2022年12月11日

遺骨の物語 (人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)


遺骨の物語

(人が残すものは何なのかー骨ではない―家族遺棄社会を読む)

●兄の悲惨な人生

人間が残すものは何なのか?
死ねば灰となり骨となる、実際は骨は残らない、灰となり土となる
私の兄の骨は母の実家に埋められた
そのいきさつは兄は中卒で金の卵として集団就職した
私の家には母は後妻になり私を産んだ、兄は連れ子であり私の家には五年しかいなかったでも五年間は幼い時一緒に暮らしていた
だから「あんにゃ」と言っていたのである
でも私の父親は良くしないで母の実家で生活することになった
その時一緒にめい子がいたのだがその人は一緒に生活をしたことがないと言っているのも不可解だった、ただその非情化して育ての親のめんどうも見ず最後に「ひどい娘だわ」と私に言って死んだのである
もともと付き合いもなくなっていたのでその事情はわからない、その母親のことは私の家ではよく思っていなかったからである

でも育ての親なのだから何かあったにしろ病気なのに何の心配もしないというのは理解できなかった、だからこそ五年間一緒に暮らした兄のこともいないとなったのである
何かしら人間が記憶にとどめないという時、その人にとって存在しないものとなる
それは肉親でも起きているのである、親のことはかかわりたくない、知らないとなり
遺骨でも引き取りに来ないとなる、それだけ毒親に苦しめられた人もいる
そういうことが本当に私には理解できないのである
というのは私は特別親に良くされたからである、私は別に無職でも家で引きこもっていても何も責められることがなかったのである、そしてなぜ私が死んでも二人の親のことを思いつづけているのかとなるとやはり60歳まで長く一緒に暮らしていたことにあった
人間はいくら両親でも何でも離れて暮らすと疎遠になり情も喪失してゆくのである
だから子供の時一緒に共に暮らさなければ育てられなければ親とも認識できないのであるそれで犬でも猫でも他の動物でも子供の時に育てられると親だと思ってしまうのである

●お骨をめぐる争いーそれは金をめぐる争いだった

それで普通は子供でも成長して結婚したりすると疎遠になる、愛情でもうすれてゆくのである、去る者は日々に疎しとなるのである、そもそも離れて暮らすと相手の事情すらわからなくなる、その人は離れて全く別な人生を生きるようになるからである
その生活する場所ば違ってくるからである、それで再会したとしてもなかなか話でも通じなくなる、意思疎通ができなくなるのである
だから兄に何が起きたのかわからなくなっていた、でも交通事故で死んだというとき連絡があった、その前に離婚していて何か児童相談所から施設に入ったということでどうするのかということで連絡があった、それも何か事情がのみこめなかったのである
トラック運転手となり小さな会社に入った、その会社では死んだので遺体をひきとった
葬式もそこでしたのである、その後にもめたのである

「お骨はもってゆくな、墓は作ってやる」

こう言われたのである、それも何のことかわからなかった、私は車を持っていないので
自賠とか任意の保証のことがわからなかったのである
どうもその保険金の受け取り人になりたくてそう言ったとなる
実の母が来たので身よりがなくて来たと思っていたのである
それで乞食のようにして来たが私が雇ってやったのだと恩きせがましく言っていたのである、そう言われても私の家では兄に良くしていないから私は嫌で三日位で帰ってきたのである、本当は妻がいてもらえるものだったのである
ところが一週間前とかなのか離婚していたのである、正式に書類を書いて離婚が成立していたのである、でもまだ未成年だから私の母が後見人になった
離婚した原因は借金したとかあり住んでいる団地なのかわからないが追い出されたことにあった
それで母の所へ金をくれと来たことがあったことを思い出した、母は金をやったのである
そして兄の娘は妻の実家にひきとられた、そこには兄がいたからである
それももともと妻の実家とは付き合いがあり交流していたからである、同じ地域でありそうなったのである、私の家では静岡とかなると遠いから何が起きたのかわからなかったのである、人間はとにかくこうして離れてしまうと疎遠になる、そうして突然不幸が起きてもその事情もわからなくなるから困るのである
もし近くに住んでいればそうはならなかったのである、だから人間はいくら親でも兄弟でも離れて暮らすとそれも遠くなると何か事情がわからなくなるのである

そうして兄のお骨は母が背負ってきて母の実家の墓に埋めた、そこで五年間は暮らしたからである、そして墓から今度はお骨を取りだそうとしたら骨がなくなった土になっていたのである、でも実家の墓は長男の人が300万円をめい子にやって「墓を守ってくれ」と言って死んだのである、だから墓参りはしているのである
私は怖くなったので実家の墓参りもしていない、母の実家もまた複雑であり後妻に来た人が継母になりいじめられたのである、そしてその後妻に来た女性も昔の養老院に長く入ったいたのだが眼が見えなくなったり精神的に何かおかしくなった
そして母が様子見に行っていたが死んだ、その骨は約束していた大学病院で解剖されて
骨として自分の家にもたらされたのである
兄の墓は母親の実家から私の家の墓の隣に墓標をたててある、でもその物語を知る人もいない、娘がいたが金でしか関係ないから金が与えた時は来ていたが来なくなった
墓を作ったから10万円やるからと言っても来なかった、あとは一切連絡もない
離れていてもともと疎遠だったからではあるが一応父親だから何か思いがあるのかと見ていたがなかった、ただ親にひどい目にあった被害者という意識しかなかったかとなる
家族遺棄する人はそういう人が多いとなる

●遺骨より人間が残すのは物語(history)だった

一体ここで遺骨のことが問題になった、でも遺骨がそんなに大事なものなのか?
人間は死ぬと結局灰となり土となり何も残らないのではないか?
だからそもそも遺骨にこだわることが理解できないとなる
それで家族遺棄社会では肉親でも親ガチャで育った子供は今遺骨もひきとらないのが多いとなっている、ここに見えるのは遺骨でもそこには依然としてこの世のことがかかわり
必ずしも手厚く供養するとはなっていないのである
そこに人間の欲がうごめき遺骨でも金になるとなればそれを手段にして金をとろうともするのである、この世とはこうして恐ろしい場所である、あらゆることが人間の欲によって翻弄されるのである、カルト教団でも実際は金を収奪するためだとなるのもそうである
ここに人間の欲の恐ろしさがある、要するに骨などどうでもいいとなる
骨をひきとってもそれが金になるわけでもないからである
肉親でもそうなるとき生前に親にひどい目にあっている毒親だったら骨などはいらないとなる、でも遺産があり金が入るとなる引き取ってもいいとかなる
結局地獄の沙汰も金しだいとなっているのである
死ぬまで骨になってもでこの世の欲の対象になっているのである

そもそもお骨などもうそこに何か宿っているわけでもない、海にまくなり土にもなるから維持できない、すると何もなくなるのである、では何が人間に残るのか?
それは個々人の人生なのである、どんな人生を送ったかがその人の一生であり骨をみたってそんなことわからないのである
ふしだらな親だったら子供でもその人を大事にはしない、だからお骨でも取りにこないとなる、もちろん介護などは大変な苦労なのだからしたかくないから捨てるとなる
ただ骨をひきとったからといってそれが苦労になるともならない、でもめんどうだから市役所で処理してくださいとなる
家族遺棄社会となりそういう人達が増えているのである

でも逆に人間は死んでから大切にされることがある、妻が死んでから十年とかすぎても毎日手を合わせて供養している人もいる、他にもそういう人は結構いるのである
家族遺棄社会でもやはり死者を大事にしている人はいる、親を大事にしない人が多くなっているのは確かである、それはやはり時代なのだろう
私は特別二人の親に良くされたから死んでから余計に感謝するようになった
毎日熱いお茶を献げて遺影に向かい話しかけて感謝しているのである
それは特殊な事情があってそうなった、父親が中学の時死んでその後を姉と母が家を守って自分も育ててくれたしその後も60歳までも自由に生かさせてくれた
だから一緒に暮らした時間の長さにもよっていたのである
娘でも結婚して離れてしまうと特に遠くに行ってしまうと疎遠になってゆく、忘れてゆくでも一緒に暮らしているとそこで仲たがいがあったとしても憎んでいたとしてもやはり
愛情が通うようになっていたのである
だから死んでからも忘れられない人、愛される人が家族遺棄社会になってもいる
その親は死んでも実際残された人の中に生き続けるのである
でも毒親となればたちまち嫌なことが思い出したりフラッシュバックになり思いだしたないとなりやがて忘れられるのである

●人間が死んで語るものは何か

いづれにしろ人間は骨になり灰になる、でも実際は人間はみんな消えるわけではない、
残された人の中に生き続けているのである、そういう親とか妻とか夫とかになっている人は幸せだとなる、人間を決めるのは生前の生きざまというか子供でもどういうふうに接したかによる、それは個々に違っているから理解しにくいのである
家族でも十人十色だから理解しにくいのである
ともかく人生の最後に死んでからでもあの人はどういう人だったとか明確になり語られることになる、そして死んでもその人は骨となり灰となるだけではない、語られまた感謝される死者になればその生は無駄だっとはならない
でも親でも思い出したくないとか普通の人でもあの嫌な人が死んでせいせいしたとかなるそういう人も多いのである、近くにいた医者はみんな生きている時は常に語られていた
でも死んだら誰も語らないのである、その医者にかかった人も死んだからだとはなる
その医者は腕が良かったのだが性格的に冷たい所がありそうなったのかとなる
その一人息子も最近死んだから肉親はないないのである

そしてその住居は廃屋となっている、今年の地震で屋根瓦が壊れたが直していないのである、いい庭があるからもったいなとなる、でもそういう空家は多いからここだけのことではない、ともかく人間の一生は骨とかで語られるわけではない、それは結局灰となり土となるだげである、その人の一生を語るのはどういうふうに生きたかによる
そしてその親の子供でも親を思い出す時不快になるというときその親はもう親でないともなる、むしろ親切にしてくれた他人の方が親しい人ともなる
ただ現代は人間も一般的に薄情になっている、だから家族すら捨てる家族遺棄社会になっている、特に介護となると負担が多いためにそうなっているから必ずしも責めることもできない、親に苦しめられた人はどうしても介護することは無理だからである
つまり介護となると気持がないとできない、必ず気持が現れるからしにくいのである

この人のために何もしたくないとなるからである、だから私自身もそのことを経験した
その人は私のために箱一つも持つの嫌がっていたし入院して手術するときも側にいるのもただ座っているのも嫌がっていた、ただ金が欲しいというだけになっていた
これも自分のカルマだったが親でもそうなる、その人のために何もしたくない
とても介護となったら負担なのだからできない、でもお骨などはたいして迷惑もかけないのだから供養はできるとはなる、でもそれすら嫌がるとなる
それもその人の接し方とか生き様とかにかかわっているのである
そのために人間は骨とかがその人を語ることはないし骨などどうでもいいとも見る
それよりどういうふうに生きたとかどういうふうに接したとかが大事になる
だから親子ですらその接し方によって育て方によって他人以下にもなるのである

●事実は小説より奇なりー統計的数字化されるとhistoryは消失する

ともかく人間の一生は本当にそれぞれに事実は小説より奇なりとなる
これは全く架空の話ではない、事実そのものだからである、小説でもないのである
これは小説の題材になるとして事実なのである
つまり歴史はHISTORYでありHI-STORYでありstory(物語)なのである
人間は最後にみんななんでも物語となるのである、個々人の物語となるのである
ただ物語というとき戦争のように3百万に死んだとかあってもそういう歴史の巨大な物語でも何かぴんとこないのである、それだけの人間が死んだら語られるつづけるとしても
何か訴えるものがないのである、もちろん語られることはある、今でも陸軍二等兵だとか必ず軍隊の位を記してある、それは当時にしたら名誉の戦死とかあり誇るものだったからである、それでまた必ず村の神社にも戦争のために祈り出征したのである
 とか記されているからである、でももともと神社は戦争とはみんな関係しているわけではない、だから今になると違和感を覚えるのである、たいがい豊作を祈るものとなっていたからである
 shrain1.jpg

飯館村大倉の神社


 ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である
 ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる
 ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない
 そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ
 人間が被害においてついに自立できず、
 ただ集団であるに過ぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままで あるだろう
 死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである
 人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ
『望郷と海』(石原吉郎)

これはシベリア抑留した人が言っている、その過酷な体験を書いている
つまり人間が統計となり数となったとき個々人の物語は消失する
だから3百万人死んだとか言われてもそれだけの人間が死んでも何か伝えるのかとなると訴えるものがないのである、でも個々人が戦争の体験を語る時は感じることがある
つまり人間は数値化して数化すると生々しい体験でも消失するともなる
例えばカルト教団などでもそうである、そこは一票を得ることしか関心がなく何百万人会員がいたとしてもその個々人のことは語られないし戦争で三百万人死んだと同じである
個々人が消失してただ数だけになるのである、それが非人間的なものとなりナチスと同じようになるのである、現代の危険はあらゆるものが数で処理され数が恐怖となる
でも数を言う割には何かそこに訴えるものがない、だから三百万に死んだからといって
訴えるものがないのである
だからとにかく普通の人でも何も功績もない人でもその個々人を語るとそこに物語をhistyoryを感じるのである、人間が残すのは骨ではない、historyなのである
だから骨がどうのこうのと大事にするのが理解できないとはなる
骨が語るのは単なる成分としてカルシウムだともなるからである



個々人で記録を残すことはインタ−ネットで容易になったが・・・・

今は自伝とかでも家族のことでも別に書いて発表できる、プログなど簡単だからできる
個々の一生を語ることができる、でも今老人になっている人達は80以上とかなるとインタ−ネットなどにうといからほずかしい
ても今や庶民でもいくらでも人生を語ることができるし記録として残すことができる
今でもそうだが自伝で本を出すとかなると百万かかるとかなりできないし書店にも置けなかった
そういうものは売れないからである、そもそも書店でもなくなっている
インタ−ネットなら誰でも何でも書いて発表できるし記録として残る
でも問題はその記録も一瞬にして消えることがあり問題なのである
私がいろいろなことをこんなに気軽に書いて記録しているのは簡単だからである
確かに手間はかかる簡単だからしているのである
普通は家族のことなど書けない、有名な人なら書いて読む人もいるか普通はいない
でも記録として残せば郷土史とかの資料になることは確かである
今なら本でもアマゾンで一冊でも出せるとなっている、それをやろうとしているのだが何かめんどうになりしていない
何か手間だけは省けないのである、それで毎日記事を書くのに時間がとられる
その他家事に時間がとられてできないとなる

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