2022年12月06日

2030年に地方から百貨店や銀行が消える「衝撃の未来」 (原発事故の避難区域で起きたことが全国的に起きる)


2030年に地方から百貨店や銀行が消える「衝撃の未来」

(原発事故の避難区域で起きたことが全国的に起きる)

山里に行くと90代1人暮らしの人だらけという光景が珍しくない。そこに30代の家族が移住したとする。10年後には高齢者が亡くなり、若い移住者だけが残ることになる。

 「ポツンと5軒家」から「ポツンと1軒家」の状態になるのだ。すると、わざわざ1軒のために、電気やガスや水道を提供しないといけなくなり、他地域のインラフの料金もアップする

 「2030年には大型ショッピングモールは維持できなくなる」という事態が起こる。見込んだお客さんが来ず、場所によっては閉店が始まっており、今年だけで25店が閉店しているという。想定以上に人口減少が進んでいるのだろう。

 2030年となると意外と早い、まだ私でも生きているだろう、このことが先取りして極端化して原発事故で現れた地域にもなる
盛んに復興とかいってもできない、若い人は流出して残されたのは老人だけなのである
そうなったところでいくら復興といってもできないとみる
復興してもらいたいと望む、でも現実を見ればもうできないと見るのである
どうしても大熊とか双葉とか浪江とか小高や飯館村を見ると復興できないように見える
だからそこにいくら金をつぎ込んでも無駄にも思える

それはここだけで起きたことではない、全国で起きていることなのである
空家が800万軒なのかその数も凄い、それより町や村が廃墟化してゆく
それが原発事故の避難区域で起きたのである、極端なものとして起きた
でも日本全国で起きている現象なのである、空家問題でもそうだし過疎化の問題もそうである、少子高齢化で縮小してゆく日本の対策が望まれている
インフラ整備でも過疎化した所では都会の80倍もかかるとかその金の負担は東京とか都会の人が払うということで不満なのである、だからむしろそういう所には住まないで一か所に集中して住めとなる、私自身としては人間の多様な生活があって地域があって住むのがいいと思っている、でもそれは何か自分の場合は常に美的観点とかから見ているからである、現実生活するとなると自分自身はとても今は村には住めない

近くにスーパーもないところに住めない、車もないのだから買物だけで苦労になる
今なぜそうした街から離れた所でも住めるのかというと車をみんな持っているからできるのである、だから田舎では車無しでは暮らせないのである
でも私は車がなくてもスーパーが近くにあるからできるのである
原町にも相馬市にも自転車で行っているからなんとか暮らすことができる
鉄道は好きでも利用しない、なぜなら駅から買い物するにも遠くなるからである
そして商品を持つにも重くなり運べないとういこともある、鉄道は仙台市とかに長距離には便利なのである、短距離になると不便になり日常的に利用できないことがある

この辺では原発事故で浪江町でも二万の人口があり小高でも一万の人口があったところが極端に減って廃墟化のようになった、そしてその人達は復興より原町とかに移り住んだ人が多いのである、原町はもともといろいろなものがそろっている、だから便利だから住みやすいとなっていたのである
つまりもうとても復興できない、元の町には戻らないとなりそうなったのである
だからそうなると復興といっても何か見直す必要があるのかとなる
とても元の町に戻らないのに若い人でも帰ってこないのに老人ばかり残って復興できるのだろうかという疑問がある、それは全国でも起きている

だからここでそうして分散して住むことが不効率でありインフラでも金がかかるからあきらめて集住をすすめている、ばらばらに分散するのではなく集中して住む
例えば介護でも田舎は広いから一軒一軒でも回るのが手間になる
でも一か所に人が集住すると回り安いとなる、そして介護というとき隣近所とかが協力すると効率的なのである、車でも相馬市とか原町から娘息子がいても来るとなると手間でありめんどうになるからである
でもすぐ近くで歩いて行けた人が病気で毎日行っていた女性が脳梗塞になり入院した
そしたらその人は自転車にも乗れない、歩いてもその人の所に行けないともなったのである、自分の家にも来れないとなったのである、これもショックである
ただ元気であれば私はその人の所には行くことができる

ともかく今現実問題として理想論ではなく原発避難区域はもう復興自体あきらめるほかないのでないか?
そこにいくら金をつぎこんでも無駄に思えるからである、それで三陸の津波被害の町に対して官僚がジジババしかいない所に税金をつぎこんでも無駄だと本音を言ったのである
私自身は多様な場所でそれぞれ生きることがいいと思っている
いろいろな場所で村があり生活がありというのが実際は国土の利用としてはいいし文化的にも豊かな感覚になる、それが実際江戸時代からできていたのである
それは燃料も炭とかであり自給自足で贅沢していない、電気も水道もない時代だからできていたのである、その時は別に都会の人が田舎の人達に税金を使うことなどなかったから自立していたから良かったのである、都会の人に文句を言われることもなかったからかえってそうして自給自足していた生活を誇りにしていたのである

そして今貧乏になると必ず電気水道ガス代を払えない人が相当数いる、そこで必ずその金がないと嘆いて訴えていたのである、日本が貧困化してくると最低の生活すら維持できなくなっている、昔に戻って自給自足の生活もできない、そうなるとどうしても分散型の生活ができない、だから集住したコンパクトシティとかの発想になる
車は金がかかる、その金も十年二十年と計算すると意外と一千万とかにもなる
都会の人は東京とかるなると若い人は車を持たない、別に車がなくても生活に困らないからである、田舎ではそれができないから車代の出費でも大きいのである

少子高齢化というのも深刻であり人口は減少してゆくだけである、それで未来か描けない縮小してゆく日本にしてもその未来が明確に描けない、徐々に衰退してゆくから明確に見えない、でも原発事故周辺では極端なものとしてその未来が提示されたのかもしれない
実際にゴーストタウンにもなったからである
そうなったときもう復興できない、回復できない状態になっている
そこを復興させようとしても確かに建物が作られたがそこに肝心の人が住んでいないのである、そこで人が住まない限り町でも村でも活きないのである
電気ガス水道がない時代でも人は生きていた、その時飯館村でも山村でも今の二倍の人口があった、それが半減したのである、だから人間は別に電気水道ガスがなくても住めていたのである、でも今のような便利な生活になるともうてきないとなる

未来の衝撃というときなかなか実感できない、でも原発事故の避難区域を見れば実感できる、極端な現象として現実化しているからである、そこでは住民は移住したからである
住んでいる人達は老人が多く学校すら子供がいないのだから成り立たない、立派な施設を作ってもそれを活かせない、人がいなくなっているからである
だからそういうことに金を使って有効だったのかと疑問になる
もちろん私自身は人が住んでこそ村でも活きる、多様な地域があり人が住むことが精神的にも豊かになることだと見る
でも現実を見るとそれができなくなっている、そうしてもらいたいと言っても現実はできなくなっている、でも飯館村辺りでも人が住まないとどうなるのか、元の自然に還るわけではない、そこが政府で放射性物質の廃棄場にしたり何かソーラーパネルとか風力発電の工業地帯のようにされ景観は壊されるのである

もともと原自然があり人間によって作られた第二次自然があり農業などがそういう景観を作って来たのてある、それが里の景色だとなる
だから人が住まないことはそこは元の自然に還るわけでもなく荒廃するのである
人が住んでいればそうしたものに反対する人もいるからできないとなるからである
でも現実問題としてどうしたらいいのかとなるともう維持できないとなる
肝心の人がいなくなったいる、いるのはそこで死んでゆく老人だけだとなる
老人はなかなか移動しにくい、慣れ親しんだ土地で人とともにあり死んでゆきたいとなるでもそれがしにくくなっているのである
ではどうしたらいいのかとなると解決策があるのかとなるとわからないとなる

でも人間は電気がなくても水道がなくてもガスがなくても生きてきたのである
だからそれがなくなっても生活できないとか死ぬということはなかったのである
戦後まもなくは電気製品などないのである、裸電球一つくらいが電気であり車もないし
水道もない、別にそれで死ぬこともなかった、生活は貧乏にしろできていたのである
不思議なのはかえってそれで人口が今の倍もあったということなのである
つまりそれだけの人口を養うものが飯館村であれ山村であったのである
だから人間が生活できない、死ぬとういことは電気や水道やガスがなくてもありえないのである、むしろ原発事故になり空気も土も水でも森林でも汚染されたとき住めなくなったのである、この住めなくなることが人間にとって最大の問題である
気候変動でも住めなくなって人類は移動した、だから農業より狩猟採集民の方が生き残ったという見方もある、食糧のある場所に移動すればいいからである
国境とかない広大な自然がある時その方が生き残ることができるとなる
そうして人類が広大の地球に分散したとなる

相馬市のイオンが閉鎖したことは驚きだった、あそこには休憩所があり食事ができたら喫茶店もあったからである、また中村喫茶店も閉店したことも驚いた
何か相馬市は原町より衰退したのかとみる、原町には何か新しいものができている
松川浦の方には新しいものができている、だから原発事故で原町に移住した人が多いのである

要するに原発事故周辺では集住化が起きた

だからそれは全国でも起きる現象だとなる、そうしないと現代の便利な生活は維持できないからである、貧困化もしているしそうなる
都市そのものが便利な生活するためにできたともなるからである
それがいい悪いにしろ便利な豊かな生活を生活を維持するとなればそうならざるをえないとなる、それに私自身は賛成しているわけではないけど現実を見るとそうなってしまうのである




posted by 天華 at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/189972510
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック