自分の利益しか考えていない、権力を得て得することしか考えていないのである、だから政治家自らが言っている、選挙のときは頭を下げてお願いするが後は関係ない、自分が得することだと自ら言っている、政治家とはそんなものなのである
でたも困った人は何かそういう巨大な集団になればみんな仲間であり助けてくれとは妄想する、だから苦しい時はそういうカルト宗教団体にでもとりこまれるのである
統一教会でもそうだった、財産がまきあげられたとなる

要するにそもそも人間は苦しみから逃れられない、そして人間は個々人でカルマをもっている、課せられている、そのカルマも個々人で違っているのである
そのカルマを解消するために個々人で別々にその苦しみを解消するほかないとなる
それは意外かもしれないが金持ちでもカルマをもっていて苦しむのである
その金のために苦しむことがある、遺産で兄弟が骨肉の争いとなることもあるし
私のように金が盗まれたりその金が災いになったりする
その金に何か悪いカルマとなり苦しめられることがあるのだ
そのカルマは集団的に解決できない、それぞれのカルマは違っているし個々に苦しんで解消するほかないのである、それで自分は二人の女性お親がいて介護で死ぬほどの苦しみを受けたのである、それが恵まれた自分のカルマだったと自覚した
何か不安だったがそれが現実化したとき過酷なものだった
でもなんとかきりぬけたとはなる

それぞれの運命は宿命は違っていてこれを一様化して集団組織では解決しない
なぜなら人間の運命とか宿命とか不可解だからである
だから財産がfortuneが運命という意味があったのはそのためである
それぞれの運命は不可解である、兄弟でも姉妹でも不可解である
全く違った人生にもなるからである、それも不可解なのである
ただ一生楽では人間は終わらない、必ずどこかで苦しむようにできている
それはカルマだとなる、それを集団組織では解決できない、なぜならそれぞれのカルマが一様ではないしその宿命とか運命でも違っているからである
それは不可解なのである、だから仏教でもカルマ論が生まれたとなる
生前の行いが関係しているとかまでなる、それは人間の個々の運命とか余りにも不可解だからである
だから例え恵まれた人でもカルマをもち苦しむことになるのである

だからカルト教団であれ集団組織に入り問題は解決しない、それはかえって統一教会であれ利用されるだけだとなる、苦しい時はどうしても助けてもらいたいとなりそういう団体に入るのである、でも実際は利用されるだけだとなる
それより自分のカルマを自覚することだともなる
なぜ今その人が苦しんでいるのか?それはやはりカルマが関係している
その人は私の家では援助した、それは親同士であったがその子にもカルマとなっていた
親が世話になりその子も世話になったのだからそれがカルマとなっていたが自覚できなかったから無関心となっていた、そして今自らがそのカルマのために苦しんでいるのかともなる,カルマとは意外と自覚できないのである、ただ苦しむとなぜ自分はこんなに苦しむのかとなり自覚するのである、それ意外で自覚できないのである
親の因果が子に報いというのは本当である、私自身がそれを苦しみで自覚した
もう死ぬほどの苦しみだった、それもカルマだったと自覚したのである

この世には経済的不平等とか他にも生まれつきの問題もある、才能にしろ生まれつきでありいくら努力してもそもそも才能がなかったらどうにもならない
また体力でもそうである、生まれつきなのである、私は体力がない、だから他の人を見て大工さんでも建築関係でも体力がある人がうらやましいとなる
そういうことでもみんな一様ではない、そもそもだから人間を数式のように解決できないのである、集団組織化して解決できないのである、個々に問題が違っているからである
それに対応できない、人間が相談にのれるのはせいぜい二三人だとかなる
キリストでも二三人いる所に私がいると言った
それが何百万人になったらそれはただ苦しむことでも利用されるだけである
個々に対応などできないからである、だからマルクスの理論はそうした個々の運命を無視しているから結局かえって不平等にもなってしまったのである
極一部の人が権力を一人じめして兆もの金を手に入れてめかけを十人もったとか報告されている

運命とは個々にめぐりめぐってゆく、金も天下の回りものであり個々にめぐってゆく
一か所には留まらないのである、だから今貧乏で苦しんでもいつか個々にめぐりめぐって金でも回ってくることがある、今苦しんていてもいつか苦しみも解消して楽になることがある,恵みはめぐるのである、ただ悪いカルマもめぐるのである
阿部前首相が殺されたのもカルマを作っていてそれがめぐりめぐってそうなったのである統一教会を支持していた、その統一教会で苦しんでいた人がいたがそれを無視していたとなる、何かそういうものがめぐりめぐって殺されたとなる
犯罪にあうとき意外と他人の悪いカルマを受けてそうなる
いろいろな災厄に私自身がそうなったのも他人のカルマを受けたからである
他人のカルマを受けることは怖い、また結婚したりすると必ず結婚した相手の家族のカルマを必ず受けるから怖いのである、それは逃れようがないからである
このカルマはそれぞれ苦しまない限り解決しない、集団組織では解決できないのである
それぞれの罪だって集団組織で解決できない、個々人によってしか解決しない
だから組織集団は幻想共同体だともなる、何か個々人で苦しむとそういう団体で助けてくれると妄想してしまうのである
そして利用されて金でもまきあげられるだけだとなってしまうのである

運はめぐり回る
金も天下の回りもの
いつかあなたにも運が回ってくる
その時まで耐えなさい
一挙に問題は解決しない
神の配剤がある
あなたは幻想を見てはいけない
集団組織ではカルマは解消しない
個々の苦しみがあり
個々に解決するほかない
運はめぐりめぐってゆく
運が開ける日を待ちなさい
・・・・

こうなるがなかなか待つということがむずかしいのである
そこで苦しい時変な方向に向かって行くのてある


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/189672962
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック