2022年12月07日

冬の日に新田川を下り墓を見る (枯芒、寒椿、冬椿、年暮れむ・・)


冬の日に新田川を下り墓を見る

(枯芒、寒椿、冬椿、年暮れむ・・)

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新田川瀬音ひびきて枯芒

寒椿赤々と散り映えにけり

公園に赤々と散る冬椿

地元住み桜井古墳に木の葉散る

津波跡樹々枯れ残り冬芒

天明の碑ここに残りて冬の暮

ふるさとの墓をめぐりて年暮れむ


二本の木の残りて津波跡社のありと冬の日暮れぬ

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光明真言とは空海の密教から来ている、15万偏というのは唱えることである
光明とは太陽のことである

https://onl.la/vGSkdcq

ここに詳しい、ここに信女とあるのは女性である、天明とあるとき女性個人の墓はないからおそらく僧侶の妻だったのだろうか?信女とあれば女性であり信士となれば男である
ただこの墓からはこれくらいしかわからない、でも天明の碑はあることはある、私の家の近くの神社にもあった、でもあまりみかけないのである
もう一つも年号であるが読めない、文とついている、文とつく年号は多い、天明の後の年号だろう

信女、大姉、院大姉と位が上がっていきます

大姉というのはみかける、でも戦後ではただ寺で戒名をつけてもうけるためになった
だから別に金を払えばどんな戒名でもつけられるとなったのである
ただ大姉となれば本来は武家とかの家の出だったのかもしれない、でもそもそも庶民には墓はなかったのである



新田川は浅い川である、だから瀬音がひびくのである、真野川は意外と長い川であり瀬音がひびくともならないのである
上流の方では浅いからひびくが街中の川はひびかないのである
川でいいのはやはり浪江の高瀬川の方だろう、渓谷もあるからあそこを訪ねる人は多かった、ただまだ立ち入り禁止にもなっていたが自転車では行けるようになった

公園に赤々と椿が散っていた、今の時期では冬椿の方がいいかもしれない
冬椿というとき「城下町相馬六万石や冬椿」こんな感じになる
相馬市と原町の雰囲気は全く違っているのである
原町には歴史を感じないのである、原ノ町駅が機関区なり駅前通りができて栄えた
新しい市という感じである、でも相馬市は駅前通りとかはなく城下町としてあった
だから城があったところから街が形成されたのである
田町通りというのは田があったところであり地名化した、この地名は日本では多いのである、そもそも田だった所が多いからそうなった

新田川の下流の方に行き川畑とかの姓の墓があった、確かに新田川か近いからそういう名前になったのか、これは他にもあるからわからない、ただ川の側の畑も多いからそういう地名があり姓になったことは確かである
戦後まもなく食べ物がなく川の中の空地を畑にしていたのである
それは私の家でもそうだったのである、なんとか食料を得るためにみんなそうなったのである

あそこに二本の木があり社があった、津波にも流されたみたいだが古い碑が積まれてあった、そこに天明の碑を見つけた、これはめずらしいと見た、天明の碑はなかなかない
天明というとき相馬藩が飢饉で三分の一の人口が消失したのである
それがどこに行ったかもわからない、その跡地に欠けた土地に越中とかから移民が入ってきた、それが三分の一だから多いのである、そのために真宗系の墓が多い、それは見るとすぐわかる、なみあぶだぶつと記されているからである
天明は一つの時代の区切りである、それは飢饉があり相馬藩が苦しんだからである
今回の震災も津波の被害もそうである、時代の区切りは何か大きな事が起きた時である
戦争があれば戦後と戦前は全く違ったものになったからである
だから本当は年号でも変えるべきだったともなる、戦前の昭和と戦後の昭和はまるで違った世界になったからである

原町でいいのは食事する所があるからいいのである、道の駅の天丼はうまい、あと高見ホテルの食堂のさしみ定食は安くてもお得になるからいい、最近は・・・食堂の牡蠣と大きな海老のテンプラがうまい、いい材料を使ったいるからいい
六号線は行き安いからそこに好みの食堂があると助かるとなる
ただ食堂は必ず飽きてくるから一人暮らしは最低でも自炊するほかないのである
でも料理はめんどうだからしていない、家事をやるだけで手間なのである
全部一人で家事をすることは手間である、だからプログに書いて後は時間がなくなる
それでコメントにも答えていないのである
今年も暮れてゆくが地震の被害は大きかった、まだ本など片づけていない、もともとこの本が片づけるのに苦労しているのである、捨てる訳にもいかないので困るのである
蔵書となると歳になればたまる、それもその人の人生を語ることになる
どんな本を読んできたのかでその人を知るてががりにもなる
だから良くテレビに出て来る人がいる、学者でも他にもいる、すると書斎が写っている
その本を見るとこんな本を読んでいるのかとみるのである

今年もやはり墓地を墓を見て暮れるとなった、墓は確かに死者を語るものだがその情報が少なすぎるのである、名前くらいしわからないからそうなる
そこで郷土史を調べるには物足りないとなる
戒名くらいでもその人のことはわかりにくいとなる、でも天明の碑は古いから注目したのである

津波の傷痕は依然としてある、でもだんだん薄れてはいる、右田にある津波で流され家の跡の庭の石は見物である、記念として残しているのか?
他にも空家になって残された石がある、立派な石の庭がある、それがもったいないとなる家より何か庭の方が価値あるとみる、石には価値がある
石が好きだからそうみるともなる、何か活かす方法がないかとなる
またいつまでも空家がありそれが片づけられないである、六号線の南相馬市立病院の近くのレストランだったところでもそうである
あれはいつになったらかたづけられるのか、何十年とあるからだ、この空家の問題が全国的である、活用されないなら壊す方がいいかもしれない、なぜなら見た感じが嫌なのである、寂れた感じになるからである、だから何らか活かす方法が必要なのである

でも商売としては今は成り立ちにくいだろう、相馬市の中村喫茶店でも閉店になったかたらである、あそこでなるとは思わなかったからである
コロナウィルスの影響もあったと思うがそもそも商売でも今やうまくいかない時代であるだから誰かが食堂でも始めるとならないのである
戦後まもなくだったら食堂でもバラックのうよなものでも繁盛したろう
私の家の店がそうだった、資本金はほとんどかからない、ただ品物を並べたものだったのである、それでも売れたからである、他の零細な商店でも物を置けば売れたのである
今はそんなことにならない、飲食店で成功することは相当に難易度が高いのである
なんでもそうである、だから銀行では金を貸す人がいないとなっているのである




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津波の跡に残された家の跡

津浪に家は流されぬ
残りしは石の庭
重々しくも重なり残りぬ
そのかたへ山茶花の咲き
野は広々と枯れにけり
その花の母のごとしや
その花の妻のごとしや
ここに家族の暮らしてありぬ
またここを訪ねて我が一人
ありし日を偲びけるかな
津浪より11年の歳月は過ぎぬ

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