2022年09月02日

浪江を偲ぶの春の短歌 (ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)


浪江を偲ぶの春の短歌

(ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)



大堀に陶工の技代々に磨くも良しや春の日たずぬ

大堀に買いし陶器の我が家にありてなじみぬ春の日暮れぬ

高瀬川流れのひびき高鳴りぬ春の日さらに上に登りぬ

高瀬川登りてあわれ葛尾に磐城落合の名そ残りけり

浪江町今は荒れにし悲しけれ昔の栄もどることなしも

浪江町生きにし人やその墓地も荒れて捨てられ春も悲しも

請戸港昔栄えぬ江戸にしも松前にしも宮古にしも行く

誰か住む津波に流さる家の跡椿の咲くも人は住まじも

古き蔵残れる家や戻りきてここに住みなむ椿咲くかな

請戸港昔の面影ここになし春の日さすも高き防波堤

甚大な津波原発その被害春のめぐれど立ち直れじかも

長塚に銀行ありと姉遊ぶそのこと聞きしも遠くなりぬる



ふるさとの文学散歩―浪江町の文学碑ー常盤芳秀の歌(1860−1920)−松本博之著

澤井屋という金物店を経営しながら詩文をよくし、すぐれた書家でもあった
万延元年江戸で桜田門外の変が起り幕末動乱の歳に浪江で生まれた
父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前であったという
事あって諸国を遍歴し旅の途中この浪江に立ち寄ったところ人物を見込まれて常盤家に入ることになった

芳秀はこの父に剣の道を学び、明治八年藩錦織晩香が幾世橋村に開設した希賢舎で漢学を学び塾頭をつとめた、また国学派の歌人海上胤平に歌学を学んだ

芳秀の師の海上胤平は千葉県海上郡三川村に文政一二年(一八二九)に生まれ江戸で千葉周作に剣を学び・・・

師弟の縁がどのようにして生まれたのかはわからないが、金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという、その折東京の師の居宅を訪ねたのだろう

この人は大和田建樹と同時代の人だった

浪江波うつ稲の穂の
長塚過ぎてゆたかなる

鉄道唱歌を残した人だった、他にも短歌を多く残した
ここに長塚とあるのは双葉駅とは後からできたものであり元は長塚だったのである
私の父が双葉の新山に酒屋の丁稚として働いていて長塚に銀行があったらしい
銀行というものはめずらしいものでそこで子供の時遊んでいたか言っていた

この文章は江戸時代の状況を現している、必ず侍は剣の修行をしている、だから父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前となっていた
どこかの道場に属して剣の修行をしていた、それは良く時代劇ででてくる
道場破りとかでもそうである、この人も諸国を回っていた、そうして浪江の常盤家に養子となったのかとなる
そういう父を持ったのが芳秀だったのである、ここにリアルな江戸時代の人間が語られている、常に文武両道であり文は短歌であり国学になっていた

そこでここで注目すべきは

金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという

ニシンの買い入れのために北海道の松前まで原釜からも請戸からも船が米を積んで行ったということを書いたが江戸にも行っていたのである
ただ江戸へ運ぶのは米とかであり乗客は運ばない、ただそこに便乗させてもらったのである、ただ江戸から金物を仕入れるということはあった
江戸時代には鉄道はなく船が主な交通となっていた、小名浜から石炭を積みだして東京に運ばれていた、常磐炭田があり鉄道ができる前は小名浜から石炭が運ばれていた
ともかく船が運ぶために利用されて江戸まで通っていたことは確かである

その鉄道にしても

一と筋の煙を立てて走り行く車屋形の早くもあるかな 芳秀

こんな感覚だったのである、車屋形とはまさに車が家になっいてる屋形になっているというふうにも見た、そういう感覚だったのである
煙はくとは蒸気機関車であり石炭を燃やして走らせていたからである
私が蒸気機関車で原町の高校に通っていたということも信じられないとなる
覚えているのはトンネルがありそこで煙が出て顔がすすけたということがあった

江戸時代から明治の変化で大きいのは鉄道が全国にめぐらされたことなのである
それまでは関所があったし簡単に藩の外にでれなかったが切符一枚で全国どこにでも行けるようになったからである
だから鉄道が新しい日本を開いたとまでなっていたのである

ともかく浪江町は本当に津波と原発事故で変わり果てた、復興はしていない
2万人いて一六〇〇人帰ったとしているが残ったのは主に老人である

残念だったのは大堀焼きの窯元があった場所である、高瀬川があり場所が良かったのである、それが窯元は散り散りになってしまったのである
失われたものが余りにも大きすぎたのである

大堀に窯元並び技磨くその日は還らず春も悲しも

どうしてももう在りし日は帰ってこない、その損失は回復しない、これが津波だけだったら海側の被害だけにすんでいたのである
原発事故がそうしたのである

おちこち(紀行文集)(明治) 大和田建樹を読んで
posted by 老鶯 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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