飯館村の木戸木(ことぎ)で残された老人が語る
(ここには戦前も人が住んでいた、水車もあった、縄文時代のヤジリや石斧も発見された)
道も歩いていたキツネ
キツネは二匹いた
これは確かにキツネである、キタキツネと似ている(大倉)で見た
この半鐘は盗まれたという
森の所に家があった
獣道があり「こだき」といっていた、でも地図にはない
手前の荒地に語った人がいた、心臓悪くて仕事ができないと言っていた
この鉄条網の線には電気が通っていて効果がある
でも狭い鉄条網から猿がくぐりぬけてくるという
老人が植えた桜が50年で大きくなった
ここの平な土地は田んぼであり荒地になった
ここを平にするのに苦労したと言っていた
畑だった所が草ぼうぼうになりそこに老人が草むしりとかしていた
鉄線で囲まれているのは猿が入ってくるからだという、電流が流れる線に触れると猿は怖がるが鉄条網でもその穴から入ってくるという、狭い穴で入るのである
なぜ大倉でキツネを二匹もいたのか、今まで見たこともないのである
だからキツネはいなくなっていたと見ていた
だからそもそもキツネはどんなものかわからなくなった
犬とも似ているからである、でも確かに尻尾は太いし明らかにキツネだった
キツネはもともと多くいたのである、それで街にも来てキツネが鶏をねらっているとか食われたとか子供の時聞いたことがある、キツネは身近な存在だったのである
それでキツネにだまされた昔話がいろいろ残っているのはそのためである
原発事故以後この辺では飯館村などでは特に人が住む人がかなり減った
そのためなのか猿とかイノシシとかが人を恐れなくなり荒すようになったのである
その人は昭和16年生まれだった、ということは戦争中に生きていた
でもまだ幼児だからどれだけ記憶があるかわからない、そこでわかったことは木戸木は
戦後の引揚者が入ったからできた村ではなかった
すでに戦前でも住んでいた人がいたのである、だからその老人は大きな水車があったとしきりに言っていた、
挽臼(ひきうす)
https://www.city.mitaka.lg.jp/suisya/shikumi/usu.html
大きな水車で挽臼(ひきうす)を回して麦とかついていた、米もここでも作られていたが麦も作られていたのである、何か私の住んでいる街内でもうしろは麦とか桑畑があった
麦は結構作られていたのである、今でもネパールとかで田んぼと麦畑が一緒にある
だから麦は欠かせないものとして作られていた、子供の時は麦御飯だったことでもわかる麦を食べないと白米だけだと脚気になる
それで江戸では白米ばかり食べていたから江戸患いとして脚気(かっけ)が多かったのである
これは明治以降も原因がわからなかったのである、それで森鴎外は医者だったがその原因がわからず脚気を増やしてしまったのである
臼石とか飯館村には村があるから石臼水車の米つきとかに使っていたからその名が残ったともなるのか、臼石というと戦前でも使っていたとなる
木戸木では確かに戦後の引揚者だけではない、戦前から人が住んでいた
それよりそこでヤジリとか石斧が発見されたという、それには驚いた
するとここには縄文人が住んでいたのかとなるからだ
もともと飯館村からは縄文中期のものが発見されていてかえって海側に住んでいた人より古い場所だったのである
ということは何かしらそこにも食べるものがあった、もちろん鹿とかを追って動物を追って狩猟して食べていたのかもしれない、そこに住んでいたのかどうかわからない
でもあそこにもそんな古くから人が住んでいたとういことに驚いたのである
今は十軒であり残されたのは老人だけだという、若い人もいたが原町でも相馬市でも鹿島の方にも移り住んだと言っていた
それは大倉に真野ダムができたときもこの近くにそのダムに沈んだ家があり移り住んだ人がいたのである、それは相当に古い話である
そこで発見したのはそこが意外と古くから人が住んでいた場所だったのである
ただ共栄橋とかあるのはやはり戦後の引揚者が住んだ人が名付けたためであるとなる
そして高い森の所にも人が住んでいたという、家があったという
そしてその近くにも獣道がありそこを人が通っていたという
それをコダキと言っていた、漢字にするとどうなるのか?
今通っている道は新しいのであり助けというのがあったという
それは塩の道として助け観音があるがそれとは別なものである
あそこに道があり人が通っていたということはわからなかった、その土地の人しかもうわからないだろう、あそこを越えて佐須の方へも行ったという
獣道を利用していたというのも驚きである
その人は盛んに前の田んぼのことを言っていた、学者の人が来て修復しようとしたがうまくいかないとか言っていた、何でも平らにできなかったとか平らでなくなったことをしきりに言っていた、山だから傾斜地になりやすい、何か泥ででも埋まったらしい
だか平らにしなければならないとしきりに言っていたのである
つまり日本では山が多いから平らな所が少ない、それで苦労していたのである
平という地名は山の中にもあり平たいらにしないと田畑にてきないからである
平にすることが山で生きる場所を作ることでもあったからだ
そもそも日本で野というのは山の傾斜地のことであった、だから平な場所が少なかったのである、そこで平氏とあるのはまさにその平な地が日本では重要だからそこから平氏が生まれたともなる
その人はいろいろ語った、ここの桜は私が植えたものであり50年過ぎたとかもともと山は杉とか植えていないで自生した木が育っていた
確かに杉は家を建てる木材として植林した人工林なのである、それは海側の松原も人工林だった、そのために津波で全部流されてしまったのである
もともと自生した木だと20年くらいで育つとか言っていた
だから自生する木を利用すればいいとかも言っていた,その人は山を持っているという
でも今は利用しないから金にならないから仕事がないとなる
ただ50年過ぎて大きなった杉などは今利用されるようになっている
山でも炭焼きとか木材を利用していたとき山にも金持ちがいたのである
それは大倉の女性が相馬女学校に通っていた、それも山からおりて街で親戚の家から通っていたと言っていた
相馬女学校に入れると人は特別な女性だったのである、まずそこに入れ人は頭がいいとかではなく金持ちでないと入れなかったのである
だから相馬女学校出だというだけで特別扱いだったのである
その老人は大工であり何か東京の方に呼ばれて仕事をしたという、大工としての腕がいいから呼ばれたとなる
だからその老人は木戸木だけで暮らした人ではない、仕事は大工だったのである
だから山でも大工の仕事があった、でも東京の方でも仕事をしたとなる
今そこで一人暮らしになっているけど息子は相馬市で役所に勤め博物館の仕事をしていたという、それで縄文時代のヤジりとか石斧を発見したことなどを言っていたのかもしれない
それにしても今そこに住んでいる人は十人くらいなのか、それも老人である
不思議なのはフィリピン人の嫁がいると家がある、夫はここから外に出て働いているという、その嫁も40以上である、だから結構長く夫婦だったともなる
前は浪江の津島で中国人の嫁がこんな山の中に住んでいられないと夫を鉈で襲った事件があった、あそこも辺鄙な所だったからである
それから玉野村でもフィリピン人の夫が乳牛を飼っていたのだが放射線被害で仕事ができなくなり自殺したとかあった
だからここから見えてくるのはこういう辺鄙な場所に嫁に来る人はいないから外国人の嫁をもらったとなる
これも現代を象徴していたのである
いづれにしろその人の語ることでその土地のことが見えてきた、半鐘が何でここにあるのかと思ったらここで山火事があったという、子供の遊びで山火事があった
だから半鐘もあったとなる、その半鐘の鐘は盗まれたという、それはいつのことかわからないが金属が高く売れる時代があった
戦後は子供の時屑鉄拾いをして売っていたからである、それはいつの時代かわからないがそんなものまで盗むのだろうかとなる
ただ十軒ばかりしか家がないのに半鐘があることが不思議だった
でも半鐘は私の家の近くの神社にもあった、その半鐘に上り遊んだことを覚えているからだ、半鐘は必要なものとしてあったのだ
昭和20年代初頭の頃までは、学区内のほとんどの村には火の見櫓や警鐘台が設置されていた。
元々は、火災や洪水を村人に報せる目的で建立され、構造としては四角鉄塔や梯子状の自立木柱、中には1本木柱の櫓もあったようだが、いずれも頂上付近には半鐘といわれる吊り鐘が取り付けられていた。
戦時中は青年団員の警鐘係が決まっていて、駐在所から村役場へ警戒警報が伝達されると警鐘係は直ちに福泊の鐘楼に登り、「− ・・」(カ〜ン カンカン)、空襲警報だと「− ・・・・」(カ〜ン カンカンカンカン)と半鐘を打ち鳴らし、各村落の半鐘もこれに和して鐘の音が村落の虚空に響き渡り、学童は裏山へ、村民は防空壕へと身を潜めたものだ。
火の見櫓今昔
https://townweb.e-okayamacity.jp/tomiyama-r/intro/tower/tower.html
半鐘はどこにでもあった、火事を知らせることが重要だったからである
ともかくその老人の語ることでその土地のことがこれだけわかった
何かこういう歴史というのは郷土史でもその場に立たないと実感しないのである
今回はその場に立って聞いたから実感したのである
だから土地のことを知るにはそこに住んでいる人に聞かないと本当の所はわからないのである、ただ問題はそういうふうにうまく話ししてくれ人がいるかどうかである
その人は結構話してくれたし話すのもうまかったのである
話好きな人だったのかもしれない、でも老人は昔のことを語りたいことは誰にでもある
それにしてもあんな辺鄙な場所に一人住んでいられるのか?
なぜなら車ももっていないというからだ
それで一週間に三回くらい村のバスが通うからその時買物するのだという
そもそも飯館村だと草野の方にでてもスーパーなどなくなっている
その人は冷凍食品を買っているという、たまたま宅配便の車が来ていた
宅配便は便利なのである、辺鄙な場所でも配達してくれるからである
草野の道の駅のコンビニでは配達もしている、張り紙が張ってあったからだ
何か配達してもらわないと困る、飯館村は広いからである
車がなかったら不便である、アマゾンだと食料まで配達してくれるから便利である
移動販売車もあるがここには来ないという、それも人が少なすぎるからである
ここにきても商売にならないからである
こうしてとにかく老人の語ることを聞いてこの土地のことを知った
こうして土地のことはそこに住んでいる人に特に昔から住んでいる人に聞かないとわからないのである、ちょっとしたことすらわからないのである
なぜこんな辺鄙な場所に半鐘があるのだろうと疑問に思っていたが山火事を知らせるためだったともなる、山火事は燃え広がり怖いからである
なんでもその時消防車などなく旧式の手で押すポンプとかでありどうにもならなかったとかも言っていた、火事を消すにしても昔はなかなか簡単にできなかったのである
水もないからできないと言っていた、小さな川とか江戸水はあってもそれではたりないからである、大量の水を必要とするからである、でもまた手で押すポンプではどうにもならないということがあった
ただ言えることは木戸木は消滅する、後を継ぐ子供すらいないからである、だからいづれは誰も住まない場所となる、今住んでいるのも老人でありまた住めるのは補償金をもらっていたからだとなるからだ、それもなくなると村自体がもたないのである
そんな収入がないから国からでも金が出ない限り村を維持できないのである
確かにしばらくは補償金とか援助かあるから暮らしていけるけど若い世代は流出したし後を継ぐ人がいないのである、こういうことは全国でも同じことが起きている
だた原発事故の避難区域は極端な現象として現れたのである
飯館村では他にも消滅する村がありそのことで本に書いて村の歴史を残すとかしている
この木戸木もそうなるかもしれない、ここはもう維持すのことは不可能に見えるからだ
もともと少ない軒数であり維持できないとなる
夜もここを通ったが真っ暗だった、そんな暗い所に一人住んでいるのも淋しいと見る
それでも愛着がいる住んでいるのかとなる、さすがにこんな所には私でも住みたくないとなる、住みたくないというより住めない、食事するにも大変だからである、買い物もできないとなるからだ
でも不思議なのは車もない時代人々はこういう山の村の不便な場所でも住んでいたのである、なぜなら電気もない時代があったからだ、炭を使って暮らしていた、炭は街に売れたからである、それから山に仕事がありなんとか暮らしていたとなる
つまり電気も水道もガスもなく暮らしていた時代があった
でもその時それなりに人口が多かったというのも不思議である
その人は11人兄弟だったという、とにかく戦後食べ物がなくても子だくさんであり
子供がどこでもわんさといて遊ぶ声が木霊していたのである
今子供を見かけるのは幼稚園くらいであり子供の遊ぶ声など聞こえないのである
これもなんなのだろうと思う
とにかく木戸木は消滅してゆく、私はここに人が住んでいることに関心がなかった
私が関心がもっていたのは森の中に清流の流れがありそこがなんとも神秘的な場所だったからである、でも今は道路になってなくなったことが残念だったのである
でもここに住んでいる人に関心がなかったのである
かえってそういう場所は保存しているべきだと自分自身は思っていた
でもそんなことを思う人は一人もいなかったとなる、むしろ便利な道路を作った方がいいとなっていたのである、でも私にすれば残念だったとなる
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