失われた歴史(鹿島区栃窪の上萱―写真)
(なぜ過去が理解できなくなったのかー歩く感覚の世界がわからなくなった)
良くみると大根ほしているみたいだ
白いものが二つぶら下がっている
大根を干して沢庵にしたのか、飯館村だと凍み大根が有名になっていた
この写真は上萱に人が住んでいたときの写真である、相当に古い、茅葺の家がここに残っていたからだ、ここに五六軒家があった
ここは元の原町市ではなく鹿島区の橲原村の領域である
もともと栃窪から塩の道として通じていた、それで塩を運んで休んだ地点の助の観音がここからそれほど遠くなくある
ただ塩の道は江戸時代のものである、この上萱の歴史は江戸時代からあったのか、明治時代にはすでにあった
ではなぜこんろ不便な地域に人は住んだのか?
それなりに暮らしが成り立っていたからだとなる、畑などもあった
というのは大原地域から発展したのだが八木沢峠に向かい細い道がある
そこの脇の森に隠れるように田があった、そこが遠田という地名になっている
なぜ遠田なのか?それは大原の草分けとなったのが前田地域である
前田と名がつくのはたいだいそこがその土地の草分けとなった家だからである
その前が前田となったのである、そこが村の中心なのである
そして私が南相馬市の病院で同じ部屋の人である斎藤氏がその草分けの家だった
でもその人は死んだ、実際は息子は街で暮らしていて一人で住んでいたのである
そうして死んだ結果そこは空家になっているのである
その人の墓が杉木立の中に隠れるようにあった
その墓を見たら刀自と名前の後についている、これはめずらいしと思った刀自は古代からある女性のことだからである
そこは確かにそうして古風なものを残していた古い家だったとなる
ただ大原より深野が古い、館とつく地名が二つもあるからである、これは中世のものであり相馬氏がこの地に入り支配する前からあったからだ
そしてなぜそうした不便な所に田を作ったのか?
不便な所に住んだのか?
それは当時は生きるためには農業するつ他なかった、すると土地が一番農業にとっては大事なのなる、土地があればそこでなんとか畑で野菜を作りわずかに平な所でも稲作をして米を食べる、それから桑畑を作り養蚕するとなっていた
他に山仕事があり木材とか炭焼きの仕事があった、特に炭焼きは現金収入になり山で暮らしていけたとなる
「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。
なぜ遠野市となったのか?遠野となれば磐城に遠野がありいわき市街からかなり離れた場所である、ある土地の中心部から離れた所が遠野となる
でも遠野市はなぜそうなったのか?おそらくもともと遠野とは中心部から離れた場所だったがそこに住む人が多くなって地名化したのか?
原町市があるとして原町とは原っぱだったのである、野馬追が行われた雲雀が原があり
広い原っぱであり街などなかった、鉄道が開通して原町駅が機関区になり駅前通りができて今の街になった、でももともと原町村がありそこからは野馬追いに一騎しかでていない小村だった、江戸時代までは農業社会だから農家中心であり街中心ではなかった
そうして原っぱでも今のような街に発展することがある
とすると遠野というのも遠い野としてあったがそこに人が移り住んで広がったのかとなるいわき市の遠野は確かに中心部から遠い野にあたる
でも遠閉伊(ととのへい)からきたとすると遠野はそういう地理ではない、地理的にはこちらの説が合っている
なぜ過去がわかりにくくなるのか、それは今から過去を見るからわかりずらなくなる
例えば一番大事なことは当時は車がないということである
道を歩いて遠くに行っていたのである、この相違が大きいのである、歩く感覚で見なければ過去でも歴史は理解できないのである
現代とは近くが遠くなり遠くが近くなった時代なのである、外国でもニュースが絶え間なく入ってくる、かえって近くのことが見逃される時代である
ウクライナがどうだこうだとかウクライナが隣村のように情報社会ではグロ−バル化では身近になる、江戸時代ではそういうことはない、歩いて見て回る近くが生活の基本であるだから村社会でありみんな何をしているかすべてわかっている社会である
今は田舎でも何をしているのか何を仕事としているのかわからないのである
トラック運転手なども多い、とするとその人は東京とか遠くと関係している、中古の車を外国に売っている会社がある、それは外国の方が親しいのである
そういうことは田舎でも常にあり近くのことがわからないのである
とにかく大原からなぜ奥地へ人が住むようになったのか、それは農業社会だと土地が必要だからである、それでこの辺で人口の三分の一が天明の飢饉て消失したとき富山県とか石川県とか越中とかから移民が入ってきたのは土地が無料で与えられたからである
欠け地が広がりその土地を無料で与えられるということて農民が危険を犯して藩をでてこの地で荒地を開墾して住んだのである
またなぜ寒い満州に日本人が移民したのかとなるとそれは広大な土地が手に入るということで農民が移住したのである、それは農民社会では土地が一番大事だからである
ただこの辺で最初に移住してきたのは海人族の安曇族の後裔である、それが八木氏であり犬飼氏とかである、何故なら大原にも綿津見神社があったし本当に綿津見神社と山津見神社が多いからである、その人達は先進の技術を持った人達であり焼畑もできた
それで飯館村の山津見神社のある所が佐須であるがこれは焼畑地名なのである
そして八木沢峠があるがこの八木沢とは八木氏のことなのである、人名が地名化したのである
道としては今の車の道ではない一段高い所に細い道があった
なぜならそこに六地蔵が隠されるように残されていたからである
車社会になったとき昔の道は埋もれて隠されて見えなくなったのである
すると過去はわからなくなる、八木沢峠でもあそこを歩いて上ったらどれだけ大変な苦労になるかわかる、つまり飯館村には簡単に行けないのである
江戸時代でも明治以降でも車がないのだから歩くとなると容易ではない
何か天秤棒で鹿島区の屋形の人が鰻を売りに行ったということを聞いた
天秤棒というとき江戸時代の話になる、それを川俣で売ったというのも驚きである
そこまで天秤棒をかついで八木沢峠を上ること自体どれほど大変なのかとなる
そういんう苦労が車社会になったとき全くわからなくなったのである
六地蔵があったとしてこれは境にあることが多くそこで無事を祈ったともなる
私の姉は保健婦をしていて上萱に行った、そこは鹿島区の栃窪村内であり鹿島町に入っていたからである
そこで幻燈をもって説明していたとか言っていた、これはランプの光りで映していた
それから電気になった、でも上萱に電気が通っていたのかとなる
何か草鞋などを作っていたという、草鞋を買ってくれとなっていた、そういうとき買ってもらわないと困るからあえて買ってやったということもあった
戦後まもなくは街内でも電灯一つくらいしかなく山の方では電気が通るのが遅れた
葛尾村などでも相当に遅れて電気が通った
ネパールとかの山の暮らしをみるとそういう昔を偲ぶことができる、同じような生活をしていたからである
いづれにしろ何か歴史が消失してゆく、上萱で昔を語るものがなくなった、粗末な墓もあったが住民がいなくなりなくなった、もう何も語るものがないとなる
ただこの写真は貴重なものとなる
茅葺師に聞く〜 屋根だけにとどまらない 茅葺の魅力とその可能性とは
https://bit.ly/3RDkMUH
こういうことがあり茅葺のいい点があった、上萱とはこの萱のことであり萱がつくち地名が多い、会津の山間地域は一面萱が茂っていた、何か相馬地域にも会津から茅葺師が来たというとき茅葺の家が多いからそういう技術を持っていた人達が来たのかとなる
結局時代が余りにも変わりすぎて過去にあったものが理解できなくなったのである
でもそこにも何か学ぶものがあったのだがもう茅葺の家自体作れる人もいなくなったともなる
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