2022年10月12日

グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化 (物の値段はどうして決まる)


  グロ−バリゼーションと資本主義の縮小化

  (物の値段はどうして決まる)

●物の値段がどうして決まるのか

農業の場合

●人件費
●原材料費
●技術設備費用(機械化)
●肥料代
●輸送費用
●燃料代

例えば今肥料がウクライナ戦争で高くなっている、供給が減少したから供給できない
また世界的にコロナウィルスなどで半導体不足になりそもそも商品が機械でも作れない自体になっている
ヤマハの最新作のYPJの電動自転車が作れていない、それもいつ作れるかわからないという、供給ができなくなっているのだ
それは車でも起きている、どこでも半導体が必要でありそれで作れないから新車が買えないとしている、それで中古車が売れているという、高く売れているという
中古車はもともと需要が大きかったからさらに大きくなったのである

物の値段は農業だったら原材料としてかかるものがある、特に肥料代が一番かかる
農業は肥料なくしてできない、肥料が最重要課題なのである
だから焼畑だと森林を燃やして灰にして窒素などを取り出して肥料にしたのである
また尿や糞も肥料にしたし枯葉とかも肥料になった
また北海道のニシンが大量にとれたときそれは人間が食べるものではなかった
肥料として全国に売ったのである、それだけ肥料は農業の生命線なのである

それから現代の農業は今までの農業とは違う、昔だったら田植えでも稲刈りでも人力でしていた、すると人件費がかかるが機械に変わった、でも機械には燃料として石油を使う
またハウス栽培が増えた時、電気でも暖房するこめにも石油を使う、その電気の材料が何かというと石油なのである、だから石油の値段が経済を左右するのである
石油ショックもそのために起きたのである

●値段でも輸送費用が大きい

そして現代社会でかかるのは輸送費用だ!

グロ−バル化すれば世界に物を運ぶのだから輸送費が大きなものとなる、日本国内でも日本全国なのだから輸送費がコストとしてかかる、例えば近くの梨農家で相馬市まで梨をリヤカーで運んでいたという、15キロも相馬市まである、だからその労力は余りにも大きいものだったのである、でも相馬市なら人口が多いから売れたから苦労しても運んだのである
とにかく現代の経済は米をとるのにただ米だけを見ていてはわからない
米をとるにも肥料が必要であり機械が必要であり輸送も必要でありと昔の農業とは違っている、だから必ずしも米はとれているから米は上がらないとかならない
外国から肥料代もかかるし運ぶとなると石油でもかかる、つまり輸送代も大きいのである機械を動かすにも石油が必要でありまた電気も使いハウス栽培しているのである
だから米は日本で十分とれているから高くならないとは限らないのである
それはグロ−バル経済なのである、一見米なら十分にあるように見えるがそれをとるにも食べるにもやはりグロ−バル化していたりする
つまり何でももう国内産だけではやっていけなくなっている、そういうシステムとして農業も組み入れられていたからである

工業製品でも自国だけで作れない、世界中から部品をとりよせて組み立てるとかなる
それで心臓部の半導体が不足したことが致命的になったのである
世界がサプライチェーンになっていたからである
つまり世界が密接に結び付くということは世界情勢に左右される
ウクライナ戦争でそれが現れた、小麦が入らなくなりアフリカでは食料が得られないので餓死にもなるとなり深刻化したのである
またロシアが意外と旧式の武器を使っていて弱かったというときグロ−バル化して技術の面で実際は遅れていたためである
農業でもそうなように工業ならさらにグロ−バル化しているからそうなる
技術的に遅れるとその国自体の国力にも影響してくるのである

●グロ−バル化資本主義の限界現象

でも今世界で何が起きているのか?

それはグロ−バル化とか資本主義の限界が見えてきたということである
私はグロ−バル経済を批判してきた、でもそれが批判するまでもなくグロ−バル化は縮小する、コロナウィルスとかウクライナ戦争とかまた資本主義が機能しなくなったことでそうなる
資本主義とかは常に投資先が必要になるシステムである
そのために資金が必要でありファンドが必要になる、でもその資金でも投資先がなくなれば機能しなくなる、それが具体的には日本の銀行でも起きている
金は集めても投資先がないのである、地方銀行でも高度成長時代は金を借りにくる会社がいくらでもいた、高度成長時代は資金必要として新しい事業を起こす人がいくらでもいたからだとなる、そのためには資金が必要だからである

私でも駄菓子屋のような店を始めるためにもわずかでも資金が必要であった
でも銀行では貸してくれずに苦労したのである
今は事業を起こすから銀行に金を貸してくれという人は減った、すると銀行は必要ないとまでなって苦しんでいる、何でももうけていいのかわからない、それで投資信託とかを売るようになった、それは必ず手数料が確実に入るから銀行にとっては損しないいい商売なのである
でも実際は銀行の預金でもそれを投資していれば必ず銀行でも損するリスクがある
それでも怪しいアメリカのCLOとかにジャンク債とかに投資して大損するとか警告されいる、でも農協でも農民から集めた金をそういう怪しい所に投資しているのである
金余りであっても投資先がないのである

それでスペインが衰退したのは金銀を集めたのだがその金銀を使って投資する先がなくて衰退した、イギリスとかだと金を産業革命が起り投資して七つの海を支配する大英帝国を築いた、でもスペインは投資先がなくなり衰退したのである
だからいくら金があっても金銀があっても豊かになれないなのである
投資先がありそこに金をつぎこんでもうけがでれば豊かになるのである
葡萄栽培でも土地がありさらに大量の葡萄を作ればもうけになる、でもその土地を全部使ってしまいばそれ以上大量には作れなくなる、そして今度は葡萄の質のいいものを作ることに技術開発するのである
日本の米でもそうである、日本の米の生産も最初は新田開発で量を増やして人口を増えたのである、でもその土地に限界があり今度は一反辺りの面積でも量をとれるようにした
さらに今は質も良くしてうまい米が食べるようになったのである
それは量の拡大ではなかったのである

経済は確かに需要と供給の原理で働いている、日本でも戦後高度成長したのはアメリカが電機製品を買ってくれたからである、アメリカが巨大な消費地としてあったからなのである、いくら物を作ってもそれを消費してくれなかったらもうけることはできないからである、戦前の養蚕でも絹を作るのに日本の生糸をアメリカで買ってくれたから農業が成り立っていたとなる、巨大な消費地があったから成立つ産業だったのである
つまり明治維新後は世界が経済の場となり市場となりグロ−バル化していたのである
それが現代になり頂点に達してコロナウィルスとかウクライナ戦争とかさらに自然破壊とかなりグロ−バル化とか資本主義は限界に達したのである
またグロ−バル化の弊害を述べて来たがグロ−バル化とは自然破壊にもなったから持続可能な社会としてのSDCG(持続化可能社会)が言われるようになったのである

●世界の大きな転換期

ともかく世界は大きな転換期を迎えている、そこに混乱が起きている
こんなに円安になり物価高になるにも驚いた、この変化も大きい、これにどう対処していいかもわからない、これは小手先の金融政策では対処できないものだろう
なぜなら世界的変化として起きているからだ、その世界の大変化の中で起きることだから簡単には日本だけでもどうにもならなん問題だとなる
それは一過性ではなく持続するというとき対処方法がないともなる
金勇政策だけではどうにもならないともなる
ただグロ−バル化は終わる時国内経済重視となり江戸時代の鎖国ではないが国内回帰とかにもなる、つまりグロ−バル化と資本主義には無理があったのである
その無理が自然を破壊するとか自然の理に反していたのである
コロナウィルスでもグロ−バル化して一挙に広がったのである
人間は基本的に生態系に依拠して生きるものであり生態系を離れてありえないのである
だから原発事故でも生態系を無視して作られたから事故になり住民が故郷に住めなくなったともなるのである、その被害は余りにも甚大だったのである

いづれにしろ今は時代の大きな変わり目でありそこでいろいろな混乱が起きてくる
ウクライナ戦争でもコロナウィルスでもそうである、そしてこういうときは株とかに手を出すなとか大きな買い物、車などは買うなとかなる
なぜなら優先するものは食料だとなるからである、車などでも増えすぎたのである
だから車が少なくなることはかえって騒音もなくなり落ち着くともなる
何かそもそも生活自体を見直す、必ずしも経済優先ではないものにすることも人間にとって幸福かもしれないからだ
あらゆることが経済優先になりすぎたのである、資本主義とはそういうものでありそれも限界に達したのである、だから何か時代の思想も変えねばならないとなる
資本主義も民主主義でも思想なのである、でもそれも変えねばならないとなった
だから独裁がいいというのではない、そもそもグロ−バル化というのも必ずしもいいものではないのである、だから食料でも基本的には国内でまかなうのが自然の理なのである
自然の理に逆らうことは人間にできない、そうなれば必ず災いが生まれる
それが原発事故でもあったからだ、ただ昔の貧乏に帰れというのではない
何か行き過ぎたものがありそのゆりもどしが来たのである

そもそも電気がなくて車がなくて暮らせないとなっているのがおかしいのである
第一縄文時代から江戸時代まで電気がなくても暮らしていたからである
戦後でも電気など裸電球一つであり水道もない洗濯機も冷蔵庫もなくても死ぬこともなかったのである、貧乏でもそれで人間の生活が途絶えることはなかった
逆にその時子供がわんさといたことの不思議である、食べるものもないような状態でなぜ多くの子供がいて育てられたのかとなる
別に電気を否定するわけではない、ただ電気がなくても石油がなくても人間は死なない
生活は継続されるのである、電気がなくなったらもう終わりだとか石油がなくなったらもう終わりだとかなっているけど実際は人間の歴史は江戸時代までそんなものなくても暮らしていけたということである、だから電気がなくなっても石油が入らなくても人間の生活は維持できるし継続できるのである
その辺を見直すことが迫られている、何か技術的にも見直す、電気だけではない何か方法かあるのではないかとなる
実際は日本は森の国でありでも木材を利用していない、外材に頼るとか不自然なのであるそうして自然の理にかなわないことが災いを産むということが怖いのである
それが原発事故として現象化したともなるのである

bookeconomic1.jpg


この本はわかりやすい、でも対策は大きな買い物を家とか車を買うなとくらいしかないと書いている
何か有効な対策がないのである、貯金は危険だとしても株がいいとか外貨預金がいいとしても
それもリスクがある、結局この世の中はあるゆることにリスクがある

そもそも生きていること自体リスクだ!

これが世の中なのである


posted by 天華 at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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